大洗海岸で孫と波に戯れて
コロナ禍で、行き来が出来ないでいましたが、3年ぶりにやっと孫もイギリスから日本に来ることができました。
孫娘も、前に来たときは2歳と6歳、大分大きくなっていました。
30日に我家に来ました。
少しこちらにいて、来週から九州のほうまで旅行に行き、その後又戻ってくる予定。
そして東京ディズニーランドに行くのがもっとも嬉しいようです。
さて、昨日は大洗に遊びに行って来ました。


しばらく波と戯れて大はしゃぎ。

海浜公園も近いのですが、疲れるのでほどほどにして戻って来ました。
途中に大洗のアウトレットに寄ったけれど、だいぶ閑散とした感じでした。
時代の波でしょうかね。ガルパンなどのいろいろな商品の販売などもしていましたが、一時に勢いはありません。
難しいですね。
孫娘も、前に来たときは2歳と6歳、大分大きくなっていました。
30日に我家に来ました。
少しこちらにいて、来週から九州のほうまで旅行に行き、その後又戻ってくる予定。
そして東京ディズニーランドに行くのがもっとも嬉しいようです。
さて、昨日は大洗に遊びに行って来ました。


しばらく波と戯れて大はしゃぎ。

海浜公園も近いのですが、疲れるのでほどほどにして戻って来ました。
途中に大洗のアウトレットに寄ったけれど、だいぶ閑散とした感じでした。
時代の波でしょうかね。ガルパンなどのいろいろな商品の販売などもしていましたが、一時に勢いはありません。
難しいですね。
桜と竹と沖洲常福寺
昨日は銚子へ仕事に出かける途中で、桜のまだ見られそうなところをまわりながら出かけた。
ただ、朝方にやりかけの仕事1時間ほどした後になったので、遠くまで行くわけには行かないので、通り沿いで見物し易そうな場所を選んだ。
まず、国道355号線を霞ヶ浦の北側沿岸沿いで、行方市に入り、国道から逸れて沖洲の町への旧道に進んだ。
そこには1233年開山と伝わる「(真言宗)常福寺」がある。
ここの桜が少し気になったので立ち寄ったのだ。

桜は花の芯が赤く色づき、ひらひらと花びらが散っていて、葉桜様態だが、これはこれでとても美しい。

裏山は竹林で、青々とした竹が生命力を感じさせる。

入口山門は市の文化財登録となっているが、今は寺は無住で、公民館が併設されている。
仏像などはたしか県の方で保管されていたと思う
この裏山一体が「沖洲古墳群」である。
寺の東側にトンネルが見える。

このトンネルの上は国道355号線で、ここをくぐると芸術村という場所に出る。
まあ芸術家を多く呼び込んで開発した村だが、鹿島鉄道がなくなると何処となく寂しさが漂う。
今この上の道路わきに「みんなの広場」という広場の整備がされている。
沖洲古墳群も茨城県では最も古いとも言われている「勅使塚古墳」がこの裏山の西端にある。

旧道に戻り少し東に進んだところで畑か田んぼにピンクの花が一面に咲いていた。
良く見れば、恐らくホトケノザだと思う。
長閑でとてもよい所だ。
ただ、朝方にやりかけの仕事1時間ほどした後になったので、遠くまで行くわけには行かないので、通り沿いで見物し易そうな場所を選んだ。
まず、国道355号線を霞ヶ浦の北側沿岸沿いで、行方市に入り、国道から逸れて沖洲の町への旧道に進んだ。
そこには1233年開山と伝わる「(真言宗)常福寺」がある。
ここの桜が少し気になったので立ち寄ったのだ。

桜は花の芯が赤く色づき、ひらひらと花びらが散っていて、葉桜様態だが、これはこれでとても美しい。

裏山は竹林で、青々とした竹が生命力を感じさせる。

入口山門は市の文化財登録となっているが、今は寺は無住で、公民館が併設されている。
仏像などはたしか県の方で保管されていたと思う
この裏山一体が「沖洲古墳群」である。
寺の東側にトンネルが見える。

このトンネルの上は国道355号線で、ここをくぐると芸術村という場所に出る。
まあ芸術家を多く呼び込んで開発した村だが、鹿島鉄道がなくなると何処となく寂しさが漂う。
今この上の道路わきに「みんなの広場」という広場の整備がされている。
沖洲古墳群も茨城県では最も古いとも言われている「勅使塚古墳」がこの裏山の西端にある。

旧道に戻り少し東に進んだところで畑か田んぼにピンクの花が一面に咲いていた。
良く見れば、恐らくホトケノザだと思う。
長閑でとてもよい所だ。
小高氏の菩提寺「皇徳寺」
沖洲の常福寺を後にして、次に立ち寄ったのは小高地区にある「皇徳寺」だ。
この寺へも久しぶりである。
国道355号線の道沿いに「皇徳寺」の矢印看板があるので、そこを左折してすぐである。
ここは行方四頭の長男「小高氏」の菩提寺だ。
小高氏も戦国末期に玉造氏や島崎氏と同様に、佐竹氏により滅ぼされたが、玉造や麻生などの名前は都市として残されたのに比べ、小高氏は行方氏の長男であったにもかかわらず、余り知られていない。
この皇徳寺もまた、場所を点々としてこの地に留まった。
桜を見たいと訪れたのだが、桜はほぼ散ってしまい、新緑がとても美しかった。





この寺へも久しぶりである。
国道355号線の道沿いに「皇徳寺」の矢印看板があるので、そこを左折してすぐである。
ここは行方四頭の長男「小高氏」の菩提寺だ。
小高氏も戦国末期に玉造氏や島崎氏と同様に、佐竹氏により滅ぼされたが、玉造や麻生などの名前は都市として残されたのに比べ、小高氏は行方氏の長男であったにもかかわらず、余り知られていない。
この皇徳寺もまた、場所を点々としてこの地に留まった。
桜を見たいと訪れたのだが、桜はほぼ散ってしまい、新緑がとても美しかった。





麻生の羽黒山公園
沖洲、小高ときて、次に立ち寄ったのは麻生、この町の街中商店街から直ぐの所に「羽黒山公園」があります。
地元の方の憩いの場所となっているようです。
でも初めて訪れた人はその入り口から少し迷いそうです。
結構狭いところから山に登ります。
上は公園や休憩所などと、旧麻生の城跡遺跡があります。
麻生氏は行方四頭の一人ですが、戦国時代に隣にいた同じ身内の島崎氏(潮来)に攻められ落城しました。
江戸時代になると、周りは凡て水戸藩となりましたが、新庄氏が入り、麻生藩は独立していました。
桜も公園は名所と思ってきたのですが、もう殆んど散ってしまっており、新緑に鮮やかな時を迎えていました。

町の裏山であり、ここから街がよく見える。

桜は散り、緑がまぶしい。


公園の一角に麻生城跡の碑が立っている。


ブランコなどの遊具もあり、桜の時期にはこの公園に多くの地元民が集まるようだ。
地元の方の憩いの場所となっているようです。
でも初めて訪れた人はその入り口から少し迷いそうです。
結構狭いところから山に登ります。
上は公園や休憩所などと、旧麻生の城跡遺跡があります。
麻生氏は行方四頭の一人ですが、戦国時代に隣にいた同じ身内の島崎氏(潮来)に攻められ落城しました。
江戸時代になると、周りは凡て水戸藩となりましたが、新庄氏が入り、麻生藩は独立していました。
桜も公園は名所と思ってきたのですが、もう殆んど散ってしまっており、新緑に鮮やかな時を迎えていました。

町の裏山であり、ここから街がよく見える。

桜は散り、緑がまぶしい。


公園の一角に麻生城跡の碑が立っている。


ブランコなどの遊具もあり、桜の時期にはこの公園に多くの地元民が集まるようだ。
潮来稲荷山
麻生から東に進むと「潮来」地区になる。
ここは市街地のすぐ裏手を国道51号線が通っているが、この高台に「稲荷山公園」がある。
暫く訪れていなかったので、様子を見に山側の国道側から公園に入った。

国道沿いに公園の入り口がある。

中を右に進むと、市街地から稲荷神社への上り階段がある。


ここから潮来の町をこのように見下ろすことが出来る。

これが稲荷神社。

公園の桜はもうすっかり葉桜となっていた。

この稲荷神社もすっかり潮来の町のシンボルとなっているが、歴史を辿れば江戸時代前期に麓の古刹「長勝寺」境内に設置され、それをこの山野上に分離して祀ったようだ。

この神社の脇に「潮来町立女子技芸学校があったという碑が立てられている。
女子技芸学校は1906年から1938年までこの地にあり、その後、潮来町出口へ移転して、県立高等女学校を経由して現在の県立潮来高校となった。

そしてその隣に「茨城百景」の碑。

さらにその横には大きな石の石碑が置かれている。
ここには野口雨情の「船頭小唄」の詩が彫られている。
作曲は中山晋平。
まだ奥にもいろいろある。
菊池 寛実に碑も置かれている。
私が最初に来たときに「菊池寛」とつながりの有る人物かと思いこんだが、これは違って、「菊池 寛実」は日本の石炭王と呼ばれた大実業家である。 潮来とも船運事業で繋がっていたようだ。
ここは市街地のすぐ裏手を国道51号線が通っているが、この高台に「稲荷山公園」がある。
暫く訪れていなかったので、様子を見に山側の国道側から公園に入った。

国道沿いに公園の入り口がある。

中を右に進むと、市街地から稲荷神社への上り階段がある。


ここから潮来の町をこのように見下ろすことが出来る。

これが稲荷神社。

公園の桜はもうすっかり葉桜となっていた。

この稲荷神社もすっかり潮来の町のシンボルとなっているが、歴史を辿れば江戸時代前期に麓の古刹「長勝寺」境内に設置され、それをこの山野上に分離して祀ったようだ。

この神社の脇に「潮来町立女子技芸学校があったという碑が立てられている。
女子技芸学校は1906年から1938年までこの地にあり、その後、潮来町出口へ移転して、県立高等女学校を経由して現在の県立潮来高校となった。

そしてその隣に「茨城百景」の碑。

さらにその横には大きな石の石碑が置かれている。
ここには野口雨情の「船頭小唄」の詩が彫られている。
作曲は中山晋平。
まだ奥にもいろいろある。
菊池 寛実に碑も置かれている。
私が最初に来たときに「菊池寛」とつながりの有る人物かと思いこんだが、これは違って、「菊池 寛実」は日本の石炭王と呼ばれた大実業家である。 潮来とも船運事業で繋がっていたようだ。
潮来長勝寺
もう6日前ですが、潮来の裏山の稲荷山から、脇の道を下に下って潮来の市街に出ました。
ここの頼朝ゆかりの古刹「長勝寺」に桜と新緑を求めて立ち寄ってみました。

この参道沿いの桜も並木となって、咲いているときも、また花吹雪となっているときも美しいのですが。
多くに桜花は散って、葉桜となっていました。
この楼門も水戸光圀の命で、別な寺から移築されたものです。

ほんどうも前にこのあたりを通過した台風で痛めつけられましたが、すっかり修理も終ったようです。
桜は散っても今度は新緑がまぶしい。
季節季節でいろいろ楽しめるお寺です。



桜ももう少し。
緑が周りを美しく包むと、桜花もどこかしっとりおとなしい感じですね。

今年も目を楽しませていただきました。
また潮来のアヤメの時期などに、紫陽花も咲きだし、また本堂前の大きな2本の菩提樹も可憐な花を見せてくれそうです。
ここの頼朝ゆかりの古刹「長勝寺」に桜と新緑を求めて立ち寄ってみました。

この参道沿いの桜も並木となって、咲いているときも、また花吹雪となっているときも美しいのですが。
多くに桜花は散って、葉桜となっていました。
この楼門も水戸光圀の命で、別な寺から移築されたものです。

ほんどうも前にこのあたりを通過した台風で痛めつけられましたが、すっかり修理も終ったようです。
桜は散っても今度は新緑がまぶしい。
季節季節でいろいろ楽しめるお寺です。



桜ももう少し。
緑が周りを美しく包むと、桜花もどこかしっとりおとなしい感じですね。

今年も目を楽しませていただきました。
また潮来のアヤメの時期などに、紫陽花も咲きだし、また本堂前の大きな2本の菩提樹も可憐な花を見せてくれそうです。
浮島・和田公園のチューリップ
昨日銚子へ出かけました。
桜も散り、途中でどこ見ておきたいところは・・・などと考えながら車を霞ヶ浦北側を潮来のほうへ走っていました。
もう、周りの田んぼは土起しがなされ、かなりの田には水が張られていました。
一部の田では稲がすでに植えられているところもありました。
茨城のこのあたりは長閑で良いのですが、新緑の美しさや湖は見られるのですが、この日は少し霞んでいて、遠くの方はぼやけていました。
これも黄砂の影響なのかもしれませんが、風が強いと土ほこりが舞い、こんな日もあります。
さて、何処か立ち寄れそうなところとして、思いついたのが霞ヶ浦の対岸にあるチューリップ畑。
稲敷市の浮島にある「和田公園」です。
少し戻る事になるけれど、国道51号線で、佐原(香取)方面に向かい、途中から西の浮島目指して行って見ました。
その道は平坦な起伏のない、周りは田んぼなどの低地が暫く続きます。
ここは江戸時代頃に陸地となった場所らしく、玉里地区の(水戸藩)御留川と同様に、こちらは幕府が管理した御留川があったようです。
でも浅い場所は次第に土砂などで埋まり、陸地に近づき、埋め立てられて干拓された場所だろうと思われます。
車をそのまま西へ走り、川を渡ったところから、右に、霞ヶ浦周囲道路の土手沿いを走ります。

暫く走ると、奥に浮島の和田公園あたりの松林などが見えてきます。
昭和の前半まではこの浮島には海水浴場があり、バンガローなども立ち並んでいたようです。
今は霞ヶ浦もすっかり遊泳禁止となり昔の面影はありません。

和田公園前の広場には、赤・黄・白・紫色などのチューリップが咲き誇っていました。
きれいに咲いていましたが、訪れる人も少ないですね。

今年は咲くのが早いようですが、一部散ってしまった花もありましたが、今が一番盛りでしょうか?
桜も散り、途中でどこ見ておきたいところは・・・などと考えながら車を霞ヶ浦北側を潮来のほうへ走っていました。
もう、周りの田んぼは土起しがなされ、かなりの田には水が張られていました。
一部の田では稲がすでに植えられているところもありました。
茨城のこのあたりは長閑で良いのですが、新緑の美しさや湖は見られるのですが、この日は少し霞んでいて、遠くの方はぼやけていました。
これも黄砂の影響なのかもしれませんが、風が強いと土ほこりが舞い、こんな日もあります。
さて、何処か立ち寄れそうなところとして、思いついたのが霞ヶ浦の対岸にあるチューリップ畑。
稲敷市の浮島にある「和田公園」です。
少し戻る事になるけれど、国道51号線で、佐原(香取)方面に向かい、途中から西の浮島目指して行って見ました。
その道は平坦な起伏のない、周りは田んぼなどの低地が暫く続きます。
ここは江戸時代頃に陸地となった場所らしく、玉里地区の(水戸藩)御留川と同様に、こちらは幕府が管理した御留川があったようです。
でも浅い場所は次第に土砂などで埋まり、陸地に近づき、埋め立てられて干拓された場所だろうと思われます。
車をそのまま西へ走り、川を渡ったところから、右に、霞ヶ浦周囲道路の土手沿いを走ります。

暫く走ると、奥に浮島の和田公園あたりの松林などが見えてきます。
昭和の前半まではこの浮島には海水浴場があり、バンガローなども立ち並んでいたようです。
今は霞ヶ浦もすっかり遊泳禁止となり昔の面影はありません。

和田公園前の広場には、赤・黄・白・紫色などのチューリップが咲き誇っていました。
きれいに咲いていましたが、訪れる人も少ないですね。

今年は咲くのが早いようですが、一部散ってしまった花もありましたが、今が一番盛りでしょうか?
新緑と釣り人と横利根閘門
銚子にも月に3回ほどまだ通っているが、最近は比較的交通量が少なく、また道路も広い神栖市側を通って、。銚子大橋をわたることが多くなっていたが、今回は利根川の土手沿いの道を通る事にした。
その入口には国の史跡に登録された「横利根閘門」がある。
霞ヶ浦と利根川を水路で結び、蒸気船をはじめ、物資輸送にも大いに利用された閘門である。
一般的な水門は上下に動かすが、この水門(閘門)は真ん中をくの字にして前後にして開く珍しい形であり、関東大震災前のレンガ造りの立派な形状が、今も輝く造形美を見せてくれる。

こちらは閘門と利根川をつなぐ水門で、これは上下に動く。

こちらが前後に開く横利根閘門の利根川側の出口。

関東大震災前はこのような立派なレンガ造りの構造物が多く造られた。

公園内の芝生や木々の青さが目に優しく、輝いて見える。

こちらの水門もたまに開け閉めがされているようだが、この黒光りするギヤはくもの巣だらけだった。


反対の横利根川側に同じような門があり、通行する舟はこの前後の水門を閉じて、推移を調整して出入りする。
この処で暫くの時間待機するので、乗り降りもできるようになっている。

今の時期は新緑と赤レンガの組み合わせも良いコントラストを生み出している。

このように水門は、くの字に前後に開閉する。






この横利根川の水門(閘門)付近は釣り人のメッカとも呼ばれているようで、多くの釣り人や釣り舟が時の経つのも忘れ、じっとして動かない。

そう、釣人でなくてもこちらの公園のベンチで読書や絵を書いたり、寝転んだり一日過ごすこともできそうです。
でも余り人はいないですね。
暇人は余りいないのかもしれません。
その入口には国の史跡に登録された「横利根閘門」がある。
霞ヶ浦と利根川を水路で結び、蒸気船をはじめ、物資輸送にも大いに利用された閘門である。
一般的な水門は上下に動かすが、この水門(閘門)は真ん中をくの字にして前後にして開く珍しい形であり、関東大震災前のレンガ造りの立派な形状が、今も輝く造形美を見せてくれる。

こちらは閘門と利根川をつなぐ水門で、これは上下に動く。

こちらが前後に開く横利根閘門の利根川側の出口。

関東大震災前はこのような立派なレンガ造りの構造物が多く造られた。

公園内の芝生や木々の青さが目に優しく、輝いて見える。

こちらの水門もたまに開け閉めがされているようだが、この黒光りするギヤはくもの巣だらけだった。


反対の横利根川側に同じような門があり、通行する舟はこの前後の水門を閉じて、推移を調整して出入りする。
この処で暫くの時間待機するので、乗り降りもできるようになっている。

今の時期は新緑と赤レンガの組み合わせも良いコントラストを生み出している。

このように水門は、くの字に前後に開閉する。






この横利根川の水門(閘門)付近は釣り人のメッカとも呼ばれているようで、多くの釣り人や釣り舟が時の経つのも忘れ、じっとして動かない。

そう、釣人でなくてもこちらの公園のベンチで読書や絵を書いたり、寝転んだり一日過ごすこともできそうです。
でも余り人はいないですね。
暇人は余りいないのかもしれません。
ネモヒラを見に・・・
イギリス・ロンドンから来ている長女家族も今朝(8/18)成田を出立しました。
先週末は1日東京デズニーランドで楽しんで、日曜には長男家族も3年ぶりの再会と云うことで我が家にやって来ました。
そして、ファミレスで食事をした後に見頃を向かえているという常陸海浜公園にネモヒラを見に行って来ました。
午前中は天気もまずまずで、午後から雷雨もあるというので心配していましたが、夕方3時頃なら空きはじめるかとも思って夕方になってやって来ました。
海浜口駐車場も手前から少し並んでいました。
しかも雨がぱらつき始め・・・・・
でも暫くして、駐車場には入ることが出来。雨も小ぶりのようです。

入場して、少しふっていたのですが、傘も差さずに木々の下をみはらしの丘に向かいました。

みはらしの丘に到着した頃に雨もやみ日が差してきたのです。

ネモヒラも満開に近いようです。
運よく晴れてきて、虹もできていました。
鹿島灘も、建機の工場も良く見えます。

公園の正面入口方面には黄色い菜の花畑も目に鮮やかです。
陽射しもまぶしいくらいに照って来ました。

夕方5時には閉園となるのですが、多くの人が4時を過ぎても次々と上っています。
この日は我家の方ではかなり強い雨も降り、雹も降ったようでしたが、ひたちなかはそれほどのことも無く運がよかったようです。
昨日は昼から買い物などをしながら成田空港近くのホテルまで車で送って来ました。
帰りの荷物も多くて助かったようです。
こちらは孫といる時間が長くなり、楽しい時間となりました。
先週末は1日東京デズニーランドで楽しんで、日曜には長男家族も3年ぶりの再会と云うことで我が家にやって来ました。
そして、ファミレスで食事をした後に見頃を向かえているという常陸海浜公園にネモヒラを見に行って来ました。
午前中は天気もまずまずで、午後から雷雨もあるというので心配していましたが、夕方3時頃なら空きはじめるかとも思って夕方になってやって来ました。
海浜口駐車場も手前から少し並んでいました。
しかも雨がぱらつき始め・・・・・
でも暫くして、駐車場には入ることが出来。雨も小ぶりのようです。

入場して、少しふっていたのですが、傘も差さずに木々の下をみはらしの丘に向かいました。

みはらしの丘に到着した頃に雨もやみ日が差してきたのです。

ネモヒラも満開に近いようです。
運よく晴れてきて、虹もできていました。
鹿島灘も、建機の工場も良く見えます。

公園の正面入口方面には黄色い菜の花畑も目に鮮やかです。
陽射しもまぶしいくらいに照って来ました。

夕方5時には閉園となるのですが、多くの人が4時を過ぎても次々と上っています。
この日は我家の方ではかなり強い雨も降り、雹も降ったようでしたが、ひたちなかはそれほどのことも無く運がよかったようです。
昨日は昼から買い物などをしながら成田空港近くのホテルまで車で送って来ました。
帰りの荷物も多くて助かったようです。
こちらは孫といる時間が長くなり、楽しい時間となりました。
那賀郡郡衙、台渡里廃寺跡
常陸国風土記に、現在の水戸を中心とした那賀郡の記載内容は意外に少ない。
少ないのか、写本に省略されて残っていないのかは良くわからないが、とにかく余り多くは残されていない。
そのため、まり訪れてみる機会もなく、今迄やり過ごしてきてしまった。
この風土記の勉強をするに当って、もう少し知っておかねばならないことを痛感して、遺称地を訪ねてみる事にした。
まず向かったのは、那珂郡の郡衙(郡家)があったとされる「台渡里廃寺跡」である。
風土記には余り詳しいことは書かれていない。
「郡家より東北の粟川(現那珂川)の両岸に駅家(うまや)が置かれた。駅家が粟川に近く囲まれているようなので「河内」の名がついた。」
と記載が残っているだけ。
この地名の「河内」は現在那珂川の東北岸に「中河内町」、「上河内町」という町名があり、「かわち」とは読まずに「ガチ」と読ませている。もっとも「なかかわち」「かみかわち」を悠長な発音などしない水戸っぽが発音すれば、「ナカガチ」「カミガチ」と短くしてしまったのだと推察は付く。
駅家はこの那珂川の両岸にあったので、南西側の地名は「渡里町」となる。
これも川を渡る場所(里)として付けられたものだろう。
ここに「台渡里廃寺跡」という国指定の史跡が残されている。

直ぐ前は道路でくるまの交通量も結構あるところだが、この一角は広々して草が茂って開けている。

道路側の入口に「国指定史跡」の看板が掲げられている。
この場所は真中の「観音堂山地区の台渡里廃寺跡」と思われる。
この南側に塔などがあったようだ。

北側の長者山地区に那賀郡郡家跡が見つかっているようだ。
この長者については確か八幡太郎の伝説が残されている。
(茨城の民話アーカイブ:こちら)

この台渡里廃寺跡の広場の一角に神社「台渡里八幡神社」が残されている。

境内はまだボタン桜(八重桜)の花ビラがハラハラと散っている最中でした。



この広場の奥は住宅が立ち並び、木の生い茂った林も残されています。

地図で見てみると、この原の奥の道路を東(右)に少し行った所に「長者山城跡」があり、「一盛長者伝説地」という石碑が置かれているようだ。
常陸国国府のあった石岡の鹿の子より、この台渡里まで奈良時代から鎌倉時代頃まで古代の官道が真っ直ぐに続いていました。
ここで那珂川(粟川)を渡り、官道は海側の道と山側の道に分れたようです。
ただ海側の道は船での輸送が盛んになると徐々に廃れ使われなくなったと推察されます。
少ないのか、写本に省略されて残っていないのかは良くわからないが、とにかく余り多くは残されていない。
そのため、まり訪れてみる機会もなく、今迄やり過ごしてきてしまった。
この風土記の勉強をするに当って、もう少し知っておかねばならないことを痛感して、遺称地を訪ねてみる事にした。
まず向かったのは、那珂郡の郡衙(郡家)があったとされる「台渡里廃寺跡」である。
風土記には余り詳しいことは書かれていない。
「郡家より東北の粟川(現那珂川)の両岸に駅家(うまや)が置かれた。駅家が粟川に近く囲まれているようなので「河内」の名がついた。」
と記載が残っているだけ。
この地名の「河内」は現在那珂川の東北岸に「中河内町」、「上河内町」という町名があり、「かわち」とは読まずに「ガチ」と読ませている。もっとも「なかかわち」「かみかわち」を悠長な発音などしない水戸っぽが発音すれば、「ナカガチ」「カミガチ」と短くしてしまったのだと推察は付く。
駅家はこの那珂川の両岸にあったので、南西側の地名は「渡里町」となる。
これも川を渡る場所(里)として付けられたものだろう。
ここに「台渡里廃寺跡」という国指定の史跡が残されている。

直ぐ前は道路でくるまの交通量も結構あるところだが、この一角は広々して草が茂って開けている。

道路側の入口に「国指定史跡」の看板が掲げられている。
この場所は真中の「観音堂山地区の台渡里廃寺跡」と思われる。
この南側に塔などがあったようだ。

北側の長者山地区に那賀郡郡家跡が見つかっているようだ。
この長者については確か八幡太郎の伝説が残されている。
(茨城の民話アーカイブ:こちら)

この台渡里廃寺跡の広場の一角に神社「台渡里八幡神社」が残されている。

境内はまだボタン桜(八重桜)の花ビラがハラハラと散っている最中でした。



この広場の奥は住宅が立ち並び、木の生い茂った林も残されています。

地図で見てみると、この原の奥の道路を東(右)に少し行った所に「長者山城跡」があり、「一盛長者伝説地」という石碑が置かれているようだ。
常陸国国府のあった石岡の鹿の子より、この台渡里まで奈良時代から鎌倉時代頃まで古代の官道が真っ直ぐに続いていました。
ここで那珂川(粟川)を渡り、官道は海側の道と山側の道に分れたようです。
ただ海側の道は船での輸送が盛んになると徐々に廃れ使われなくなったと推察されます。