田の里と鹿島神宮の神馬
先日書いた行方郡の芸都(きつ)の里の後に、
「其の(芸都の里)南に田の里あり。息長足日売(おきながたらひめ)の皇后の時、此の地に人あり、名を古都比古(こつひこ)と曰ふ。三度韓国(からくに)に遣されしかば、其の功労を重みして、田を賜ひき。因りて名づく。又、波須武(はずむ)の野有り。倭武の天皇(ヤマトタケル)、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づくる也。野の北の海辺に、香島の神子の社在り。土塉(つちや)せ、櫟(いちい)・柞(ははそ)・楡(にれ)・竹、一二生(お)ひたり。」
と書かれています。
「三度韓国(からくに)に遣されしか・・・」と書かれていますが、どうやら新羅・高麗・百済の三韓征伐のことを指しているようだが、この征伐として3回派遣されたというような話は無いという。そのため三韓征伐に派遣されたと解釈されるという。
そして功労により田を貰った。と云うのは税としての特権を与えられたということなのか?

どうもこの辺りは訪れる機会が少なき、あまりイメージがわいて来ません。
ただ、大生より北で芸都の里よりも南の地はどんなところなのでしょうか?
霞ヶ浦の北浦沿いで、鹿行大橋の南側で、新しくできた北浦大橋の少し北側の地域です。
確かにこの近くに用事が無ければ訪れることもほとんどありません。
田の里に比定される地域は、平安時代の倭名抄で「道田郷」といわれる地域だとされています。
この道田郷については、角川の地名辞典によれば、「新編常陸」には江戸期の地名といて、新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿の7村を当てているといいます。しかし、この「田の里」の東側に香島の神子の社があり、そこはすぐ海の近くだとなっていますので、このマークした鉾神社(高台台地に在り、中世には小牧氏?の城があった?)の下は蓮田が広がりますが、風土記の頃は水がこの下あたりまで来ていたのでしょう。
天掛や新宮などの北浦沿いは当時はまだ水の中だったかもしれません。

それでは、当時から続いている神社と云うことで、「鉾神社」に行って見ました。
ただ、この鉾神社も車で近くまで行くのもよく道がわかりません。
近くの同じ高台には「大和第一小学校」があったようですが、2013年春に閉校となりました。

車も南側からまわって、小学校の北側のグランドの方にいけるようでした。
ただ、今回は心配のため、神社の山の西側の県道沿いの近くに停めて、歩いて上っていきました。

県道からの上り口。このあたりに停めて、後ろ側の山に歩いて登る事に。

山の上りはそれほどきつきものでも在りませんが、車はたぶん無理そうです。

上って直ぐに廃校となった小学校のグランドの脇に出ました。
学校の建屋は全く在りませんでした。すっかりへいちとなっていて、中にも入れないようになっていました。

この学校跡地の脇の道を北にそのまま進むと、遠くに神社の鳥居が見えました。
車も通れそうです。ただ、小学校入口からはこちらへは工事中で通れないようです。
そのため、もう少し先に回り込んで狭い道ですが、近くまで来られそうです。

少し長い参道を進んで、赤い鳥居の脇に昭和19年建立の「村社鉾神社」の石柱が置かれ、下記説明案内版が置かれていました。

ここでは「小牧(こまき)」地名に対して「こうまき」と読みをふっています。
この地域が鹿島神宮の馬の飼育地(牧)だったために「小牧=神牧」の意味だと書かれています。
祭礼も鹿島神宮から昔は禰宜等が年に何度もやって来て行っていたようです。


拝殿

本殿

江戸時代から近くの村々の信仰がかなりあったようです。
小さな社に納められたものが2つ。



粟嶋大明神?
寛政年の銘が入っていました。

こちらの江戸時代の富士講のようです。
「其の(芸都の里)南に田の里あり。息長足日売(おきながたらひめ)の皇后の時、此の地に人あり、名を古都比古(こつひこ)と曰ふ。三度韓国(からくに)に遣されしかば、其の功労を重みして、田を賜ひき。因りて名づく。又、波須武(はずむ)の野有り。倭武の天皇(ヤマトタケル)、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づくる也。野の北の海辺に、香島の神子の社在り。土塉(つちや)せ、櫟(いちい)・柞(ははそ)・楡(にれ)・竹、一二生(お)ひたり。」
と書かれています。
「三度韓国(からくに)に遣されしか・・・」と書かれていますが、どうやら新羅・高麗・百済の三韓征伐のことを指しているようだが、この征伐として3回派遣されたというような話は無いという。そのため三韓征伐に派遣されたと解釈されるという。
そして功労により田を貰った。と云うのは税としての特権を与えられたということなのか?

どうもこの辺りは訪れる機会が少なき、あまりイメージがわいて来ません。
ただ、大生より北で芸都の里よりも南の地はどんなところなのでしょうか?
霞ヶ浦の北浦沿いで、鹿行大橋の南側で、新しくできた北浦大橋の少し北側の地域です。
確かにこの近くに用事が無ければ訪れることもほとんどありません。
田の里に比定される地域は、平安時代の倭名抄で「道田郷」といわれる地域だとされています。
この道田郷については、角川の地名辞典によれば、「新編常陸」には江戸期の地名といて、新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿の7村を当てているといいます。しかし、この「田の里」の東側に香島の神子の社があり、そこはすぐ海の近くだとなっていますので、このマークした鉾神社(高台台地に在り、中世には小牧氏?の城があった?)の下は蓮田が広がりますが、風土記の頃は水がこの下あたりまで来ていたのでしょう。
天掛や新宮などの北浦沿いは当時はまだ水の中だったかもしれません。

それでは、当時から続いている神社と云うことで、「鉾神社」に行って見ました。
ただ、この鉾神社も車で近くまで行くのもよく道がわかりません。
近くの同じ高台には「大和第一小学校」があったようですが、2013年春に閉校となりました。

車も南側からまわって、小学校の北側のグランドの方にいけるようでした。
ただ、今回は心配のため、神社の山の西側の県道沿いの近くに停めて、歩いて上っていきました。

県道からの上り口。このあたりに停めて、後ろ側の山に歩いて登る事に。

山の上りはそれほどきつきものでも在りませんが、車はたぶん無理そうです。

上って直ぐに廃校となった小学校のグランドの脇に出ました。
学校の建屋は全く在りませんでした。すっかりへいちとなっていて、中にも入れないようになっていました。

この学校跡地の脇の道を北にそのまま進むと、遠くに神社の鳥居が見えました。
車も通れそうです。ただ、小学校入口からはこちらへは工事中で通れないようです。
そのため、もう少し先に回り込んで狭い道ですが、近くまで来られそうです。

少し長い参道を進んで、赤い鳥居の脇に昭和19年建立の「村社鉾神社」の石柱が置かれ、下記説明案内版が置かれていました。

ここでは「小牧(こまき)」地名に対して「こうまき」と読みをふっています。
この地域が鹿島神宮の馬の飼育地(牧)だったために「小牧=神牧」の意味だと書かれています。
祭礼も鹿島神宮から昔は禰宜等が年に何度もやって来て行っていたようです。


拝殿

本殿

江戸時代から近くの村々の信仰がかなりあったようです。
小さな社に納められたものが2つ。



粟嶋大明神?
寛政年の銘が入っていました。

こちらの江戸時代の富士講のようです。
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