鹿島神宮(5) 郡家跡
古代香島郡の郡家は一体何処にあったのだろうか?
常陸国風土記には香島郡のところで
「香島の神の南に郡衙がある。また北には沼尾の池がある。
・・・・・・この沼尾の地は以前郡衙の置かれていた所である。」
と書かれている。
すなわち、鹿島神宮の南側に郡衙があったことはわかっていた。
神宮の南側は「宮中」という地名が広がっている。
じつは、香島の天の大神といわれる「沼尾神社、坂戸神社、鹿島神宮」三社の位置が並ぶように置かれているのですが、これをさらに南へ延ばしていくと今回説明する香島郡の郡家跡にたどり着くのです。
昭和54年度から63年度にかけて大規模な発掘調査が行なわれ郡家の跡である事が確認され、昭和61年に郡庁と認定され、「鹿島神宮境内附郡家跡」として国の史跡に登録されました。
この郡家跡は「神野向(かのむかい)遺跡」と呼ばれています。
国の史跡登録は「鹿島神宮境内」「沼尾神社境内」「坂戸神社境内」とこの「郡家跡=神野向遺跡」を全部まとめての指定となっています。そしてこれらの史跡が一直線にほぼ等間隔に並んでいるのです。

この「郡家跡=神野向遺跡」の範囲は結構広く、かなり広大なものであったと思われます。
近くには住宅地も広がっており、看板も2箇所に立てられています。
1箇所目は郡庁のあった場所で、正殿などの建物が建っていた場所です。

前殿と正殿の2つの建物の周りに、54m四方の回廊がめぐらされていたようです。
今では配置がわかるように、このような目印の赤い缶が置かれています。

ここから南側には空き地が広がっています。

ここまでが北側にある正殿などの遺跡群。
更に空き地の南側にもう一つの立て看板があります。

このあたりには穀物などを保管する正倉が25棟から30棟くらい置かれていたようです。
恐らく高床式の木造の倉庫だったと思われます。

発掘された瓦の量が少なく、正倉の屋根はほとんどが萱葺きで1~2棟程度が瓦屋根だったのではないかと推定されています。
これは筑波郡の郡衙である「平沢官衙」でも同じでした。

この100m~150m四方の間に25~30棟の正倉棟が並び、その周りを巾4mほどの溝がめぐらされていたようです。
この場所はかなり広く残されており、家を建てたりする制限が設けられたのでしょうか。
大変貴重な遺跡だと思われます。

では次回この近くにある「跡宮」を紹介してから全体の配置を考えて見たいと思います。
常陸国風土記には香島郡のところで
「香島の神の南に郡衙がある。また北には沼尾の池がある。
・・・・・・この沼尾の地は以前郡衙の置かれていた所である。」
と書かれている。
すなわち、鹿島神宮の南側に郡衙があったことはわかっていた。
神宮の南側は「宮中」という地名が広がっている。
じつは、香島の天の大神といわれる「沼尾神社、坂戸神社、鹿島神宮」三社の位置が並ぶように置かれているのですが、これをさらに南へ延ばしていくと今回説明する香島郡の郡家跡にたどり着くのです。
昭和54年度から63年度にかけて大規模な発掘調査が行なわれ郡家の跡である事が確認され、昭和61年に郡庁と認定され、「鹿島神宮境内附郡家跡」として国の史跡に登録されました。
この郡家跡は「神野向(かのむかい)遺跡」と呼ばれています。
国の史跡登録は「鹿島神宮境内」「沼尾神社境内」「坂戸神社境内」とこの「郡家跡=神野向遺跡」を全部まとめての指定となっています。そしてこれらの史跡が一直線にほぼ等間隔に並んでいるのです。

この「郡家跡=神野向遺跡」の範囲は結構広く、かなり広大なものであったと思われます。
近くには住宅地も広がっており、看板も2箇所に立てられています。
1箇所目は郡庁のあった場所で、正殿などの建物が建っていた場所です。

前殿と正殿の2つの建物の周りに、54m四方の回廊がめぐらされていたようです。
今では配置がわかるように、このような目印の赤い缶が置かれています。

ここから南側には空き地が広がっています。

ここまでが北側にある正殿などの遺跡群。
更に空き地の南側にもう一つの立て看板があります。

このあたりには穀物などを保管する正倉が25棟から30棟くらい置かれていたようです。
恐らく高床式の木造の倉庫だったと思われます。

発掘された瓦の量が少なく、正倉の屋根はほとんどが萱葺きで1~2棟程度が瓦屋根だったのではないかと推定されています。
これは筑波郡の郡衙である「平沢官衙」でも同じでした。

この100m~150m四方の間に25~30棟の正倉棟が並び、その周りを巾4mほどの溝がめぐらされていたようです。
この場所はかなり広く残されており、家を建てたりする制限が設けられたのでしょうか。
大変貴重な遺跡だと思われます。

では次回この近くにある「跡宮」を紹介してから全体の配置を考えて見たいと思います。
鹿島神宮(6 )跡宮
鹿島神宮近くに「跡宮」という場所があるのをご存知ですか?
大生神社とは違います。大生神社は「元宮」などと呼ばれていますね。
場所は昨日紹介した「郡家跡:神野向遺跡」の丁度真西方向です。
鹿島小学校の脇の道を真直ぐに南に行く進み、高台の台地の先端部分です。
住所は「神野」です。

現在はこの道も下へ降りて続いていますが、恐らく昔はこの下は一の鳥居のある大船津から水辺が広がっていたと思われます。

跡宮はこの処をしたには降りずに、右手に曲がった所にあります。
このような鳥居があるのですぐわかると思います。

少し行った所に神社がありますが、その手前に広場に木柵で四角く囲まれた場所があります。

ここが跡宮といわれる場所でしょう。
ただ説明にもありますが、香島の天の大神がここに降り立った場所でもあり、鹿島から春日山にタケミカヅチの御分霊はここから飛び立ったといわれる場所です。

説明にあるとおり、「物忌(ものいみ)」と呼ばれた巫女が住んでいた場所だそうです。
物忌は汚れ無き少女を亀も甲羅で卜して選んだそうで、少女の時から一生男子禁制の場所で過ごしたようです。
記録では全部で27人といいますので、それ程多くに人ではありませんが、一生を奉仕に捧げたそうですので大変なことだと思います。

直ぐ横に、神社としての「跡宮」があります。

ここは鹿島神宮の摂社の一つですが、地形を見ると、一の鳥居のある大船津にも近く、防人たちの「鹿島立ち」したのもこのあたりから下に下りて船で伊勢、奈良、大坂などに向かったのでしょう。
神野向遺跡とは東西関係にありますが、比較的近い場所でもありどのような関係にあったのかは大変興味をかんじる場所でもあります。
次回はここまで書いた香島郡の遺跡などを地図でその位置関係などを見てみたいと思います。
大生神社とは違います。大生神社は「元宮」などと呼ばれていますね。
場所は昨日紹介した「郡家跡:神野向遺跡」の丁度真西方向です。
鹿島小学校の脇の道を真直ぐに南に行く進み、高台の台地の先端部分です。
住所は「神野」です。

現在はこの道も下へ降りて続いていますが、恐らく昔はこの下は一の鳥居のある大船津から水辺が広がっていたと思われます。

跡宮はこの処をしたには降りずに、右手に曲がった所にあります。
このような鳥居があるのですぐわかると思います。

少し行った所に神社がありますが、その手前に広場に木柵で四角く囲まれた場所があります。

ここが跡宮といわれる場所でしょう。
ただ説明にもありますが、香島の天の大神がここに降り立った場所でもあり、鹿島から春日山にタケミカヅチの御分霊はここから飛び立ったといわれる場所です。

説明にあるとおり、「物忌(ものいみ)」と呼ばれた巫女が住んでいた場所だそうです。
物忌は汚れ無き少女を亀も甲羅で卜して選んだそうで、少女の時から一生男子禁制の場所で過ごしたようです。
記録では全部で27人といいますので、それ程多くに人ではありませんが、一生を奉仕に捧げたそうですので大変なことだと思います。

直ぐ横に、神社としての「跡宮」があります。

ここは鹿島神宮の摂社の一つですが、地形を見ると、一の鳥居のある大船津にも近く、防人たちの「鹿島立ち」したのもこのあたりから下に下りて船で伊勢、奈良、大坂などに向かったのでしょう。
神野向遺跡とは東西関係にありますが、比較的近い場所でもありどのような関係にあったのかは大変興味をかんじる場所でもあります。
次回はここまで書いた香島郡の遺跡などを地図でその位置関係などを見てみたいと思います。
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