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芸都(きつ)の里=うるわしの小野

 常陸国風土記の行方郡に「芸都(きつ)の里」という場所が書かれています。
前に書いた当麻(たぎま)の里のすぐ後、
「此れより以南に芸都(きつ)の里あり。古、国栖、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)と謂ふ二人有りき。其の寸津毘古、天皇の幸に当り、命に違ひ、化(おもむけ)に背きて、甚く粛敬无(な)かりき。爰(ここ)に御剣を抽(ぬ)きて、登時(すなはち)斬り滅(ころ)したまひき。是に、寸津毘売、懼悚(おそ)り心愁へ、白幡を表挙げて、道に迎へ、拝み奉りき。天皇矜(あわれ)みて恩旨(みめぐみ)を降し、其の房(いえ)を放免したまひき。更、乗輿(みこし)を廻らして、小抜野(をぬきの)の頓宮に幸ししに、寸津毘売、姉妹を引率(ひきゐ)て信に心力を竭(つく)し、風雨を避けず、朝夕に供(つか)へ奉りき。天皇、其の懇ろ慇懃(ねんごろ)なるを欵(よろこ)びて、恵慈(うるほ)しみたまひき。所以に、此の野を宇流波斯(うるは)の小野と謂ふ。」
と書かれている。

(現代語の意味)「この芸都(きつ)の里には昔、現地人の種族の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)という男女2人を長とした種族がいた。ヤマトタケルの天皇が来たときに、男の寸津毘古は天皇の言う事に従わなかったので一刀のもとに切り殺された。これを見て女の寸津毘売は白旗を掲げて地べたにひれ伏して許しを願い天皇を奉った。天皇はあわれんでこれを許し放免した。すると寸津毘売は喜んで一族皆引き連れて(姉妹:男女問わず一族のこと)雨の日も風の日も、また朝から晩まで天皇に奉仕した。ヤマトタケルの天皇はこれを喜び御恵みを与えられた。このことからこの地を【うるわしの小野】というようになった。」

ここでは元からいた現地人を「佐伯」ではなく山城国と同じように「国栖(くず)」と表現しています。同じように思っていますが、年代や種族によって使い分けているのかもしれません。
さて、この「芸都(きつ)の里」の場所ですが、平安時代に書かれた倭名抄では行方郡の中に17箇所の郷名(提賀・小高・藝都・大生・當鹿・逢鹿・井上・高家・麻生・八代・香澄・荒原・道田・行方・曾禰・坂来(板来)・餘戸)が書かれていますが、ここの「藝都(きつ)」の場所だと思われます。

藝都郷 ⇒ 旧北浦町 小貫・長野江・三和・成田・次木(なみき)のあたりで、江戸時代の村名では小貫・次木・成田・帆津倉・金上・穴瀬・高田・長野江を揚げています。
また、小抜野(をぬきの)はその同じ郷に中の「小貫」地区と見られています。ここを「うるわしの小野」といわれているように書いてありますが、現在現地に行っても特に感じられるものはありません。

新編常陸の記述では「成田村の西の野に小沼あり、水湧出す、これを化蘇沼(けそぬま)と云う」と書かれているとあります。(角川地名大辞典)

この化蘇沼近くに「化蘇沼稲荷神社」が1478年に建立され、この地の住所は内宿町ですが、本来隣の成田町ともいわれ、この旧藝都郷の一角に入るとされ、この神社境内にこの寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)の像が置かれています。

以下、もう8年前にこの神社を訪れたときの記事を抜粋して少し紹介します。

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神社参道の入り口に木の鳥居があります。
その横に「茨城百景化蘇沼稲荷」の石碑がある。
鳥居から桜の並木が続く。
桜の木もかなりの年数が経っている古木だ。

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しばらく進むと赤い神社の建物が見えてくる。

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祭神は倉稲魂命で、五穀豊穣の神様だ。
創建は1478年で、大掾(だいじょう)氏は水戸城を江戸氏に奪われ石岡(常陸府中)に居を構えていたはずである。
その大掾氏がこの地を治めていたというのは木崎城や香取神社でも出てきたが、甲斐の武田氏一族もこの地方にやってきたのは15世紀の初頭のようなのでこのあたりの関係はどうなっているのだろう。

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稲荷神社なので狛犬ならぬ狐の像が置かれています。

稲荷神社ということで本殿、拝殿ともに柱などは全て赤ですが、たくさんの鳥居が並ぶようなものはありません。
でも敷地も建物もかなり厳かな雰囲気があります。

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この神社の建物が行方市の有形文化財に登録されています。
また手前にある古木はモミの木で幹回り約4m、樹高約16m、樹齢は約360年といわれており、市の天然記念物に指定されているそうです。
この神社の裏手に立派な土俵がありました。
この稲荷神社は別名「関取稲荷」といわれるようで、昔から相撲が盛んだったようです。

特に天保年間(1830~1844年)にこの町出身の秀ノ山雷五郎(四代目秀ノ山親方)が生まれ、ここで奉納相撲をしたことで豊作を祈願する行事と合わさって盛んになったといいます。
今でも毎年夏に子供たちの相撲大会や巫女舞などが行なわれているといいます。

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この神社境内に「・この道やゆく人なしに秋のくれ」
という芭蕉の句碑が境内にあるという。写真は取り忘れたのでない。
この 「藝都郷」は江戸時代には俳人などもいて、結構賑わったらしい。
今では其の面影を感じることも殆んど無いが・・・・。

実は小林一茶が文化14年(1817)にここを訪れている。
一茶は小川の本間家で1泊し、そこからここまで4里を馬で送ってもらったという。
そしてこの近くの北浦湖畔で1泊し、対岸の札村にわたり、その後鹿島神宮を訪れ、潮来から舟で銚子へ向かっている。
一体何がここにあったのだろうかと前から気にしていたが、いろいろ調べていくと少し理由が見えてきた。
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「市報 行方」(行方市教育委員会生涯学習課)
洞海舎河野涼谷(本名:河野新之右衛門)は、水戸藩の支藩守山藩領の行方郡帆津倉(ほつくら)村に宝暦12年(1762年)に生まれました。 
その頃の関東各所、特に銚子から野田にかけての利根川沿岸では、利根川の水運を生かして醸造業が栄えており、利根川に続く常陸の北浦沿岸も同様でした。
生家河野家はその醸造業繁栄圏に位置しており、村の名主を務めながら醤油醸造業も営んでいました。
大店の主である涼谷は、芭蕉や親交のあった一茶のような職業俳人ではなく、俳諧を趣味として楽しんだいわゆる遊 俳であり、その仲間も句会や業俳との交流を楽しむ趣味人でありました。
 その中でも特に涼谷は、洞海舎社中をまとめながら、句会の開催、句集の編集と発行、江戸の業俳との交流会や接待を精力的に行う遊俳の一典型とも言えます。
 文化から天保期にかけての北浦湖岸の俳諧圏は、少なくとも四十村二百人の俳人を数えるほどに大きな俳諧圏を築いており、中でも洞海舎同人を中心とした帆津倉俳壇の活躍は地方稀(まれ)なる盛況と書き残されています。

 名月も昨日になりぬ峰の松

洞海舎河野涼谷は、多くの業俳と親交を持ちました。
小林一茶の旅日記「七番日記」には、文化十四年五月二十五日の条に「小川よリ四里、馬にて送らる、化蘇根(沼)いなり社有、李尺氏神と云。帆津倉(ほつくら)に泊。」とあり、化蘇沼稲荷神社に詣でたり、北浦の涼谷宅に宿泊したリしたことが分かリます。
 涼谷は、他にも江戸や備前の業俳を招いては句会を催しました。
それは言うまでもなく利根川の水運と河岸(かし)の持つ経済力と業俳の持つ指導力と情報力がうまくかみ合ったからなのですが、遊俳の人々の進取の気風と江戸の文化への憧憬(どうけい)が大きな要因ではなかったかと思われます。
 化蘇沼稲荷神社境内には芭蕉の歌碑が二基あリ、いずれも洞海舎連中の建立によるものですが、涼谷と芭蕉の句が一つの石に彫られた歌碑は、芭蕉百六十五回忌、涼谷二十三回忌の安政五年に社中によって建立されたことがわかリます。
 裏には建立に当たった俳人の名が連ねられておリ、洞海舎の隆盛と共に句碑や奉納額が掲げられていた当時の化蘇沼稲荷神社が偲ばれます。
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という記事を見つけました。

俳人であり、また醤油業に進出して財を成した「洞海舎河野涼谷」という人物がここにいたからなのだとわかりました。

常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/19 10:30
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