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鹿島神宮(4) 神宮本殿

 香島の天の大神は「沼尾神社」「坂戸神社」「鹿島神宮」の3つを一つにして常陸国風土記で呼ばれているわけですが、これは現在の鹿島神宮の成り立ちにも大きく係わっていると考えられます。
そこでこの三社を順に回ってみているのですが、時間もなく見てまわるだけでも何かを感じないか・・・・・・・

今回は神宮を駆け足状態で見て来ました。

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香取神宮と違って、入口に無料の駐車場が無く、ほとんど1日いくら(殆んどのところが500円?)というところばかり。
平日はそれ程混雑はしていませんが、ここまでまわってきた沼尾、坂戸神社などと比べれば大違いで、やはりにぎわっていました。
入口の大鳥居は東日本大震災の時に倒壊して、その後境内の木を使って再建されたものです。

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鳥居をくぐると其の先に朱色の柱が目立つ大きな隋神門があります。

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結構立派ですね。
2階建てですからお寺で言えば阿吽の仁王像がいる楼門となるのでしょうが・・・

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 門をくぐってすぐ右側に拝殿と裏に本殿が並んでいます。
今は補修工事中で布がかぶされていました。

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本殿横にあるのは確か三笠社?
こちらは違いますね。本田の左側に比較的小さな社があるのが確か三笠社だったと思います。
この三笠社もとても気になります。
古くからあり意味合いがあると思うのですが・・・
奈良の三笠山(春日山、若草山)と関係しているのでしょうか?
藤原(中臣)氏は768年に春日山に春日神社を建立して「武甕槌命」を祀り、神鹿を奈良公園に置いた。
このときこの鹿島神宮から鹿が奈良まで運ばれた。

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こちらは門から入って正面近くにある仮殿。
徳川家康が1605年に本殿を寄進し、1618年に、徳川2代将軍秀忠がこの仮殿を造営しました。
そして、神宮の神様をこの一旦この仮殿に遷し、家康が寄進した本殿を奥宮として現在の奥宮の位置に曳いて行ったのです。
その後現在の本殿を造営し、完成したのは1619年だそうです。
この仮殿も、江戸時代には楼門を入った真正面にあったそうです。その後2回の移動で現在の場所となったと書かれていました。

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もう一つ気になる社があります。
高房社です。比較的小さな社ですから、観光で訪れる方もあまりこちらに足を止める方も少ないようです。

しかし、常陸国風土記を読み、タケカシマが水戸以北の進出に手こずり、建葉槌神の助けを借りたことを知れば少しわかってくるのではないでしょうか。
私も大甕神社に行ってこの関係がようやく理解されるようになりました。
大甕神社には星を信仰する部族である「天香香背男(あめのかかせお)」とこれを成敗した建葉槌神が祀られています。
ですから、神宮の案内版にも「古くから、まず当社(高房社)を参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。」と書かれています。

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さて、上の鹿島神宮の配置図は、神宮のHPから借用しています。
(図はサムネイルですから、クリックすれば拡大写真が見られます)
この配置を見て、違和感をもたれる方はあまりいないのでしょうか?
私はもう大分前になりますが、最初に訪れたときから気になっています。
一般的に神社は鳥居をくぐって、参道が続き、その参道の先に神社の拝殿、その裏に本殿となっていて、参道側から拝殿の向きは正面におかれている場合が多いと思います。
しかし、この鹿島神宮は参道から右手に拝殿、本殿とあり、拝殿の向きが北から少し西側を向いています。
これは奥宮も同じです。

先に紹介した沼尾神社、坂戸神社の方向を向いているのです。
(神社の社務所の裏手には「坂戸社・沼尾社遥拝所」という場所もあります)
これについてはまたもう少し後で地図で検証してみたいと思います。

次回はこの配置から見つけ出された香島郡の郡家跡を紹介します。


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/06 11:08
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