常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その1)
常陸国風土記の勉強会を「ふるさと風の会」で今年始めました。
時々このブログでも紹介しておりますが、今回は最後の「久慈郡」と「多珂郡」をまとめてみました。
この地域は石岡からは少し離れているので訪れることは少ないです。
また風土記に記述されている内容も少ないのですが、奈良朝の初めの頃のこの常陸国を知るうえではちゃんと読んでおかなければ歴史を理解することは出来ないようです。
8世紀後半はまだ、蝦夷との争いがあったようです。
この2つの郡の内容を理解して書き物にまとめようとここ10日ほど奮闘した結果はA4用紙で30ページほどになりました。
まだまだ中途半端であり、現地にももう少し足を運んでみないとダメですが、そちらは年の後半にでも行くとして、まず第1歩としてまとめたものだけでもブログに載せておきます。
ただ量が多いので5回くらいに分けて載せるつもりです。
19、久慈郡(一) 郡衙:常陸太田市大里町~薬谷町の長者屋敷遺跡?
1、久慈の名前:昔、郡衙の南近くに小さな丘があり、その形が鯨に似ていたから、倭武(ヤマトタケル)の天皇が、久慈と名付けられた。
2、天智天皇の世に、藤原の内大臣(藤原鎌足)の封戸(へひと)の視察に派遣された軽直里麻呂(かるのあたひさとまろ)が、堤を築いて池を作った。
この池の北方を、谷合(たにあい)山という。
岸壁は磐石のようであるが黄土の崖で坑(あな)があり、そこに猿が群らがっていて土を食っている
(注:大化の改新(645年)の際に土地が給付されており、この時に鎌足は領土を賜ったと見られ、これも鎌足が常陸国の出身という説の根拠にもなっている。
中臣鎌足は668年1月に藤原姓を受けたという。
谷合山の現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山という。
角川の地名辞典では久慈郡水府村(現常陸太田市)棚谷に比定する説があるが定かでないとある。ここには雷神山(241m)がある。山頂に風雷神社がある。
3、河内(かふち)の里:郡衙の西北六里(二十里の間違いともいう)のところに、河内の里がある。
むかし古々の村といった(地方の言葉で「ここ」は猿の鳴声という)。
・・・旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった。
ただし合併・離散を繰り返し旧水府村域内は常陸太田市河内西町(里川・玉簾の滝の3km程上流の西側、御岩神社と天下野(けがの)の中間あたり)となっています。
4、石の鏡:里(河内の里)の東の山に石の鏡があり、昔、魑魅(おに)が集まって鏡をもて遊んでいたが、たちまち鬼はいなくなってしまった。
土地の人は「恐ろしい鬼も鏡に向かうと自然に滅んでしまう」という。
(魑魅は土蜘蛛などと同様に現地人をさしているか?)
5、絵具:そこの土は青い色で画を書くのに使うと美しい。
「青丹(あをに)」「岩緑青」とか「かきつに」という。
朝廷の命でこれを採取して都に献上している。
猿声(ここ)は久慈河の源にあたる。
6、静織(しどり)の里:郡の西方十里のところに静織の里がある。
昔、ここで初めて綾(しず:倭文)を織ったことから名付けられた。【静神社がある】
7、火打ち石:北の小川で青色の丹(あか)き石:瑪瑙(めのう)がとれ、良い火打石になる。
そのため玉川と名付けられた。
8、山田の里:郡衙の東?里(2里?)のところに山田の里がある。
開墾が進んでいて田が多いことから名がついた。
そこをながれる清い河(山田川)は、北の山から流れ出て、郡衙近くの南を通って久慈河にそそいでいる。
人の腕ほどの大きさの年魚(鮎あゆ)がとれる。
河の岸を石門(いわと:常陸太田市岩手町?(親沢池親水公園がある)という。
9、歌垣:樹々は林となり川を覆っている。
また清き泉は渕となり下を流れ、青葉は日差しをさへぎり、風にひるがえり、川底の白砂は川波をもてあそび敷物のようだ。
夏にはあちこちの村里から、暑さをさけて集まり、膝を並べ、手をとりあって、筑波の歌垣の歌を歌ひ、久慈の美酒を飲む。
人の世のちっぽけな悩みなどみんな忘れてしまう。
10、大伴の村:この里の大伴の村の河の崖には、鳥が群らがり飛んで来ては、黄色の土をついばんで食べている。
11、太田の郷の長幡部の社:郡衙の東七里、太田の郷に長幡部の社(現常陸太田長幡部神社)がある。
ここの織物は、裁つことも縫うこともなくそのまま着ることができ「全服(うつはた)」という。
別の言い伝えでは、太絹を織るのに人目を隠れ家の戸を閉めて暗いところで織ったことから「烏織」というとも。
力自慢の軍人の剣でもこれを裁ち切ることはできない。
今でも毎年の良い織物を選んで、長幡部の社に奉納している。
古老の話しでは、その織物は初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったという。
:すめみまの命が天降ったときに、衣を織るために、ともに降ってきた綺日女(かむはたひめ)の命は、最初に筑紫の日向の二上の峯に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。
後のみまきの天皇の御世に、長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。
※長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だという。
部(べ)は長幡を織る人達という意味。
後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社の看板には「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と書かれています。
※美濃国の「引津根の丘」:美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社がある。
この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれている。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っているそうで、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたのかもしれません。
引常明神の由来には「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」とあります。
12、薩都(さつ)の里:この郷の北に薩都の里がある。
昔、土雲(つちくも)といふ国栖(くず)がいて、兎上(うなかみ)の命がこれを滅ぼした。
その時「(よく殺すことができて)福(幸)なるかな」と言ったことから、佐都(さつ)と名付けた。
北の山の白土(しらに)は、画を書くのに適している。
⇒常陸太田市里野宮に「薩都(さつ)神社」がある。
里川、佐都、里美などの地名の基となっている。
延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮。
近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」がある。
神社の経緯はかびれの高峯と関連します。
また兎上(うなかみ)の命は下総国海上(うなかみ)国や常陸国の安婆島附近まで前の時代には兎上(うなかみ)国とも書かれているので、この関連が注目されます。
20、久慈郡(二)
1、賀毗禮(かびれ)の高峯(現在の御岩山または神峰山):東の大きな山を賀毗禮(かびれ)の高峯といい、昔、立速男(たちはやお)の命(またの名を速経和気(はやふわけ)という)という天つ神が、天より降り来て松沢の松の木の八俣の上に留まった。
この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち災を示し病気にさせてしまう。
そのため近くに住む人々はいつもひどく苦しんでいた。
そこでとうとう朝廷に願い出て、片岡の大連(おおむらじ)を遣はしてもらって、この神を祭らせ、その詞に、「今この地は、近くに百姓が住んおり、朝夕に穢れ多き所です。あなた様のおいでになるようなところではありません。どうかここから遷って、高山の清き所にお移り下さい」と申し上げた。
神はこれをお聞きになって、賀毗禮の峯にお登りになった。
その社は、石で垣が作られ、この神一族の遺品が多く、様々の宝物、弓、桙、釜、器の類が、すべて石となって残っている。
その地を飛ぶどんな鳥もこの峯を避け、峯の上に通るものは一羽もない。
これは今も同じである。
(現在山の上には御岩神社奥宮があり、中腹に御岩神社がある。最初に降り立った松沢の地は現在の薩都神社あたりか?
2、薩都河(現里川)といふ小川があり、源は北の山に起こり、南に流れて久慈河に合流する。
3、世にいう高市(たけち)、密筑(みつき)の里(現日立市水木町付近):これより東北へ二里の所に、密筑の里がある。
この村に、大井という泉(現水木町の泉)があり、水は夏は冷たく、冬温かい。
湧き流れて川となっている。
夏にはあちこちの郷里から多くの男女が訪れ、酒肴などで遊び楽しんでいる。
東と南は海で、鮑、カニ、魚介類の宝庫である。
西と北は山で、椎、櫟、榧、栗が多く、鹿や猪が住み、山海の珍味については枚挙に暇が無い。
4、助川の駅家(うまや):東北へ三十里のところに助川の駅家がある。昔、ここは遇鹿(あうか)といった。それは倭建(やまとたける)の天皇が、ここに来られたときに皇后様とお会いになったのでその名がついた。後に国宰(くにのみこともち)久米大夫の時代に、河で鮭を採ったので、助川といふやうになった。(俗に鮭の祖を「すけ」という):助川は日立市助川として地名に残りますが、川の名前は久慈郡と多珂郡の境を流れる宮田川と考えられています。
〔常陸国風土記と県北(久慈郡と多珂郡)〕

久慈郡と多珂郡の地域はいわゆる県北地域であり、奥七州などとも呼ばれる地域です。
水戸を中心とした那賀郡の北に当たりますが、」その境界は玉川・久慈川です。
しかし、久慈川の少し南部の静神社のある静織の里なども含まれます。
また多珂郡は、現在の日立市の宮田川(助河)以北と高萩市・北茨城市の地域となります。
戦国時代に佐竹氏が統一した奥七州(多珂郡、佐都東部、佐都西部、久慈東部、久慈西部、那珂東部、那珂西部)の那珂西部と東部の一部を除き、全域に近い地域になります。
常陸国風土記の成立時は、久慈川上流の現在の大子町地域は陸奥国に属しており、延喜式には陸奥国白河郡依上(よりがみ)郷と書かれています。豊臣秀吉の太閤検地時に佐竹氏の保有地として認められ、久慈郡の一部に加わりました。そのため、この風土記の書かれた当時は水郡線の上小川手前辺りが常陸国久慈郡の最北でした。
参考に戦国末期の常陸国の勢力図を以下に示します。



上記の番号が振られた場所(風土記の遺称地といわれる場所)の紹介は次回に続けます。
このような地図を作成していくのは結構手間がかかりますね。
他の仕事もあるのですが、まずは1段落です。
時々このブログでも紹介しておりますが、今回は最後の「久慈郡」と「多珂郡」をまとめてみました。
この地域は石岡からは少し離れているので訪れることは少ないです。
また風土記に記述されている内容も少ないのですが、奈良朝の初めの頃のこの常陸国を知るうえではちゃんと読んでおかなければ歴史を理解することは出来ないようです。
8世紀後半はまだ、蝦夷との争いがあったようです。
この2つの郡の内容を理解して書き物にまとめようとここ10日ほど奮闘した結果はA4用紙で30ページほどになりました。
まだまだ中途半端であり、現地にももう少し足を運んでみないとダメですが、そちらは年の後半にでも行くとして、まず第1歩としてまとめたものだけでもブログに載せておきます。
ただ量が多いので5回くらいに分けて載せるつもりです。
19、久慈郡(一) 郡衙:常陸太田市大里町~薬谷町の長者屋敷遺跡?
1、久慈の名前:昔、郡衙の南近くに小さな丘があり、その形が鯨に似ていたから、倭武(ヤマトタケル)の天皇が、久慈と名付けられた。
2、天智天皇の世に、藤原の内大臣(藤原鎌足)の封戸(へひと)の視察に派遣された軽直里麻呂(かるのあたひさとまろ)が、堤を築いて池を作った。
この池の北方を、谷合(たにあい)山という。
岸壁は磐石のようであるが黄土の崖で坑(あな)があり、そこに猿が群らがっていて土を食っている
(注:大化の改新(645年)の際に土地が給付されており、この時に鎌足は領土を賜ったと見られ、これも鎌足が常陸国の出身という説の根拠にもなっている。
中臣鎌足は668年1月に藤原姓を受けたという。
谷合山の現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山という。
角川の地名辞典では久慈郡水府村(現常陸太田市)棚谷に比定する説があるが定かでないとある。ここには雷神山(241m)がある。山頂に風雷神社がある。
3、河内(かふち)の里:郡衙の西北六里(二十里の間違いともいう)のところに、河内の里がある。
むかし古々の村といった(地方の言葉で「ここ」は猿の鳴声という)。
・・・旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった。
ただし合併・離散を繰り返し旧水府村域内は常陸太田市河内西町(里川・玉簾の滝の3km程上流の西側、御岩神社と天下野(けがの)の中間あたり)となっています。
4、石の鏡:里(河内の里)の東の山に石の鏡があり、昔、魑魅(おに)が集まって鏡をもて遊んでいたが、たちまち鬼はいなくなってしまった。
土地の人は「恐ろしい鬼も鏡に向かうと自然に滅んでしまう」という。
(魑魅は土蜘蛛などと同様に現地人をさしているか?)
5、絵具:そこの土は青い色で画を書くのに使うと美しい。
「青丹(あをに)」「岩緑青」とか「かきつに」という。
朝廷の命でこれを採取して都に献上している。
猿声(ここ)は久慈河の源にあたる。
6、静織(しどり)の里:郡の西方十里のところに静織の里がある。
昔、ここで初めて綾(しず:倭文)を織ったことから名付けられた。【静神社がある】
7、火打ち石:北の小川で青色の丹(あか)き石:瑪瑙(めのう)がとれ、良い火打石になる。
そのため玉川と名付けられた。
8、山田の里:郡衙の東?里(2里?)のところに山田の里がある。
開墾が進んでいて田が多いことから名がついた。
そこをながれる清い河(山田川)は、北の山から流れ出て、郡衙近くの南を通って久慈河にそそいでいる。
人の腕ほどの大きさの年魚(鮎あゆ)がとれる。
河の岸を石門(いわと:常陸太田市岩手町?(親沢池親水公園がある)という。
9、歌垣:樹々は林となり川を覆っている。
また清き泉は渕となり下を流れ、青葉は日差しをさへぎり、風にひるがえり、川底の白砂は川波をもてあそび敷物のようだ。
夏にはあちこちの村里から、暑さをさけて集まり、膝を並べ、手をとりあって、筑波の歌垣の歌を歌ひ、久慈の美酒を飲む。
人の世のちっぽけな悩みなどみんな忘れてしまう。
10、大伴の村:この里の大伴の村の河の崖には、鳥が群らがり飛んで来ては、黄色の土をついばんで食べている。
11、太田の郷の長幡部の社:郡衙の東七里、太田の郷に長幡部の社(現常陸太田長幡部神社)がある。
ここの織物は、裁つことも縫うこともなくそのまま着ることができ「全服(うつはた)」という。
別の言い伝えでは、太絹を織るのに人目を隠れ家の戸を閉めて暗いところで織ったことから「烏織」というとも。
力自慢の軍人の剣でもこれを裁ち切ることはできない。
今でも毎年の良い織物を選んで、長幡部の社に奉納している。
古老の話しでは、その織物は初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったという。
:すめみまの命が天降ったときに、衣を織るために、ともに降ってきた綺日女(かむはたひめ)の命は、最初に筑紫の日向の二上の峯に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。
後のみまきの天皇の御世に、長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。
※長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だという。
部(べ)は長幡を織る人達という意味。
後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社の看板には「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と書かれています。
※美濃国の「引津根の丘」:美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社がある。
この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれている。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っているそうで、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたのかもしれません。
引常明神の由来には「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」とあります。
12、薩都(さつ)の里:この郷の北に薩都の里がある。
昔、土雲(つちくも)といふ国栖(くず)がいて、兎上(うなかみ)の命がこれを滅ぼした。
その時「(よく殺すことができて)福(幸)なるかな」と言ったことから、佐都(さつ)と名付けた。
北の山の白土(しらに)は、画を書くのに適している。
⇒常陸太田市里野宮に「薩都(さつ)神社」がある。
里川、佐都、里美などの地名の基となっている。
延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮。
近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」がある。
神社の経緯はかびれの高峯と関連します。
また兎上(うなかみ)の命は下総国海上(うなかみ)国や常陸国の安婆島附近まで前の時代には兎上(うなかみ)国とも書かれているので、この関連が注目されます。
20、久慈郡(二)
1、賀毗禮(かびれ)の高峯(現在の御岩山または神峰山):東の大きな山を賀毗禮(かびれ)の高峯といい、昔、立速男(たちはやお)の命(またの名を速経和気(はやふわけ)という)という天つ神が、天より降り来て松沢の松の木の八俣の上に留まった。
この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち災を示し病気にさせてしまう。
そのため近くに住む人々はいつもひどく苦しんでいた。
そこでとうとう朝廷に願い出て、片岡の大連(おおむらじ)を遣はしてもらって、この神を祭らせ、その詞に、「今この地は、近くに百姓が住んおり、朝夕に穢れ多き所です。あなた様のおいでになるようなところではありません。どうかここから遷って、高山の清き所にお移り下さい」と申し上げた。
神はこれをお聞きになって、賀毗禮の峯にお登りになった。
その社は、石で垣が作られ、この神一族の遺品が多く、様々の宝物、弓、桙、釜、器の類が、すべて石となって残っている。
その地を飛ぶどんな鳥もこの峯を避け、峯の上に通るものは一羽もない。
これは今も同じである。
(現在山の上には御岩神社奥宮があり、中腹に御岩神社がある。最初に降り立った松沢の地は現在の薩都神社あたりか?
2、薩都河(現里川)といふ小川があり、源は北の山に起こり、南に流れて久慈河に合流する。
3、世にいう高市(たけち)、密筑(みつき)の里(現日立市水木町付近):これより東北へ二里の所に、密筑の里がある。
この村に、大井という泉(現水木町の泉)があり、水は夏は冷たく、冬温かい。
湧き流れて川となっている。
夏にはあちこちの郷里から多くの男女が訪れ、酒肴などで遊び楽しんでいる。
東と南は海で、鮑、カニ、魚介類の宝庫である。
西と北は山で、椎、櫟、榧、栗が多く、鹿や猪が住み、山海の珍味については枚挙に暇が無い。
4、助川の駅家(うまや):東北へ三十里のところに助川の駅家がある。昔、ここは遇鹿(あうか)といった。それは倭建(やまとたける)の天皇が、ここに来られたときに皇后様とお会いになったのでその名がついた。後に国宰(くにのみこともち)久米大夫の時代に、河で鮭を採ったので、助川といふやうになった。(俗に鮭の祖を「すけ」という):助川は日立市助川として地名に残りますが、川の名前は久慈郡と多珂郡の境を流れる宮田川と考えられています。
〔常陸国風土記と県北(久慈郡と多珂郡)〕

久慈郡と多珂郡の地域はいわゆる県北地域であり、奥七州などとも呼ばれる地域です。
水戸を中心とした那賀郡の北に当たりますが、」その境界は玉川・久慈川です。
しかし、久慈川の少し南部の静神社のある静織の里なども含まれます。
また多珂郡は、現在の日立市の宮田川(助河)以北と高萩市・北茨城市の地域となります。
戦国時代に佐竹氏が統一した奥七州(多珂郡、佐都東部、佐都西部、久慈東部、久慈西部、那珂東部、那珂西部)の那珂西部と東部の一部を除き、全域に近い地域になります。
常陸国風土記の成立時は、久慈川上流の現在の大子町地域は陸奥国に属しており、延喜式には陸奥国白河郡依上(よりがみ)郷と書かれています。豊臣秀吉の太閤検地時に佐竹氏の保有地として認められ、久慈郡の一部に加わりました。そのため、この風土記の書かれた当時は水郡線の上小川手前辺りが常陸国久慈郡の最北でした。
参考に戦国末期の常陸国の勢力図を以下に示します。



上記の番号が振られた場所(風土記の遺称地といわれる場所)の紹介は次回に続けます。
このような地図を作成していくのは結構手間がかかりますね。
他の仕事もあるのですが、まずは1段落です。
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