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雲井岬つつじ祭(東庄町)

 先日(4/27)、東庄(とうのしょう)町を通りかかって、看板につられて「雲井岬(くもいざき)つつじ祭」を見て来ました。
香取市(旧佐原市、小見川町)の隣。
ここも小見川町と同様に古代は内海がかなり奥まで広がっていた。
この雲井岬も名前の通り、この内海の奥、入り江のような場所の上にある高台で、岬のような場所だったらしい。
横には東庄町の中心的神社の「東大社(つたいしゃ)」がある。
つつじ園もこの大社の付属園的な役割で造られたものらしい。

東大社の少し手前に、このつつじ祭に使える駐車場があるが、私は大社の手前で右に曲がって、車を停めた。
ここにも駐車スペースがある。
車でそのまま進むと、急な坂道で下へ降りる。
岬の先端のようだ。

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この道路の左右につつじの花が咲いている。

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左側は木々の中につつじといろいろな石碑などもあり、神社(大社)の付属施設という感じがする。

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右側へも階段を少し登った少し高い所にあるが、こちらが一般に開放しているつつじ園のようだ。

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園内には休憩用のあづまやなどのあり、ご近所からだろうか何組もの人が訪れて写真を撮ったりしていた。

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つつじはいろいろな色の花が咲いていたが、今年は早いらしく、満開を少し過ぎた頃なのかもしれない。

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天気も良くのんびり気持も和らぎ、ランチを食べに豊里駅方面へ向かいました。

東庄町は古代から中世にかけて常陸国とは縁が深いように思います。
つばきの海からこの町を通り、常陸国への入口となっていたようです。
鹿島氏などもこの千葉氏系列の東氏とは同族として交流があったと思っています。
戦国末期も佐竹氏に攻められ、一部はこちらに逃げてきたような気がしています。
もう少し良く調べないといけませんが。





香取地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/01 12:49

神之池と寒田

 常陸国風土記の香島郡(鹿島郡)の記述には、香島郡の成立について次のように書かれている。

【下総の国、海上の国造の部内、軽野より以南の一里、那賀の国造の部内、寒田より以北の五里とを割きて、別て神の郡を置きき。・・・」
これは記録によれば、西暦649年である。大化の改新(645年)からまもない時になる。

当時、現在の利根川河口附近は、今とはかなり違っていて、霞ヶ浦ももっと大きな内海(香取の海)となっていた。

上記の記述に書かれている軽野(かるの)は、現在神栖市に軽野という地名が残っており、軽野小学校もある。
また、「倭名類聚抄」にも軽野という郷名が記載されている。

一方寒田(さむた)であるが、この風土記の香島郡のも少し後の方に記載があり、
「郡の南二十里に浜の里あり。以東の松山の中に、一つの大きなる沼あり。寒田と謂ふ。四五里ばかりなり。鯉・鮒住めり。之万(しま)・軽野二里に有る所の田、少しく潤へり。」
と書かれている。
距離的(1里≒0.53km)に見てもこれは現在の神之池(ごうのいけ)と見て間違いはないだろう。
また、軽野と共に名前があがっている「之万(しま)」は現在の息栖神社付近の村を言うようだ。

先日神栖市から銚子へ行く途中に神之池に立ち寄ってきた。

神栖の中心地から少し南に下ったあたりだが、近くにはいろいろな市の施設などもあり国道から直ぐには見えないが、通りに沿うように大きな池が広がっている。


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池から奥には鹿島コンビナートのフレアスタックや蒸気用の煙突が空に聳えている。

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池を一周するにはかなり距離もあり、中間には両側を行き来できる橋がある。

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ジョギングや散歩など市民の憩いの場となっている。
車も駐車場はあるが、各種の施設もあってほぼ満車であった。

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現在の神之池は鹿島コンビナートが出来たときに、一部が鹿島港湾側に組み込まれ、1/3位になったと聞いたことがあり、この3倍もあったのは確かに広いと想像できる。

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1300年ほど前がどのようだかはわからないが、記述からは稲作に水を使っていたようだから、今と同じく塩分などはない純粋な池(沼)だったであろう。鯉や鮒などが捕れたのは容易に想像できる。

この池の近くは終戦後に自衛隊航空基地が出来る計画があったという。
しかし反対運動も厳しく、結果は今の小美玉市の百里っ原に百里飛行場が建設された。
今では茨城空港もこの百里っ原に自衛隊との共用空港として建設された。




常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/02 10:09

見慣れない石碑(榑桑回国巡礼碑)

 先日、小美玉市の旧小川町にある「天聖寺」を訪れた。
ここに中国から伝わる海洋の女神といわれる「天妃尊像」を友人に紹介するためである。
天妃尊像については、前に記事を書いているので今回は省略します。
(前の記事は ⇒ こちら

今回は、この寺の表参道川入口近くに置かれているある石碑についてです。

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上の写真が寺の表参道入口です。

竹林と、古びた板碑などが並ぶ石段を上った所にコンクリの収納庫があり、ここにこの天妃尊像が安置されています。が、
この趣のある上り階段正面には、禅寺でよく見かける「不許葷酒入山門」と彫られた大きな石碑が置かれています。

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不許葷酒入山門:葷酒(くんしゅ:ニンニクなどにおい強い臭いや酒臭いもの)の者は山門から入ることを許さず。
ですが、これは寺院をいくつか訪れているうちに自然と理解出来るようになりました。

さて、今回はこれではなく、入口の右側に置かれた巡礼の石碑です。

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回国巡礼碑であろうことは何となくわかります。
一般に「回国供養碑」「六部(六十六部)回国供養碑」「大乗妙典回国記念碑」などと書かれているものは今までに結構多く見かけて来ました。
中世には回国聖と呼ばれた全国行脚の僧や、後世には一般の篤志家が、法華経六十六部の写しを持って全国の霊場に収めて回ったもので、全国を回り終えたときにこのような供養碑を建立したものと思ってきた。
そのため、この回国の文字の前は「大日本」「日本」「大乗妙典」などの文言が書かれたものを目にすることが多かった。
しかし今回の物は違う。
何と読むのだろう??

「榑桑(ふそう)」

と書かれているようです。

榑桑=扶桑(ふそう) と同じらしい。

かつて中国における伝説では東方の彼方に不老不死の巨木・扶桑があり、その巨木の生えている土地を扶桑国と呼んだと言う。
そしてそれが次第に日本国をそのように見なすようになり、日本の異称としても使われたという。
するとこの石碑は中国から日本に巡礼に訪れた人たちがいたのだろうかという思いに駆られた。
これは想像するだけであるが、ここは旧水戸藩の所領であり、中国から来た心越禅師が携えてき天妃(后)尊像」の写しが伝わる貴重な寺であることは確かであるので水戸の祇園寺などとの関係もまだまだ知らないことも多い気がする。



小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/04 10:06

庚申塔(21) 稲敷市神宮寺

 過去に各地(特に銚子)の庚申塔を紹介して来ました。 ⇒ こちら

昨日出かけた時に見た庚申塔をここに追加で載せます。

場所は、安婆様(大杉神社)の少し手前にある神宮寺の境内

元文五年の銘がある立派な庚申塔が二基。
神宮寺は満願上人が建立したと伝わる古社。

元文五年庚申は1740年で、庚申の年は60年に一度ですから江戸時代でもそれほど多くはありません。
西暦が60で割り切れる年です。
次に巡ってくるのは2040年です。

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青面金剛が両脇に2童子を従え、邪鬼を踏みつけ、三猿が下に彫られています。

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これも同じ時期に作られていますが、真ん中部分が欠落しているのでしょうか? 

庚申塔 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/07 11:14

仏さまと聞いた調べは心地よく、幼き日の思い出がよみがえり・・・

 昨日は一日中雨降る生憎の天候であったが、旅ぶらでお世話になった縁で知りあった方のお誘いを受けた企画に出かけた。

萩原嘉市コレクション「SPレコードと蓄音機によるコンサート ほとけ様と一緒に聴く、妙なる音楽時間」

へ出かけた。

行くまでは、お病気になった方も今は元気だと聞いて、是非会いたいな~ と言うくらいの単純な思いであった。
しかも生憎の雨。また次第に雨脚も激しくなるという予報。

車で1時間くらいかかるし・・・・ など恨み節も。
ただ、前日の土曜日にも、安婆様こと、大杉神社へ風の会の新入会員さんを案内し、江戸崎なども案内して、当日はこの催しだけにしていたので、早めに昼食を済ませて12時前に出かけた。

美浦村の陸平(おかだいら)貝塚の入り口にある妙香寺さんが、この日の会場であった。

それほど多くの方はこられないだろうと思っていたのだが、驚く事にたくさんの方がお集り。
50人近くおいでになっていたと思う。
傘をたたんで、靴をビニール袋に入れ、受付をして本堂に・・・

コンサートの最初は本堂の隣にある「薬師堂」で行うというので、また靴をはいて移動。
ただ雨はまだそれほど強くは無く傘はなくても移動は出来た。

この薬師堂の建物は新しく建てられたようだ。
中には立派な茨城県指定の丈六の巨大な薬師如来立像がおられた。

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室町末期頃の像で、寄せ木造りの像だという。
左右に置かれた像があまりにも小さく見える。

コンサートの始まりとして、この像の前で、ご住職(山本住職)さまの般若心経を皆で聴いた。
とても力強くも優しいお声が薬師堂内に響き渡った。

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その後この場でレコードを1曲聞き、本堂に戻って、本格的な蓄音機などのお話しとレコード鑑賞がスタートした。

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ご本尊様と並んだ蓄音機
ホーンの直径は750mmあるという。

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製作されたのは今から90年前の1932年。 昭和7年。
私は地元の生まれではないが、15年ほど前にやってきた石岡の街で起こった大火は昭和4年。
この頃は町も元気があり、復興にも勢いがあった。
今は昭和レトロの漂う看板建築も昭和5、6年の建築だから、この蓄音機の年代でついそんな昔の町の姿を想像してしまった。

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こんな電気のアンプも使わない機械式の蓄音機は私の記憶にはない。
ビクターの看板で見かけたくらい。

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針は主にサボテンの棘と竹。鉄の針はレコードの溝を削ってしまう恐れで、レコードを大事にするにはあまり使わない。
上の写真のはさみのような物は、竹の針をこれで切り、針の先端を再生するという。
毎回のように尖らせながら使う気の使いようだ。
やはり音を聞けば雑音が混じったりするのだろう。
この本堂内にも大きく心地よい音が響きわたった。

1部と2部との間で 美浦村の元村長である市川紀行さんが2020年に出版された詩集「ANTHOLOGY」の中から、
「母に」と題された詩の9番目「シクラメンの花」を市川様の奥様が朗読してくださいました。

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【母に 9】

 母さん ぼくらが小さかった頃
 シクラメンの花なんてあったでしょうか

 秋の夕ぐれ
 村の道は白くかわいて
 わだちの中に草がのび
 野菊や野いちごの花が埃をかぶっていた
 坂を下りはじめると
 牛久沼が赤く染まって
 ああ ぼくは母さんの手を握り
 買ってもらった「小学四年生」を大事に抱えた
 土手の下のわら屋根の家から
 ゆっくり煙がたちのぼり 秋の取り入れ
 牛の荷車がごとごとと行き
 追いついた僕を乗せくれた
 母さんは牛に悪いと遠慮した
 おじさん あははと笑っていたっけ

 野に咲く花の赤や白
 田舎の道のゆらゆらと揺れ

 母さん ぼくらが小さかった頃
 シクラメンの花なんてあったのでしょうか

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この詩を聞いて、私の脳裏に昔の私と母との情景がふっと浮かんできた。

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今、この詩集と部屋中に今も満開に咲くシクラメンの花を眺めている。

私は冬は豪雪で知られる新潟県小千谷市の生まれ。
まだ幼い時に横浜に移り、我が家は小さな家を借りて住んだ。
小学1年の終わりに、東京都下の都営住宅に一家で移った。

今は亡き母さんもその頃、若くて元気だった。
都営住宅など、2軒が並んだ集合住宅だが、それぞれに庭もついた長屋だった。
窓には雨戸が付いていて、毎朝晩に開け閉めをした。
越して来たばかりの時、僕は母に「夢じゃないよね。」と雨戸を閉めながら言ったという。

母はこれが嬉しかったようで、事ある毎に、もう可愛くなくなった僕を見て
「あの時こんなことをいっていたのよ。可愛かったわ。」
などと、繰り返し言っていた。

ほとけさまと音楽と朗読を聴きながら僕の心は遠い過去をさまよっていた。
陽が輝き、土手の道に野ばらの花が咲き、雑木林には草木瓜の赤い花が咲き、木漏れ日が射したり、風が木々や木の葉を揺らし、時には小雨もぱらつく。
そこを抜けると広々とした原っぱが広がる武蔵野の何処にでもある風景が・・・・・
そして母は、重い内職の機械編み機を手に提げて、多摩湖から流れてくる水道道路をよく歩いていた。
重かっただろうな。その母ももういない。

そして第2部では山本さんが選んだ「菩提樹」の曲が・・・・・・
本堂の奥にはこの寺のほとけさまがやさしく微笑む。
インドボダイジュと中国から伝わったとされる菩提樹は違うのだと。
これも新しい知識だ。今まで見てきた可憐な花をつける菩提樹はインドの菩提樹ではなかった。

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山本さま、素敵な時間を有難うございました。
何時までもお元気で、また素敵な企画があればご連絡ください。


選ばれた曲はメンデルスゾーンやモーツアルト、シューマン、ドボルザーク、シューベルトなど・・・
シューベルトでは アヴェマリアをマリアン・アンダーソンの歌のレコードを・・・(Tube参考⇒こちら


近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/08 11:35

久しぶりに江戸崎へ

 連休最後の土曜日、午前中はふるさと風の会での「常陸国風土記」の勉強会。
香島郡の終わりと那賀郡をやりました。
まあやったというより私が説明をしながら、現地の案内などを写真などで説明したといったところ。

その後、会員のお一人(東京からこちらに1年前に来られた方)から、「大洗磯前神社に先日娘に案内してもらって行ったけど、大杉神社までは回れなかった」という。
それなら、これから出かけますか? といって2人で出かける事にした。

その帰り道で、大杉神社とも関係が深い江戸崎の不動院に寄って行きましょうと言って、ご案内してきた。
江戸幕府で絶対的に信頼をされた「天海大僧正」に関係があるけど、あまり知られていないから・・・・と言って。

私も久しぶりの江戸先めぐりとなった。
ここに最初に来たのも11年前。

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「関東八ヶ壇林」の文字がある。ここで壇林の話しを・・。

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仁王門をくぐって、「表参道 長寿の坂」と書かれた石段を上る。
天海僧正が108歳の長寿だった事にあやかったネーミングだろう。
しかし、この階段数はその半分以下。

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仁王門の手前には「医王山の暮雪」の江戸崎八景の石碑が置かれている。

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上からの江戸崎の町と小野川のゆったりとした流れが見下ろせる。
良い眺めだ。
ここの眺めは、江戸崎の歴史を紐解くにはきっと何かを伝えてくれそうだ。

 以前書いた 「稲敷(江戸崎)散歩」 ⇒ こちら(1/2, 2/2)



阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/10 12:25

キバナコスモスの花とチガヤの白い穂

 昨日も銚子まで霞ヶ浦北側の街道を通って車で出かけた。
先日まで周りの田には満々と水が張られ、山々の木々などがそこに映し出されていた。
今はそこに植えられた稲の穂が整然と並び、いかにも日本の原風景が広がっていた。

そして、神栖市の整備された広い車道の両端や中央分離帯では、キバナコスモスの花とチガヤの白い穂が優先順位を競うかのように存在感を高めていた。
一部は黄色い花が一面い続き、外来種の花であっても今では日本にも定着したかのように・・・・
また、ある場所では、チガヤの白い穂が朝日を浴びてキラキラと輝き、風に揺れて・・・・・

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石岡から銚子までは来るまで約2時間。
途中で寄り道したりもするが、何処と決めたわけでもなく、目に付いたもの、興味深そうな何かを感じたところなどを短い時間でささっと見てまわる程度。
こんなことをもう10年以上続けている。

残り人生に何をしたいのか?? などと考えながら・・・ 今も成り行きで進んでいるだけだ。
まあ何か少しでも残せたらなどというものは、何時の世でも同じなのではないかな。

風の会の新規入会者の方が、親の残した思い出記録誌(戦時中や軍隊生活の出来事、戦後の記録)を持って会にこられた。
もう亡くなられた方だが、その内容から自分の生きた記録を書き残して、子孫や関係者に少しでも伝えておきたいという気持が伝わってきた。
ただ、きれいな字では書かれていても、1000ページ以上に及ぶ手書き原稿を、デジタルに打ち直して、書籍にするとなるとかなりの労力、または費用がかかる。

もってこられた方も今年で80歳。パソコンなどでの原稿は書けないので、さてどうしようか?

江戸時代の甲子夜話などは後の人が興味を持って出版し、日の目を見ているのだが、この内容は興味深い点もあるがやはり個人的な範囲に限定されるものが多い。

まあ、自分のことで私も今は精一杯だから、まあいろいろ考えてみよう。
まずは全ページをスキャンして残しておこうと思う。


街中風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/16 10:14

特攻と回天にさくら花

 先日阿見町を通った時に、予科練平和記念館を訪れた。
生憎、風の強い日で、記念館東側の零戦の実物大模型は風の影響で扉を閉めており見学は出来なかったが、西側の庭に展示してある「回天」の実物大模型は見ることが出来た。

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回天:人間魚雷ともいわれた玉砕型1人乗りの魚雷。
敵艦隊近くに行って、1時間ほどの酸素と爆弾を積んで敵の艦船の船底で爆発させる。
特攻隊の飛行機の魚雷版。
30分くらいで目的場所まで操縦し、そこで体当たりか自爆。
位置がずれれば1時間しか潜っていられないので自爆。脱出装置はなかった。

全長14.75m、直径1m、重量8300kg 昭和19年11月から終戦まで420基が製作され、40名が犠牲となった。
ここ予科練からこの回天に約1000人が志願していったという。
成果はあまり得られなかったというが、戦争も末期になるとまさにこうなる。

最近親の世代がほぼいなくなり、戦争を経験した人がかなり少なくなってきた。
そんな中、戦争が出来る普通の国にしたがっている声を良く聞く。

戦争をしない国、出来ない国になることはかなりの勇気とその時の国の政情がそれを許さなければなれない。
今日本をどの方向に向かわせようとしているのか・・・

攻められれば国を守るために戦うのは本当に正しい考えなのか?
子供達を守るのは国に愛国心があるなら、人殺しが出来るのか?

私はこんな考えは愛国心ではないと思う。
地球は人種は違えど人の命は皆大切。
政治が狂ってしまえばヒットラーやプーチンなどが現れる。
戦争など決してやってはいけないと思っていればこんなことはおこらなかっはず。
そんなことを考えながらこの模型をながめていた。

この平和記念館の横にゼロ戦模型とこの回天の模型が展示されたのは2015年の事だ。

この2015年にもう一つの人間魚雷という「さくら花」の映画が作られた。
映画では行方市の大宮神社で祭りの行事の撮影が行われており、私もその記憶はまだある。
映画が終り、この「さくら花」に使われた映画製作のために造られた魚雷型飛行機「さくら花」が役目を終えて、神栖市中央公園内の展示場にそれからずっと置かれている。

先日こちらも近くを通った時に覗いてみた。

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広い公園の広場の一角にポツンとこの展示館が置かれている。
撮影に使われた飛行機(模型)と撮影に使われた服が置かれていた。

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設置(2016年)から暫くたって、ガラス張りの建屋のなかでは塗装もはげかけて少し残念ではあったが、まだ無事にそこにあった。

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この飛行機はエンジンの変わりに爆弾を搭載していた。
勿論、別な飛行機で近くまで連れて行かれて、切り離される。
体当たりするためのロケットエンジンに点火して。

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ロシアとウクライナが戦争している。
台湾も中国から攻められるかもしれないとも言われる。

これを回避するために日本の外交努力は何処までやられているのだろうか?
アメリカと勝手に裏で約束して防衛費増大に邁進する首相と財務省?

戦争など起これば日本などという国などなくなってしまうだろう。

ただ、なんかどんどん息苦しくなっていけば、この国に住めなくなるかもしれないね。
また財政破綻して内部で暴動がおこるなんてことだったあるかもしれないね。


近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/19 15:17

常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その1)

 常陸国風土記の勉強会を「ふるさと風の会」で今年始めました。
時々このブログでも紹介しておりますが、今回は最後の「久慈郡」と「多珂郡」をまとめてみました。
この地域は石岡からは少し離れているので訪れることは少ないです。
また風土記に記述されている内容も少ないのですが、奈良朝の初めの頃のこの常陸国を知るうえではちゃんと読んでおかなければ歴史を理解することは出来ないようです。
8世紀後半はまだ、蝦夷との争いがあったようです。
この2つの郡の内容を理解して書き物にまとめようとここ10日ほど奮闘した結果はA4用紙で30ページほどになりました。
まだまだ中途半端であり、現地にももう少し足を運んでみないとダメですが、そちらは年の後半にでも行くとして、まず第1歩としてまとめたものだけでもブログに載せておきます。
ただ量が多いので5回くらいに分けて載せるつもりです。

19、久慈郡(一) 郡衙:常陸太田市大里町~薬谷町の長者屋敷遺跡?

1、久慈の名前:昔、郡衙の南近くに小さな丘があり、その形が鯨に似ていたから、倭武(ヤマトタケル)の天皇が、久慈と名付けられた。

2、天智天皇の世に、藤原の内大臣(藤原鎌足)の封戸(へひと)の視察に派遣された軽直里麻呂(かるのあたひさとまろ)が、堤を築いて池を作った。
この池の北方を、谷合(たにあい)山という。
岸壁は磐石のようであるが黄土の崖で坑(あな)があり、そこに猿が群らがっていて土を食っている
(注:大化の改新(645年)の際に土地が給付されており、この時に鎌足は領土を賜ったと見られ、これも鎌足が常陸国の出身という説の根拠にもなっている。
中臣鎌足は668年1月に藤原姓を受けたという。
谷合山の現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山という。
角川の地名辞典では久慈郡水府村(現常陸太田市)棚谷に比定する説があるが定かでないとある。ここには雷神山(241m)がある。山頂に風雷神社がある。

3、河内(かふち)の里:郡衙の西北六里(二十里の間違いともいう)のところに、河内の里がある。
むかし古々の村といった(地方の言葉で「ここ」は猿の鳴声という)。
・・・旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった。
ただし合併・離散を繰り返し旧水府村域内は常陸太田市河内西町(里川・玉簾の滝の3km程上流の西側、御岩神社と天下野(けがの)の中間あたり)となっています。

4、石の鏡:里(河内の里)の東の山に石の鏡があり、昔、魑魅(おに)が集まって鏡をもて遊んでいたが、たちまち鬼はいなくなってしまった。
土地の人は「恐ろしい鬼も鏡に向かうと自然に滅んでしまう」という。
(魑魅は土蜘蛛などと同様に現地人をさしているか?)

5、絵具:そこの土は青い色で画を書くのに使うと美しい。
「青丹(あをに)」「岩緑青」とか「かきつに」という。
朝廷の命でこれを採取して都に献上している。
猿声(ここ)は久慈河の源にあたる。

6、静織(しどり)の里:郡の西方十里のところに静織の里がある。
昔、ここで初めて綾(しず:倭文)を織ったことから名付けられた。【静神社がある】

7、火打ち石:北の小川で青色の丹(あか)き石:瑪瑙(めのう)がとれ、良い火打石になる。
そのため玉川と名付けられた。

8、山田の里:郡衙の東?里(2里?)のところに山田の里がある。
開墾が進んでいて田が多いことから名がついた。
そこをながれる清い河(山田川)は、北の山から流れ出て、郡衙近くの南を通って久慈河にそそいでいる。
人の腕ほどの大きさの年魚(鮎あゆ)がとれる。
河の岸を石門(いわと:常陸太田市岩手町?(親沢池親水公園がある)という。

9、歌垣:樹々は林となり川を覆っている。
また清き泉は渕となり下を流れ、青葉は日差しをさへぎり、風にひるがえり、川底の白砂は川波をもてあそび敷物のようだ。
夏にはあちこちの村里から、暑さをさけて集まり、膝を並べ、手をとりあって、筑波の歌垣の歌を歌ひ、久慈の美酒を飲む。
人の世のちっぽけな悩みなどみんな忘れてしまう。

10、大伴の村:この里の大伴の村の河の崖には、鳥が群らがり飛んで来ては、黄色の土をついばんで食べている。

11、太田の郷の長幡部の社:郡衙の東七里、太田の郷に長幡部の社(現常陸太田長幡部神社)がある。
ここの織物は、裁つことも縫うこともなくそのまま着ることができ「全服(うつはた)」という。
別の言い伝えでは、太絹を織るのに人目を隠れ家の戸を閉めて暗いところで織ったことから「烏織」というとも。
力自慢の軍人の剣でもこれを裁ち切ることはできない。
今でも毎年の良い織物を選んで、長幡部の社に奉納している。

古老の話しでは、その織物は初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったという。
:すめみまの命が天降ったときに、衣を織るために、ともに降ってきた綺日女(かむはたひめ)の命は、最初に筑紫の日向の二上の峯に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。
後のみまきの天皇の御世に、長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。

※長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だという。
部(べ)は長幡を織る人達という意味。

後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社の看板には「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と書かれています。

※美濃国の「引津根の丘」:美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社がある。
この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれている。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っているそうで、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたのかもしれません。
引常明神の由来には「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」とあります。

12、薩都(さつ)の里:この郷の北に薩都の里がある。
昔、土雲(つちくも)といふ国栖(くず)がいて、兎上(うなかみ)の命がこれを滅ぼした。
その時「(よく殺すことができて)福(幸)なるかな」と言ったことから、佐都(さつ)と名付けた。
北の山の白土(しらに)は、画を書くのに適している。
⇒常陸太田市里野宮に「薩都(さつ)神社」がある。
里川、佐都、里美などの地名の基となっている。
延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮。
近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」がある。
神社の経緯はかびれの高峯と関連します。
また兎上(うなかみ)の命は下総国海上(うなかみ)国や常陸国の安婆島附近まで前の時代には兎上(うなかみ)国とも書かれているので、この関連が注目されます。

20、久慈郡(二)

1、賀毗禮(かびれ)の高峯(現在の御岩山または神峰山):東の大きな山を賀毗禮(かびれ)の高峯といい、昔、立速男(たちはやお)の命(またの名を速経和気(はやふわけ)という)という天つ神が、天より降り来て松沢の松の木の八俣の上に留まった。
この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち災を示し病気にさせてしまう。
そのため近くに住む人々はいつもひどく苦しんでいた。
そこでとうとう朝廷に願い出て、片岡の大連(おおむらじ)を遣はしてもらって、この神を祭らせ、その詞に、「今この地は、近くに百姓が住んおり、朝夕に穢れ多き所です。あなた様のおいでになるようなところではありません。どうかここから遷って、高山の清き所にお移り下さい」と申し上げた。
神はこれをお聞きになって、賀毗禮の峯にお登りになった。
その社は、石で垣が作られ、この神一族の遺品が多く、様々の宝物、弓、桙、釜、器の類が、すべて石となって残っている。
その地を飛ぶどんな鳥もこの峯を避け、峯の上に通るものは一羽もない。
これは今も同じである。

 (現在山の上には御岩神社奥宮があり、中腹に御岩神社がある。最初に降り立った松沢の地は現在の薩都神社あたりか?

2、薩都河(現里川)といふ小川があり、源は北の山に起こり、南に流れて久慈河に合流する。

3、世にいう高市(たけち)、密筑(みつき)の里(現日立市水木町付近):これより東北へ二里の所に、密筑の里がある。
この村に、大井という泉(現水木町の泉)があり、水は夏は冷たく、冬温かい。
湧き流れて川となっている。
夏にはあちこちの郷里から多くの男女が訪れ、酒肴などで遊び楽しんでいる。
東と南は海で、鮑、カニ、魚介類の宝庫である。
西と北は山で、椎、櫟、榧、栗が多く、鹿や猪が住み、山海の珍味については枚挙に暇が無い。

4、助川の駅家(うまや):東北へ三十里のところに助川の駅家がある。昔、ここは遇鹿(あうか)といった。それは倭建(やまとたける)の天皇が、ここに来られたときに皇后様とお会いになったのでその名がついた。後に国宰(くにのみこともち)久米大夫の時代に、河で鮭を採ったので、助川といふやうになった。(俗に鮭の祖を「すけ」という):助川は日立市助川として地名に残りますが、川の名前は久慈郡と多珂郡の境を流れる宮田川と考えられています。

〔常陸国風土記と県北(久慈郡と多珂郡)〕

久慈郡図1

久慈郡と多珂郡の地域はいわゆる県北地域であり、奥七州などとも呼ばれる地域です。
水戸を中心とした那賀郡の北に当たりますが、」その境界は玉川・久慈川です。
しかし、久慈川の少し南部の静神社のある静織の里なども含まれます。
また多珂郡は、現在の日立市の宮田川(助河)以北と高萩市・北茨城市の地域となります。
戦国時代に佐竹氏が統一した奥七州(多珂郡、佐都東部、佐都西部、久慈東部、久慈西部、那珂東部、那珂西部)の那珂西部と東部の一部を除き、全域に近い地域になります。
常陸国風土記の成立時は、久慈川上流の現在の大子町地域は陸奥国に属しており、延喜式には陸奥国白河郡依上(よりがみ)郷と書かれています。豊臣秀吉の太閤検地時に佐竹氏の保有地として認められ、久慈郡の一部に加わりました。そのため、この風土記の書かれた当時は水郡線の上小川手前辺りが常陸国久慈郡の最北でした。

参考に戦国末期の常陸国の勢力図を以下に示します。

久慈郡図2

久慈郡図3

久慈郡図4

上記の番号が振られた場所(風土記の遺称地といわれる場所)の紹介は次回に続けます。

このような地図を作成していくのは結構手間がかかりますね。
他の仕事もあるのですが、まずは1段落です。


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/26 14:55

常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その2)

前回からの続きです。 場所の地図をもう一度出しておきます。
久慈郡図3
久慈郡図4

1、久慈郡郡衙
 郡衙の場所は確定されていないが、有力な場所として、常陸太田市大里町~薬谷町の長者屋敷遺跡辺りではないかとされています。この遺跡からは古代の郡寺と考えられる久(慈)寺の跡が見つかっています。平成7年に発掘調査がされ、平成9年3月に報告書が発行されています。
 
 久慈郡図5  久慈郡図6
 長者遺跡全景(真ん中の溝部がトレンチ跡)                出土した瓦

2、久慈理丘(中野丘陵)
 久慈郡の名前の由来となったというクジラに似た丘:
風土記の逸文に「常陸国久慈理岳云ヲカ(岳)アリ。其ヲカ(岳)のスガタ、鯢鯨ニタルユエニカク云ヘリト云々。俗語鯨ヲ謂テ久慈理ト為スト云ヘリ」とあるという(角川 地名大辞典)
現在は金砂郷町(現常陸太田市)中野の丘陵地をさすという。
中野は金砂地区の最南端です。

久慈郡図7
中野丘陵:長さは南北約700m、東西最大約500m、標高は約50m

3、河内(かわち)の里
昔猿の鳴き声で「ここ=古々」の村といわれ、それが河内になったという。
ただ茨城北部には河内と書いて、「ガチ」「ゴウド」「カワチ」と様々な読みをする地があります。
ここでは「ここ=河内カワチ」であり、旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった。
ただし合併・離散を繰り返し旧水府村域内は常陸太田市河内西町(里川・玉簾の滝の3km程上流の西側、御岩神社と天下野(けがの)の中間あたり)となっています。

4、谷合山
大化の改新(645年)の際に土地が給付されており、この時に藤原鎌足は領土を賜ったと見られ、これも鎌足が常陸国の出身という説の根拠にもなっている。
中臣鎌足は668年1月に藤原姓を受けたという。
谷合山の現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山という。
角川の地名辞典には久慈郡水府村(現常陸太田市)棚谷に比定する説があるが定かでないと書かれている。
ここには雷神山(241m)がある。山頂に風雷神社がある。

5、石鏡
 この鏡のような石は現在常陸大宮市照山1578(生井沢(なまいさわ)村)に「鏡石」別名「月鏡石」と呼ばれる岩がある。

 久慈郡図8

地殻変動により硬い岩が断層活動で磨かれたもので、鏡肌のような面を持つ岩を言うという。
ただ、この岩が風土記記載の岩かどうか確定はされていない。

6、石門(山田の里)
山田川の岸にあるという石の門(石門:いわと)
場所は、:常陸太田市岩手町あたり?(親沢池親水公園が近くにあります)

7、静織の里・・・静神社: 常陸国二の宮
佐竹寺の前の道を瓜連(うりづら)方面に行けばすぐである。
地図を調べて見るとこの場所は、那珂川沿いにあり粟や阿波山などの地域とは川を挟んだ反対側にある。
やはりかなり昔から人が住んでいたものと考えられる。

静神社のホームページを見ると、
「かつて、この地は3つの神社が鎮座し、さらに、7つの寺院がこれを囲んで大きな霊地を形成していた。また、水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり、門前町、宿場町として、殷賑(いんしん:活気があってにぎやか)をきわめていた。現存している下宿、中宿、門前の地名や藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号はこれを物語っている。」と書かれている。

一般に水戸城下から福島県の棚倉を結ぶ「棚倉街道」は今の国道118号線(常陸大宮を通る)と、もう一つ国道349号線(常陸太田を通る)の2つのルートがある。

この静地区は国道118号線に近い。この道は水郡線に沿った道で、袋田の滝へ向かう道でもある。

 倭文は「しず」「しどり」「しずり」などと読み、古代の織物のことで、静織=倭文 からこの神社の名前になったと考えられる。
祭神は初めて機織をしたという「建葉槌命(たけはづちのみこと)=倭文神」を祀る。
ただこれも最初は「手力雄命」を祀っていたという。
久慈郡図9  久慈郡図10
                              社殿入口の「神門」(唐門)

静神社の創建は明らかではなく、鹿島神宮に次ぐ常陸国二の宮として有名で、特に水戸藩の祈願所と定められ繁栄した。
例祭は4月2日で、国宝の銅印(奈良時代末期の作)が保管されている。
その銅印は「静神宮印」となっており、神宮としての格式があったのかもしれない。

久慈郡図11 久慈郡図12  
         織姫像                      本殿

この里が昔から「静織(しおり)の里」と呼ばれ、初めて織物が織られたと伝えられていることから、唐門の手前左側にこの「織姫像」が置かれている。
東京織物卸商業組合が寄進したものという。
常陸国には古い養蚕の神社も多く、全国の養蚕神社の基になっている。

この静神社は江戸時代に水戸藩の祈願所となり、徳川光圀が、寛文七年(1667年)十月仏寺を分離し、神社とし、本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営したという。
しかし、これらの社殿は、天保十二年(1841年)火によって焼失し、多くの神宝、古文書等も失ってしまった。
現在の社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭によって再建されたものだという。
杉の御神木は、天保の火災で枯れてしまったが、その前までは”千度杉”と呼ばれ、願い事をして、木の周囲を千回回る習慣があったそうです。

8、「玉川」:今もこの名の川が静地区の北を流れ、久慈川に注いでいる。
この玉川からは、昔はメノウが採れたという。
現在も久慈川に注ぐ玉川のや久慈川ではメノウ(瑪瑙)がとれ、江戸時代も久慈川流域の玉髄(メオウ)は「水戸火打ち」として江戸の火打石として最高級として珍重されました。

今でも玉川の近辺で時々見つかるらしく、昔はかなりたくさん採れたようです。
火をおこすのは火打石を鉄などの受け台にこすりつけて火花を飛ばすのですが、火打石を二つをこすりつけるだけでは火花は出ないそうです。

それにしてもこの近辺には金鉱や錫高野なる地名もあるので錫も採れたのだろうと思う。

9、大伴の村:現常陸太田市と思われるが詳細地は不明となっているが、新編常陸によれば、金砂郷村(現常陸太田市)赤土町(西金砂地区)とされ、古代大伴村と云ったが淳和天皇(786~840年)の諱(いみな)が大伴であったので土の色から赤土村に改名したという説を載せている。

10、長幡部の社: 常陸太田周辺には西山荘、佐竹寺、静神社など有名なところも多くありますが、この太田の地には「長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」という機織りの神社(古社)があります。

ここの織物は、静神社に祀られている織物(静織=倭文)とはまた別の織物があって、これは「とても丈夫なので剣でも切れないほどだ」というのです。

また、その織物の伝来について、初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったと書かれています。
まずこの神社へ行ってみると、ここは常陸太田市街地の東側を流れる「里川」のすぐ近くであり、川を越えてすぐのところにありました。
 
手前の幼稚園の裏手に公民館があり、そこに車を止めて、住宅地の間を抜けて神社の入口に到着した。
すると、左右にものすごい切りとおしがあり、その間の石段を登って行きます。
久慈郡図13

鎌倉にも切り通しはあるが、この入口もかなり壁が削られている。
切り通しを登りきると開けた原に出て、右手に鳥居と神社が見えてくる。

久慈郡図14

なかなか古めかしい感じの神社です。
さて、長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だというので、この風土記の記述と関係してきます。部(べ)は長幡を織る人達という意味と思われます。

長幡は後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社が、「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と説明書きには書かれていました。
静神社は倭文(しず)織で、この長幡(ながはた)は紬の原型だというのですが、問題は、この長幡を伝えた先祖について、「綺日女(かむはたひめ)の命が、最初に筑紫の日向に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。
後に長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。」と伝えられています。

 日向(ひゅうが)は宮崎でしょうからここは置いておくにしても、この美濃国の「引津根の丘」とはどこでしょうか?
調べてもあまりはっきりとしたことがわかりません。

しかし、美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社があることがわかりました。

行ったことは無いのですが、この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれているそうです。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っていて、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたと思われます。

この引常明神の由来を調べると「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。
聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」と書かれていました。

この引常神社はこの南宮大社に合祀されたもので、どうも近くの何処になるのかはっきりした資料はありません。
しかし南宮大社の東側に「綾戸」「表佐(おさ)」などの地名があり、この辺りと考えられます。
昔はこの近くまで海がきていて、この辺りが少し丘になっていたので、引津根の丘と呼ばれたのでしょう。

この織物を伝えたのはどんな氏族だったのでしょうか? 
興味はありますが、はっきりしません。
渡来人といわれる「秦氏」の氏族なのかもしれません。

久慈郡図15 久慈郡図16  
       長幡部神社の本殿                  神社の入口に展示室 

この展示室の中に機織りの機械などが置かれていました。
お祭りなどで披露するのでしょうか。
ほこりをかぶっていますので、あまり使われてはいないようです。

岐阜や愛知は機織りが盛んで、今でも多くの地名が残っています。
トヨタ自動車のある愛知県豊田市は元々の地名は「挙母(ころも)」と言う地名でした。
それが、豊田自動織機製作所ができ、その中に1933年自動車部が誕生したのですが、これが自動車の売り上げが伸び1959年に「豊田市」に名前が変わってしまいました。

この挙母(ころも)は衣のことで「許呂母」とも書いていたようです。
もともと生糸の町であったのですが、世界のトヨタに名前まで変わってしまいました。
1000年以上前からの歴史が忘れ去られていくようですね。

この長幡部神社についても常陸太田市のホームページなどをみても扱いがほとんどなく、歴史が泣いているように思ってしまいました。

この神社のすぐ近くに幼稚園があり、その裏手に公民館があります。
その公民館の隣に「機初(はたそめ)小学校跡地」の碑が置かれていました。
現在の機初小学校はこの神社から1kmくらい北に移ったようです。
この地域全体が「はたそめ」と呼ばれています。

11、薩都の里:薩都神社、松沢の地遺称地
常陸太田から北方面を散策していて、久慈郡の古い神社「薩都神社」にたどり着きました。
この里川沿いの道(旧棚倉街道)を通る事も少なかったので、名前は知っていましたが今までお訪れた事がなかったのです。
この「薩都神社」は「さとじんじゃ」または「さつじんじゃ」と読むようです。
神社の案内板にはこの二つの読みがふられていました。

近くの里川、佐都、里美などの地名の基になったとも考えられています。

この近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」もあります。
 
 久慈郡図17 久慈郡図18

県道から東に少し入ったところから脇に入る道があります。
しかし、道には案内看板がありません。
地図を頼りに少し進むと、神社の社が見えて来ました。

でも、私が想像していた神社よりは少し規模が小さく感じます。
「式内郷社」とあり、延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮となっています。

久慈郡には常陸国二宮である「静神社」があり、その他小社が6箇所あります。
入って右手に社務所のような建物がありますが、誰もいないようでした。

 説明板には神社名の「薩都」の読みを「さと」「さつ」と2つ左右に書かれていました。

常陸国風土記には
「此より、北に、 薩都里 あり。 古(いにしへ )に 国 栖(くず )有りき。名をば 土 雲(つちくも) と 曰 ふ。 爰(ここ )に、 兎上命(うなかみのみこと) 、 兵 を 発(おこ) して 誅(つみな) い 滅(ほろぼ) しき。時に、 能 く殺して、「 福 (さち)なるかも」と言へり。 因(よ) りて佐都(さつ)と名づく。… 小水(おがは) あり。薩都河と名づく。」
とあります。

ここでは「薩都」の里を「佐都(さつ)」と名付け、小川を「薩都川」と名付けたとあります。

また佐都の意味は福=幸(さち)の意からきていると書かれています。

勿論これも当時の古老の話しですから別な意味(国栖などの原住民が使っていた言葉など)があるのかもしれません。

神社のいきさつは常陸国風土記に書かれていて、
「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。
昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。
この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。
里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。
その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。
神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。
その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。
鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」とあり、これを纏めると

・延暦7年(788年):(常陸太田市)松澤にある松の木の八俣の上に天津神の「立速日男命(たちはやびおのみこと)」が降り立ったという。そしてその地に社を建てたのが創祀とする。

・延暦19年(800年):しかし、この地に住む百姓などが小便をしたりするので、村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼(カビレ)之峰(日立市入四間町)に遷座した。
現在の御岩神社の裏手の山、御岩山がその遷座した山といわれ、御岩神社もパワースポットとして有名になっている。

・大同元年(806年)には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座(分霊)した。

・正平年間(1346年~1370年)に佐竹義宣が社殿を修造し、大永2年(1522年)に佐竹義舜により現在地に遷座された。
すなわち、御岩神社の奥宮(山全体が神とも)には、「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」があります。
そのため、この神社も元を辿れば御岩神社と同じになりそうです。

(次回に続く)

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