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常世の国(3)万葉集と橘

常世の国(3)

 常陸国風土記に橘(たちばな)の記載されたところとして行方郡があると書きましたが、もう1箇所香島郡にも書かれている箇所がありました。
香島郡という表記は常陸国風土記のみで使われ、他では「鹿島郡」と一般には表記されています。
653年に行方郡が成立しましたが、香島郡はその4年前の649年に海上国と那珂郡の地域を一部割いて成立しました。
この時に最初に置かれた香島郡の郡衙は、鹿島神宮の北の沼尾神社付近にあったと推察されています。
「この地にある池には鮒・鯉が多くいて、この池の蓮は美味しくて食べると病が治るといわれている」とあり、また
「この地には以前郡衙が置かれていて、橘(たちばな)がたくさんうえられており、その果実は美味である」と記されています。

このように常陸国は行方郡と香島郡の郡衙近くに「橘」の樹がたくさんあったことがうかがえます。
ただ、奈良朝の始め頃には香島郡(鹿島郡)の郡衙は丁度この池(沼尾)とは神宮をはさんだ反対の東南側に移されています。

さて、663年に白村江の戦いで倭国は百済と一緒に唐・新羅連合軍と戦い敗れてしまいます。
その後、九州にこれらの外敵から倭国を守るために防衛軍として防人(さきもり)が派遣されます。
奈良朝になると、東国からも多くの防人が派遣され、常陸国からも一度に200~300人程度の人を徴集して九州に送られました。

この人たちは鹿島神宮で武運を祈り、そこから出立したために「鹿島立ち」などと言う言葉も生まれました。

また、これらの防人は難波に着くと、大伴家持の要請で歌を詠みました。
この行方郡の橘を詠った歌があります。

橘の 下吹く風の かぐはしき 筑波の山を 恋ひずあらめかも
(万葉集:7371番)

作者は占部廣方(うらべのひろかた)の歌で、「天平勝寳七歳(西暦755年)2月、相替(あいかわ)りて筑紫に遣わされる諸國の防人(さきもり)たちの歌」と題が書かれています。
 天平勝宝7年(西暦755年)2月9日に、常陸國の防人を引率する役人である防人部領使(さきもりことりづかい)として息長真人國嶋(おきながのまひとのくにしま)が進上したとされる17首の歌の一つだとされます。

万葉歌碑1
(占部廣方の歌碑:羽生の公民館脇)

占部廣方の役職は「助丁(すけのよぼろ)」で、防人の長「国造丁(くにのみやつこよぼろ)」を補佐する役職でした。

この歌の原文を見てみましょう。

多知波奈乃 之多布久可是乃 可具波志伎 都久波能夜麻乎 古比須安良米可毛

となっており、橘の読み(万葉仮名)は「多知波奈」です。

 これをどう読むかですが、タチバナ、タチハナとどちらも有りでしょう。ただ、「茨城」は倭名類聚抄では「牟波良岐」となっており、ムバラキ(またはウバラキ)と読むと考えられます。
古代(万葉の頃)の発音は、今とは違う発音も多くなされていたようで、「波」も「BA:バ]ではなく「PA:パ」または「FA:ファ」といった発音であったとの解釈もありますので、それが何時、どのように「タチバナ」と変って行ったのかは不明です。
では平安時代の辞書である「和名抄」の地名からの変化を見て行きましょう。

1) 倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう) 略称:和名抄 (わみょうしょう)
承平 年間( 931年 - 938年 )に源順 (みなもとのしたごう)が編纂。
平安時代の辞書といわれる。ここに当時の国名、郡名、郷名が載っている。

常陸国は東海道の国に分類され、五畿内と隣りあう伊賀国から始まって最後が常陸国となる。
常陸国には
郡名:新治(爾比波里)、眞壁(萬加倍)、筑波(豆久波)、河内(甲知)、信太(志多)、茨城(牟波良岐)、行方(奈女加多)、鹿島(加未之)、那珂、久慈、多珂 とある。

また茨城郡には
夷針、山前、城上、島田、佐賀、大幡、生國、茨城、田舎、小見、拝師、石間、安食、白川、安候、大津、立花、田籠
とあり、「立花」と漢字で書かれています。
これは郡・郷の名前は二文字とするようにお達しが出ていたため、「橘」 ⇒ 「立花」となったものと考えられます。

2) 地名大辞典
地名の大辞典は過去の博士などの有名なものもあるが、一般向けにまとめられた次の2つの大辞典が有名である。
・角川書店:角川日本地名大辞典 8茨城県 S58.12.8発行
・平凡社:日本歴史地名体系 8 茨城県の地名 1982年11月4日 発行

この2社の内容はそれぞれに特徴があり、古代、中世の地名などについては角川書店が詳しいが、元禄郷帳(1702年)、天保郷帳(1834年)、1882年地方行政区画便覧、1889年市町村制施行、1953年町村合併促進法などでの変化を見るには平凡社が秀でている。
また、旧小字名一覧などは角川書店版にほぼ網羅されている。

橘・立花についての角川書店版の内容をここに少し紹介しよう。

古代:立花郷(たちばなごう)
 平安期に見える郷名。「和名抄」常陸国茨城郡十八郷の一つ。「新編常陸」によれば、羽生に橘明神という社があるといい(現在の橘郷造神社か?)、当郷を江戸期の「羽生・沖須・八十蒔・谷島・浜・捻木・倉数・与沢・山野・幡谷・外ノ内新田・花園新田等ノ十二村」にあてている。

中世:橘郷(たちばなごう)
 平安末期~室町期に見える郷名。常陸国南郡のうち。「和名抄」の立花郷にほぼあたる。鹿島社領。・・・・・とある。
この地は鎌倉時代を中心に鹿島神宮の領地として寄進された地域である。

近世
・立花村(明治22年~昭和29年):羽生・八木蒔・沖洲・浜の4ヶ村が合併・・・現行方市
・橘村(明治22年~昭和29年):与沢・山野・幡谷・川戸・外之内・倉数の6ヶ村が合併・・・現小美玉市

上記の「立花も橘も共に古代からの郷名から名付けられており、ともに「タチバナ」という。
現在は2つの自治体に分かれてしまっているが、ともに古代の「タチバナ」であり、恐らく橘の樹が多く生えていたことと思われます。
古代の理想郷の「常世の国」の「時じくの香くの木の実」はこの地にあったという考え方も成り立つのではないでしょうか?
古墳時代に垂仁天皇は、常世の国へ行っての「時じくの香くの木の実」を取ってくるように命じました。
当時どのような人々がこの地に棲んでいたのかは良くわかりません。
しかし、三昧塚古墳や沖洲古墳群が点在するこの地「橘郷・立花郷」から霞ヶ浦周辺は食べ物も豊富で、水もあり、霊峰筑波山が姿をくっきりと浮かべ、日が沈むときには筑波山は真っ赤に萌えます。

そして、歌垣で男女が集い、恋の花を咲かせていたことも想像に難くないでしょう。

「常世の国」シリーズを最初から読むには ⇒ こちら


常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/06 09:10
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