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鳥羽の淡海

 最近少し真面目に読み始めた「常陸国風土記」だが、読み進めるに従っていろいろ疑問点が見つかってきた。
気がついたときにメモしておかないと後から探すのにも苦労すると思うので、このブログにメモ代わりに書いておきたいと思う。
最後は何かの形で書籍化をする予定だ。

今回は「騰波ノ江(とばのえ)」について
 この騰波ノ江は、風土記の「筑波郡」に出てくる。
「郡の西十里に騰波の江在り。長さ二千九百歩、広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡、南は毛野河、西と北はともに新治の郡、艮(うしとら:東北)は白壁の郡なり。」

また、その風土記が書かれた時にこの常陸国にいたとされる万葉歌人の高橋虫麻呂は当時筑波山に登って、次のような歌を詠んだ。

   草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと
   筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
   師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
   新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ
   筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に
   思ひ積み来し 憂へは止みぬ

この新治の鳥羽の淡海が、「鳥羽の淡海=騰波の江」だ。

この「淡海」は「うみ」「おうみ」などと読まれるが、京(奈良・京都)から琵琶湖のことを「近つ淡海」、浜名湖のことを「遠つ淡海」と呼んでおり、大きな湖を指しての言葉だった。
また、この「遠つ淡海」は「遠江(とおとうみ)」となり、淡海は「江」とも表現された。

風土記を読んでいると、これらの区別を少しずつ理解しておかないと、解釈が違ってしまうこともありそうだ。

少し言葉を整理しておこう
・大海 ・・・ 平洋などの海
・淡海(うみ、おうみ)、江 ・・・ 現在の湖(淡水湖)
・○○の流海 ・・・ 霞ヶ浦(昔は海水がかなりおくまで流れ込んでいた気水湖)
・津・・・舟着き場(湊)
・湖(みなと) ・・・ 川の河口付近(水戸のこと)
  :香島郡に「安是の湖」(銚子に近いところ)
  :香島郡に「阿多加奈の湖」(涸沼から那珂川河口付近)

まずはこんなところだろうか?
この鳥羽の淡海の南端部は「下妻」だが、この「妻」もこれらに何か関係した言葉なのだろう。

少し地図に鬼怒川や小貝川などを書き込みながら当時の川の様子を想像してみている。

筑波郡地図12

この鬼怒川は風土記の書かれた頃は「毛野河」で、この毛は昔の「毛国」を流れる川の意だった。
毛国は上下に別れ、上毛野国、下毛野国となり、2文字にする通達により、「上野(こうずけ)国」と「下野(しもつけ)国」になった。

2000年程前は、この鬼怒川は現国道125号線近くを西から東に流れ、小貝川と下妻の辺り(現:小貝川ふれあい公園)で、合流していたという。
またもっと昔は、この流れが現在の土浦市を流れる桜川に流れ込んでいたこともあったらしい。

現在の鬼怒川は守谷市あたりで利根川に合流し、小貝川はもう少し下流の利根町あたりで利根川に合流している。
この利根川は江戸時代に家康から3代にわたって東京湾への流れを銚子方面に人工的に付け替えたことはよく知られているが、この鬼怒川や、小貝川もこの流れの変更により大きく変化されているようだ。

江戸時代前は鬼怒川は守谷市手前辺りで小貝川と合流し、牛久沼の方に流れていた。
江戸時代の利根川東遷事業に伴ない、この守谷市付近で鬼怒川の流れを利根川まで掘削して流れを付け替える工事が行われた。
また、小貝川も牛久沼の先から霞ヶ浦に流れ込んでいたものを今の利根町あたりで利根川に流れを付け替える工事が行われた。

これは水害防止もあったが、船での物資運搬も考慮されたと思われる。

この鳥羽の淡海もいつ頃まであったのか、調べたがわからなかった。いつの間にかいくつかの沼になり、自然と湿地帯が広がっていき、そして最終的には江戸時代になって大規模な干拓が行われたようだ。



常陸国風土記と共に | コメント(2) | トラックバック(0) | 2023/03/01 15:46

風土記とクジラ

 常陸国風土記を読み勧めていくと、クジラの話が何箇所かに出てくる。
このようなことも少しまとめておけば当時の様子も見えてくるかもしれない。
とりあえず気付いた箇所の3箇所です。

行方郡
1) 郡の西に津済(わたり)あり。謂はゆる行方の海なり。海松、及塩を焼く藻生ふ。
  凡て、海に在る雑の魚は、載するに勝ふべからず。
  但、鯨鯢の如きは、未だ曾て見聞かず。
  ・・・・当時内海で海水が流れ込んでいた霞ヶ浦にはいろいろな魚類がいるがクジラはいなかった。

  ただ、土浦などの貝塚ではクジラの骨が見つかっており食用にしていた時代も昔はあったと思われています。
  この漢字の鯨鯢はそれぞれ単独でもクジラと読みますが、鯨は雄、鯢は雌のクジラを指すようです。

2) 男高の里あり。・・・・南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、葡匐(はらば)ひて来り臥せりき。

  鯨岡の地名由来として、「太古の昔に鯨が浜にはいつくばって死んでしまったことからその名前になった」と書かれています。
 しかし、この鯨岡という地名は今近くにありません。そこで、この場所の候補地として言われているのが次の場所です。

 このブログの後半でここを紹介します。

久慈郡
3) 郡より以南、近く小さき丘有り。体、鯨鯢に似たり。倭武の天皇、因りて久慈と名づけたまひき。

  ・・・確かに今でも鯨に似ていると言われれば、そんな岳は存在する。
 茨城県内の地名にクジラと付くのは、現在の郵便番号簿では次の3箇所です。
 勿論昔の字名などではたくさんあると思います。
  ・茨城県石岡市鯨岡 イバラキケンイシオカシクジラオカ
  ・茨城県下妻市鯨     イバラキケンシモツマシクジラ
  ・茨城県筑西市久地楽 イバラキケンチクセイシクジラ

 さて、2番目に書いた行方郡の「鯨岡」ですが、国道355号線を石岡の方から霞ヶ浦に沿って南(東)下して、行方市に入り、玉造を過ぎ、男高に近い旧麻生町に近い「橋門(はしかど)」という場所にあります。
この国道沿いに小さな小山があり、その上に祠がおかれています。

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案内版には「橋門の阿弥陀様」と書かれています。

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この国道側から上に登る階段がありますが、上にある社の向きは右手を向いており、そこに手水舎らしきものもあります。

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この右手側も広場となっていて、こんな感じですので、恐らくは昔はこちら側からお参りに上ったものだと思います。

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阿弥陀様となっていますが、この社の中は写真のようないくつかの石の板碑などが置かれています。
説明板に書かれているようにこの板碑に阿弥陀像が彫られているのかもわかりません。

説明にもありますが、この小山はどうみても古墳ですね。

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祠の建設時に古墳がけずられてしまっていますし、恐らく国道建設時にも古墳の一部が削られているかもわかりません。

鯨岡と言う名前は地名では残っていませんが、この場所の北東の近隣に「公事塚古墳群(くじつかこふんぐん)」という古墳群があったという。しかし、そこは砂利採取場として崩されてしまったという。

またこの橋門(はしかど)地名も気になりますね。入り江にでもなっていたのでしょうか。

さらに、直ぐとなりが「於下(おした)」と言う場所です。
ここでは於下貝塚があり、犬の骨がバラバラに見つかり話題にもなった場所のようです。

常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/02 13:00

大内カッパハウス

 先週の木曜日は天皇誕生日で休日だったが、仕事でまた銚子に出かけた。
久しぶりの休日の銚子であったが、途中であちこち散策していて、銚子についたのは昼少し前の11時半頃。
ランチもあり、仕事に間に合わせると30分ほどしか余裕時間はない。

でも念願の「大内カッパハウス」に行く事にした。
休みの日にしか開いていないが・・・・・・
確かにいつもはしまっている入口扉は開いている。

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しかし、この内側にも扉があり、営業中などの札もない。
恐る恐る扉を開けると目の前に受付があるが誰もいない。
声を書けると展示場の奥から声がして館長さん(相馬さん)が表われた。

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写真撮影の許可をお願いすると、2階にカーテンの掛かった絵があるが、これ以外は撮影OKだとのこと。
また3階まであり、そこからデッキにでると港が見えると・・・。

1回にもごちゃごちゃと展示物が所狭しとあったが、まずは2階へ。
この階段途中にも絵や河童グッツがいっぱい並んでいた。

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1階から2階への上り階段途中にもまさに河童のオンパレード

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このような日本全国で売られている河童のみやげ物らしきものがいっぱい。
これも昔銚子市長をされた大内さんがあつめられたもののようだ。

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この下の写真にある絵だけがカーテンがかけられていた。
中には有名なモナリザの絵があった。
これを見た人に不幸が続けて起きたためにこのようにカーテンで覆っているのだとか・・・。

確かにこの近くには妖怪物のいろいろなものが並べられて「妖怪博物館」となっていた。
人魚のミイラとか一つ目の頭のミイラなど並べられていた。

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さて、3階もあるというので、狭い階段を上る。

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3階は部屋はなく、狭い廊下と外側にバルコニーのようなスペースがあり、外がよく見える。

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階段途中も多くに絵などが並べられていた。

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ここからは銚子漁港がよく見える。
椅子も置かれているのでのんびり外を河童をながめながら見るのも良いが時間がなく急いで下へ。
この隣が「鈴女」という料理屋さんだが、相変わらず休みの日などは込み合っていた。
まあランチにはいつも並ぶほどの時間がないので最近はご無沙汰が続いている。

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1階の正面に小川芋銭の絵や本などがまとめておかれている。
牛久の河童の絵で有名ではあるが、ここ銚子も芋銭のゆかりの地なのだ。
高浜(石岡)の笹目氏の別荘に逗留していろいろと作品を残している。

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銚子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/02 14:55

鹿島神宮(2) 沼尾神社

 常陸国風土記の香島郡の最初の方に、
「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」
と書かれています。
現在の鹿島神宮の摂社である「坂戸神社」「沼尾神社」に「鹿島神宮」を3つ合わせて一体と見ています。

前にも訪れたことがありますが、これらの沼尾神社、坂戸神社、鹿島神宮と香島郡の郡家跡は一直線にほぼ等間隔に見事に並んでいます。そして鹿島神宮の拝殿の向きもこの方向と一致しています。
そのためもう一度これらを順番に見ていこうと、先月の銚子へ行く途中に立ち寄りました。
でもやはり時間がなく、2回に分かれてしまい、ここにUPするのも遅れてしまいました。

まずは一番北の沼尾神社から紹介します。

この沼尾神社の周りは、奈良時代には大きな沼(池)があったようです。
現在この神社の南西側に広く田が開けた場所(田谷沼)がありますので、ここあたりでしょうか?
この田谷沼の西側の北浦沿いには「塚原卜伝の墓」と長吉寺というお寺があります。

常陸国風土記にも、
「北に沼尾の池あり。古老の曰へらく、神世に天より流れ来し水沼なり。生ふる所の蓮根は、味気太異にして、甘きこと他所に絶れたり。病める者、此の沼の蓮を食へば、早く差えて験あり。鮒・鯉、多に住めり。前に郡の置かれし所なり。多く橘を蒔う。其の実味し。」
とあります。

香島の郡家が以前、この沼尾の地にあったが、この風土記が書かれた時にはすでに移された後だったことがわかります。
郡家が初期に置かれた場所にはこのように大切な池(沼)があり、食べるものの豊富で、灌漑用としても稲作にも優位な場所だったことが伺えます。

場所はサーカーの鹿島スタジアムの少し北側です。
神宮から行くと、県道245号線(鹿嶋-鉾田線)の「鹿嶋学園」の先の細い道を左(西)に入っていった先にあります。
その道を西に真っ直ぐ入っていくと、そのままこの沼尾神社入口にいきます。

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木々に覆われた真っ直ぐな参道が続きます。

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この入口の鳥居の近くに車は停められるようですが、私は手前で停めてこの参道を歩いて向かいました。

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沼尾神社はこのように樹叢に覆われていました。

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裏側にはこじんまりした本殿がありました。

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さて、説明にもあるとおり、この神社の祭神は香取神宮の神である「経津主神」なのです。

これらはもう少しじっくり考えてみる必要がありそうです。
次回は坂戸神社を紹介します。


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/03 11:11

鹿島神宮(3) 坂戸神社

 常陸国風土記に「香島の天(あめ)の大神」と書かれている鹿島神宮の社を北から順に巡ってみました。
最初に経津主神を祀る「沼尾神社」を紹介しました。
今回は坂戸神社です。

場所は沼尾神社と鹿島神宮のちょうど中間あたりにあります。

沼尾神社も、坂戸神社も県道鹿嶋-鉾田線の西側にあり、鹿嶋サッカースタジアムに近い場所になります。

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県道側から西に入ると、沼尾神社はそのまま参道となり正面に神社の拝殿が迎えてくれるのですが、こちらの坂戸神社は正面ではなく、左を向いています。
要するに、鹿島神宮の方を向いているのです。
この辺りにあるはずだと近くに行って初めてその木々の茂みに神社の存在が分かり、手前の道を少し回って神社の鳥居のところに横から入ります。

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こじんまりした拝殿の後ろに少し大きな本殿があります。

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沼尾神社と同じように樹叢に覆われていますが、こちらの方が少し新しい感じがします。

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こちらはすぐ近くにある社なのですが、何に使われているのか・・・

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祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)です。
これはこの鹿島神宮の祭司を務めた家でもある中臣氏の祖神です。
中臣という名前も天の神と人との間を取り持つ(占い等で)という意味だと勝手に解釈しております。
勿論中臣鎌足が最後に「藤原氏」を賜って、後の藤原氏全盛時代が来て、春日大社を建立したことはよく知られています。

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私は各地の神社を訪ねていますが、御朱印にはあまり興味がないのですが、この三社をまとめた御朱印も鹿島神宮の方でいただけるようです。


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/05 09:44

鹿島神宮(4) 神宮本殿

 香島の天の大神は「沼尾神社」「坂戸神社」「鹿島神宮」の3つを一つにして常陸国風土記で呼ばれているわけですが、これは現在の鹿島神宮の成り立ちにも大きく係わっていると考えられます。
そこでこの三社を順に回ってみているのですが、時間もなく見てまわるだけでも何かを感じないか・・・・・・・

今回は神宮を駆け足状態で見て来ました。

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香取神宮と違って、入口に無料の駐車場が無く、ほとんど1日いくら(殆んどのところが500円?)というところばかり。
平日はそれ程混雑はしていませんが、ここまでまわってきた沼尾、坂戸神社などと比べれば大違いで、やはりにぎわっていました。
入口の大鳥居は東日本大震災の時に倒壊して、その後境内の木を使って再建されたものです。

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鳥居をくぐると其の先に朱色の柱が目立つ大きな隋神門があります。

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結構立派ですね。
2階建てですからお寺で言えば阿吽の仁王像がいる楼門となるのでしょうが・・・

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 門をくぐってすぐ右側に拝殿と裏に本殿が並んでいます。
今は補修工事中で布がかぶされていました。

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本殿横にあるのは確か三笠社?
こちらは違いますね。本田の左側に比較的小さな社があるのが確か三笠社だったと思います。
この三笠社もとても気になります。
古くからあり意味合いがあると思うのですが・・・
奈良の三笠山(春日山、若草山)と関係しているのでしょうか?
藤原(中臣)氏は768年に春日山に春日神社を建立して「武甕槌命」を祀り、神鹿を奈良公園に置いた。
このときこの鹿島神宮から鹿が奈良まで運ばれた。

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こちらは門から入って正面近くにある仮殿。
徳川家康が1605年に本殿を寄進し、1618年に、徳川2代将軍秀忠がこの仮殿を造営しました。
そして、神宮の神様をこの一旦この仮殿に遷し、家康が寄進した本殿を奥宮として現在の奥宮の位置に曳いて行ったのです。
その後現在の本殿を造営し、完成したのは1619年だそうです。
この仮殿も、江戸時代には楼門を入った真正面にあったそうです。その後2回の移動で現在の場所となったと書かれていました。

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もう一つ気になる社があります。
高房社です。比較的小さな社ですから、観光で訪れる方もあまりこちらに足を止める方も少ないようです。

しかし、常陸国風土記を読み、タケカシマが水戸以北の進出に手こずり、建葉槌神の助けを借りたことを知れば少しわかってくるのではないでしょうか。
私も大甕神社に行ってこの関係がようやく理解されるようになりました。
大甕神社には星を信仰する部族である「天香香背男(あめのかかせお)」とこれを成敗した建葉槌神が祀られています。
ですから、神宮の案内版にも「古くから、まず当社(高房社)を参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。」と書かれています。

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さて、上の鹿島神宮の配置図は、神宮のHPから借用しています。
(図はサムネイルですから、クリックすれば拡大写真が見られます)
この配置を見て、違和感をもたれる方はあまりいないのでしょうか?
私はもう大分前になりますが、最初に訪れたときから気になっています。
一般的に神社は鳥居をくぐって、参道が続き、その参道の先に神社の拝殿、その裏に本殿となっていて、参道側から拝殿の向きは正面におかれている場合が多いと思います。
しかし、この鹿島神宮は参道から右手に拝殿、本殿とあり、拝殿の向きが北から少し西側を向いています。
これは奥宮も同じです。

先に紹介した沼尾神社、坂戸神社の方向を向いているのです。
(神社の社務所の裏手には「坂戸社・沼尾社遥拝所」という場所もあります)
これについてはまたもう少し後で地図で検証してみたいと思います。

次回はこの配置から見つけ出された香島郡の郡家跡を紹介します。


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/06 11:08

鹿島神宮(5) 郡家跡

 古代香島郡の郡家は一体何処にあったのだろうか?
常陸国風土記には香島郡のところで
「香島の神の南に郡衙がある。また北には沼尾の池がある。
・・・・・・この沼尾の地は以前郡衙の置かれていた所である。」
と書かれている。

すなわち、鹿島神宮の南側に郡衙があったことはわかっていた。
神宮の南側は「宮中」という地名が広がっている。

じつは、香島の天の大神といわれる「沼尾神社、坂戸神社、鹿島神宮」三社の位置が並ぶように置かれているのですが、これをさらに南へ延ばしていくと今回説明する香島郡の郡家跡にたどり着くのです。

昭和54年度から63年度にかけて大規模な発掘調査が行なわれ郡家の跡である事が確認され、昭和61年に郡庁と認定され、「鹿島神宮境内附郡家跡」として国の史跡に登録されました。

この郡家跡は「神野向(かのむかい)遺跡」と呼ばれています。

国の史跡登録は「鹿島神宮境内」「沼尾神社境内」「坂戸神社境内」とこの「郡家跡=神野向遺跡」を全部まとめての指定となっています。そしてこれらの史跡が一直線にほぼ等間隔に並んでいるのです。

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この「郡家跡=神野向遺跡」の範囲は結構広く、かなり広大なものであったと思われます。
近くには住宅地も広がっており、看板も2箇所に立てられています。
1箇所目は郡庁のあった場所で、正殿などの建物が建っていた場所です。

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前殿と正殿の2つの建物の周りに、54m四方の回廊がめぐらされていたようです。
今では配置がわかるように、このような目印の赤い缶が置かれています。

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ここから南側には空き地が広がっています。

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ここまでが北側にある正殿などの遺跡群。
更に空き地の南側にもう一つの立て看板があります。

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このあたりには穀物などを保管する正倉が25棟から30棟くらい置かれていたようです。
恐らく高床式の木造の倉庫だったと思われます。

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発掘された瓦の量が少なく、正倉の屋根はほとんどが萱葺きで1~2棟程度が瓦屋根だったのではないかと推定されています。
これは筑波郡の郡衙である「平沢官衙」でも同じでした。

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この100m~150m四方の間に25~30棟の正倉棟が並び、その周りを巾4mほどの溝がめぐらされていたようです。
この場所はかなり広く残されており、家を建てたりする制限が設けられたのでしょうか。
大変貴重な遺跡だと思われます。

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では次回この近くにある「跡宮」を紹介してから全体の配置を考えて見たいと思います。

常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/07 07:56

鹿島神宮(6 )跡宮

 鹿島神宮近くに「跡宮」という場所があるのをご存知ですか?
大生神社とは違います。大生神社は「元宮」などと呼ばれていますね。

場所は昨日紹介した「郡家跡:神野向遺跡」の丁度真西方向です。
鹿島小学校の脇の道を真直ぐに南に行く進み、高台の台地の先端部分です。
住所は「神野」です。

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現在はこの道も下へ降りて続いていますが、恐らく昔はこの下は一の鳥居のある大船津から水辺が広がっていたと思われます。

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跡宮はこの処をしたには降りずに、右手に曲がった所にあります。
このような鳥居があるのですぐわかると思います。

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少し行った所に神社がありますが、その手前に広場に木柵で四角く囲まれた場所があります。

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ここが跡宮といわれる場所でしょう。
ただ説明にもありますが、香島の天の大神がここに降り立った場所でもあり、鹿島から春日山にタケミカヅチの御分霊はここから飛び立ったといわれる場所です。

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説明にあるとおり、「物忌(ものいみ)」と呼ばれた巫女が住んでいた場所だそうです。
物忌は汚れ無き少女を亀も甲羅で卜して選んだそうで、少女の時から一生男子禁制の場所で過ごしたようです。
記録では全部で27人といいますので、それ程多くに人ではありませんが、一生を奉仕に捧げたそうですので大変なことだと思います。

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直ぐ横に、神社としての「跡宮」があります。

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ここは鹿島神宮の摂社の一つですが、地形を見ると、一の鳥居のある大船津にも近く、防人たちの「鹿島立ち」したのもこのあたりから下に下りて船で伊勢、奈良、大坂などに向かったのでしょう。
神野向遺跡とは東西関係にありますが、比較的近い場所でもありどのような関係にあったのかは大変興味をかんじる場所でもあります。

次回はここまで書いた香島郡の遺跡などを地図でその位置関係などを見てみたいと思います。


常陸国風土記と共に | コメント(2) | トラックバック(0) | 2023/03/07 22:12

鹿島神宮(7)拝殿の向き

 香島の天の大神の関係を追いかけてきて、やはりこれらの神社などの向きが気になります。
勿論これは鹿島灘や鹿島地方がある台地の方向に関係していると思われますが、一応検証してみましょう。

まず、神宮の拝殿の向きです。

鹿島神宮位置04

このように北北西を向いています。
ただこれも手で書かれた地図であり余り細かく見ても正確と言えるかどうかはわかりません。

鹿島神宮位置01

では、神宮本殿(拝殿)と郡家(神野向遺跡)などの位置関係です。
これも社殿の位置関係などで示していますが、大雑把であり、ほぼ北北西にほぼ等間隔に並んでいるといっていいでしょう。
ただ、前の境内の配置図の方向とは必ずしも一致せず、少しずれています。

鹿島神宮位置02

ではもっと広げて、常陸国一宮(鹿島神宮)と二宮(静神社)を結んでみました。
しかし前の地図の線とは少し方向がずれました。

まあ誤差範囲として大きくくって見ればほぼ同じ方向といえます。
ではこの地図に三宮(吉田神社)を載せると、ほぼこの直線の下にきます。
これも細かな話をすれば正確とまではいえません。

さらに鹿島から水戸方面に進出し、那珂国の国造(くにのみやつこ)に任じられたタケカシマの墓といわれる水戸市愛宕町にある「愛宕山古墳」を書いてみると、やはりこの線の下あたりに来ます。
地図には那珂郡郡家といわれる台渡里(長者屋敷跡)場所も示します。
少しずれはありますがやはり近くにきます。

これも三本の線の角度がみな微妙に違いますので、都合よく線を引いただけかもしれません。
しかし、タケカシマが制圧できなかった天香香背男(あめのかかせお)を倒した、建葉槌神が祀られている常陸国二宮の静神社
もこの鹿島神宮に高房神社が置かれた経緯もどこかでつながりがありそうです。

まあ一般には東北(蝦夷地方)へのにらみを利かせているなどと言われていますので、その程度に思うのも良いでしょうね。

また、三宮の吉田神社も常陸国へやってきた平氏一族がここに進出して吉田氏を名乗り、府中(石岡)の大掾(だいじょう)氏を輩出し、行方二郎、鹿島三郎と常陸国南部を排出した家柄ですので、常陸国には大いに関係があり、大昔に何かあったのかも気になる所です。佐竹氏もこの吉田氏から娘を嫁に迎えて勢力を伸ばしています。

また、石岡の鹿の子遺跡場所から台渡里まで昔の官道が通っていたことも確認されますので、この方向も反対方向ですが意味があるかもしれません。





常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/08 07:43

無量寿寺の今

 親鸞聖人の幽霊退治話で知られた茨城県鉾田市にある「無量寿寺」が火災にあったのは2021年1月21日。
今から約2年前だ。
このニュースを聞いたとき大変驚いたが、その後ここを訪れる機会もなくそのままになってしまった。

昨日、この近くまでより道できたので、ついでに足を伸ばしてみた。

鉾田手前で巴川沿いに川に沿って上流へ向かう。
暫くして見覚えのある無量寺の前に出た。

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手前にある駐車場に車を止めた。
寺の入口には「茨城百景」の大きな石柱が立っている。
その横に今までと変わらぬ説明板が置かれている。何事も無かったかのように。

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上まで100段近い石段を登って、上の山門に到着。

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この門をくぐった直ぐ先に立派な藁葺き屋根の本堂が見えるはずであったが。やはり無い。

無量寿寺01

以前訪れた時はこのように見えていた。

無量寿寺02

そうこのような立派な本堂があった。しかし、・・・

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何もない。隣の母屋側は再建中であったが、まだこの本堂は無いままだ。
右側の仲良し道祖神さんは前と変らず。

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更に左側の親鸞像も無事。

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そして何よりも本堂と共に文化財指定のこの鐘楼塔は無事でした。

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徐々にではありますが、昔の姿に少しで近づいているのを感じます。
親鸞の大切にしていた聖徳太子。その碑も椿の花に囲まれていました。

鉾田 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/09 08:17
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