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鹿島灘沿い

 常陸国風土記の香島郡については、先日「香島の天の大神」や郡家跡(神向遺跡)などを紹介しました。
今回は、このさらに南部について書かれている辺りを散策して来ました。

まず、香島郡の成立については、西暦649年に下総国の軽野の南側の1里(さと)と那珂国の寒田より北の5里を割いて、香島の神の郡を設けたと書かれています。

この軽野という地名は現在神栖市の神之池(ごうのいけ)の南部に軽野という地名があります。小学校もあります。
恐らくはこのあたりから南の波崎あたりまで昔は下総国の海上(うなかみ)郡であったものと考えられます。
一方那珂郡に所属していた寒田(さむた)というのは、風土記に記載があり、「寒田の沼」と呼ばれているところが出てきますが、これは現在の神栖市中心部にある「神之池(ごうのいけ)のことを指していて、鹿島コンビナートが建設される前には現在の3倍ほどの大きさがあったとされています。
風土記の書かれた頃はもっと大きかったのではないかと思います。

まず、「郡の東二三里に高松の浜あり。大海の流れ着く砂(いさご)と貝と、積もりて高き丘と成り、松の林自ら生せり。東西の待つの下に出泉あり。八九歩ばかり、清渟(きよ)くして太(いと)好し。」とあります。
この高松といわれる場所を探してみました。
郡家のところから東に1~2km程のところですので、このあたりはまだ鹿島コンビナートの影響を受けていますが、「高松緑地公園」という大きな公園がありました。

鹿島郡高松浜

コンビナートにも近く、これらの施設は立派ですね。
野球場、テニスコート、プールなどの遊戯施設に、緑地公園もあわせている、かなりの大きさの公園です。

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(高松緑地公園案内版)

ただ、風土記が書かれていた頃は太平洋(鹿島灘)にも近く、砂が積もって小山になり、松の林があったようです。
また近くには小さなきれいな水の池もあったとなっています。
この清水も松も当時は重要なものだったと思います。
この高松の少し南に鹿島港がありますが、昔はこのあたりで陸地が途絶え、今の神栖や波崎地区とは離れており、現在の神栖市(波崎も含め)領域は島のようになっていたとも言います。
この鹿島港に近い場所に「国末(くにすえ)」という地名が遺されていますが、文字通りここが国の端部であった時代があるようです。

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(高松緑地公園駐車場と緑地)

高松の浜に続いて、風土記には若松の浜について書いています。
「(西暦704年に)国司采女朝臣・・・・鍛冶師・・・等を率て、若松の浜の鉄(まがね)を採りて、剣(つるぎ)を造りき。此より以南、軽野の里と若松の浜とに至る間、三十余里ばかり、此は皆山なり。伏苓(まつほど)と伏神(ねあるまつほど)とあり、年毎に掘る。
其れ若松の浦は、即ち、常陸・下総と二つの国の境なり。安是(あぜ)の湖(みなと)に有る所の沙鉄(すなのあらがね)は剣を造るに大きに利し。然れども、香島の神山なれば、輙(たやす)く入りて、松を伐り鉄を穿ることを得ず。」
とあります。

この文にある「此より以南」は高松の浜の南と言う事のようですので、鹿島神宮にも近い高松の浜から海岸(鹿島灘)沿いに三十余里(約16-17km)は山が続いているところで、そのあたりから銚子の方まで砂浜が続いているところといえそうです。

それらしきところを探してみると、神栖市に「若松」という地区があり、市の「若松公民館」という施設がある事がわかりました。
この風土記の記述を読むと、どうやら軽野の里というのはこの若松の浜あたりまでを呼んでいたようです。

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(神栖市若松公民館)

地区の公民館などといっても、神栖地区もかなりコンビナートで潤っているようで、立派な公園を有する広い敷地の公民館でした。

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神栖市の出張所も併設されていました。

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どこか南国風な造りで、昔の浜の砂鉄堀りなどを想像するには不向きですね。

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此のあたりから現在の波崎港あたりに続く砂浜は当時は剣を造る砂鉄と松が豊富にあった事になります。
鹿島神宮の宝物館には国宝の長剣がありますが、奈良朝の頃も、この砂鉄が大変重要視されていたことがうかがえます。
ただ、ここは神域なので、一般の人は勝手に入って砂鉄などを採ることは禁止されていたのでしょう。

安是(あぜ)の湖(みなと)は、湖=水戸(みずと:水の戸口)の意で、現在の利根川河口附近と考えられます。

波崎の松林

現在この鹿島灘に面したあたりは砂浜と低い松林が続きます。
この砂地も外洋からの砂の移動で吹き溜まったもので、鎌倉時代頃に今のような砂地が出来、そこに育つ木が黒松だけだったということで、人が黒松を植えて行ったとも言われています。
風土記が書かれていた頃の松林はもう少し今の内陸側だったようです。
当然童子女の松原というのももっと内陸側に有ったのでしょう。
海岸側は外洋からの砂の移動で砂浜や砂山ができ、利根川沿いの方は、川からの体積土砂が積もり陸地化して行ったもののようです。

波崎の風車

また、海岸沿いに風力発電の風車が並んでいるのも、昔の人が見たら驚くでしょうね。
遠くに鹿島工業地帯の高い煙突が並んでいます。

常陸国風土記にはこの後、「童子女の松原伝説」の話しが載っていますが、此れについては前に書いているので省きます。

 童子女(うない)の松原と手后前神社 ⇒ こちら
(少し長いです。また、今となったら訂正したい箇所もたくさんありそうです)




常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/15 10:41
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