常世の国(7) 徐福はどこへ

今回の常世の国は遠く離れた中国の紀元前3世紀の話を紹介しましょう。
中国では紀元前90年ころ(前漢時代)に、司馬遷により膨大な歴史書である「史記」が書かれています。
古代中国では日本の「常世の国」といわれる不老不死の理想郷と同じように、東方の渤海(ぼっかい:遼東半島と山東半島の間にある内海状の海域)の先にある神仙が住む島で、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)の三神山があると信じられて来ました。
この中で「蓬莱山」がもっとも有名になって日本にも伝わってきています。
前回書いた「浦嶋子」伝説も、浦嶋子は舟で竜宮城ではなく「蓬莱山」にいったとなっていますから、奈良朝初め頃は常世の国=蓬莱山とも考えられていたのかもしれませんね。
日本最初の物語といわれる「竹取物語」(平安時代前期成立)でもかぐや姫に求婚してきた5人の貴公子にそれぞれ難題を出しますが、その5人の中の一人「車持皇子(くらもちのみこ)」にだされたのが、「東方の海上にあるという蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)をもってくるように」と言うものでした。
車持皇子は3年かけて蓬莱の玉の枝というものを探し出して、姫のところへ持ってきます。
しかし、そこに1000日もかけて玉の枝を製作したのにまだ報酬を貰っていないという職人が名乗り出て、これが偽物だとばれてしまいます。まあ、この竹取物語での理想郷は「月」なのかもわかりませんが、中国の理想郷は蓬莱山であるということは日本に伝わっていた事は明らかですね。
さて、中国の紀元前に書かれた歴史書「史記」の中で、徐福(じょふく)という人物が登場します。
秦の始皇帝の時代です。
当時、占いや役、気功術などをあやつる修験者のことは「方士(ほうし)」と呼ばれていましたが、この徐福はこの方士の一人でした。方士という呼び方は紀元前3世紀ころから紀元5世紀ころまでで、道教が浸透してからは一般には「道士」と呼ばれるようになりました。
史記には次のように書かれています。(Wiki.より)
『又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。』
(現代語訳)
『、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかった』(Wiki.より)
このように、始皇帝に不老不死の妙薬を見つけてきますと言って、3000人もの男女に民に多くの技術者を連れて、船出したが、この神山には到達せず、広い原の地に至り、そこの王様になって、とうとう秦国には戻らなかったというのです。
さて、この話の時代ですが、資料に寄れば紀元前210年です。
しかし、この前の紀元前219年に一度徐福は徐福(徐氏:じょふつ)は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけて、援助を得たが、7年後に「蓬莱に行けば仙薬が手に入ることがわかったが、大鮫に邪魔され辿り着けなかった」と始皇帝に報告した。
そして、今度は「多くの男女の若者と技術者たちを連れてもう一度仙薬を手に入れてきます」と言葉巧みに申し出たようです。
そして、紀元前210年に上記ような大人数の船団を組んで出航したようです。
当時の始皇帝の絶対権力は甚大で、徐福などは命令には逆らえなかったようです。
この徐福という人物についてもさまざまな意見があるようです。
・本当はイスラエル(ユダヤ民族)の栄光ある消えた古代民族の一つの子孫
・始皇帝が滅ぼした斉の国の皇太子であった。(斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身)
・想像された人物で実際にはいなかった。⇒ どうもこれは今では否定されており、実際に存在したとされている。
さて、3000人もの人数が船にのって出航するというのは、当時どの程度の舟があったかは良くわかりません。
倭国が中国へ正式に使者を派遣したのは、西暦600年の第1回遣隋使派遣です。
それより710年も前に、舟の建造技術がどの程度であったのか? 私は良くわかっていません。
3000人もの人々が、途中波にさらわれ、あちこちの島々にバラバラに到着したかもわかりません。
徐福は台湾、韓国、日本などにたどり着いてそこの王になったという考えがあり、中国では日本に渡ったとする伝承がかなり強くあり、この考えが日本にも伝わって、日本の各地に徐福伝説が残っているのかもしれません。
(日本における徐福の伝承)
1、熊野(現在の三重県熊野市):波田須駅付近には徐福ノ宮があり、ここは徐福が持参したすり鉢がご神体という。
2、和歌山県新宮市:徐福の墓とされるものがあり、徐福公園が造られている。
3、福岡県八女市山内(童男山古墳)
4、その他、佐賀県佐賀市、京都府伊根町、長野県佐久市(蓼科山)・・・・・鹿児島~青森 の各地に多くの伝承が残されています。
年代からか、日本の天皇家の祖であるという説もあるようです。
また、もう一つ日本で注目を集めているのは日本における渡来人集団である「秦(はた)氏」の存在です。
聖徳太子の頃の秦河勝を筆頭とする秦氏は、自ら秦の始皇帝の末裔であると称しており、秦国から百済(または新羅)を経由して日本列島(倭国)へ渡って来たと見られています。
秦河勝(はたの かわかつ)は、世阿弥の『風姿花伝』によれば、河勝は申楽(猿楽)・能楽の始祖とされています。
仏教における宿神、摩多羅神などとの関係も気になる所です。
また、644年に富士川である虫を「常世の神」として祀る信仰が流行し、河勝はこれを滅ぼしていることも、この「常世の国」とのブログテーマですので、一言書き加えておきます。
いろいろな情報が山盛りですが、ここは整理も必要ですので、一旦この話題は終了とします。
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