潮来長勝寺の仏像
潮来アヤメ祭りに合わせて、地元の古刹「長勝寺のご本尊等の仏像が開帳されていました。
祭り会場(前川アヤメ園)から比較的近いのですが、訪れる人は少ないようです。

長勝寺本尊である「阿弥陀三尊」です。
いわゆる阿弥陀如来と左右に観音菩薩(慈悲)と勢至菩薩(智慧)を配しています。
県指定文化財では「阿弥陀如来坐像及両脇侍像」となっています。
檜材を使用した寄木造り・玉眼で定朝様の流れをくむ仏像です。
制作年代は鎌倉時代前期だそうです。
上品上生印を結んでいます。
阿弥陀如来さまに迎えに来てもらって、あの世に行ったらきっと良いことが有りそうですね。
ここ長勝寺は頼朝ゆかりの寺です。

この本尊の左側手前に立っている像は「大迦葉(だいはしょう)立像」で、これも県の文化財に指定されています。
ただ、こちらの指定は比較的新しく平成11年です。
この像は頭部と体部の制作年代が違っています。
頭部は14世紀で、体部は江戸時代の1698年だそうです。
光圀がこの頭部から釈迦の十大弟子の一人である「迦葉」に指定し、体部を造らせたようです。

この長勝寺本堂前には左右に2本の菩提樹の木があります。
このアヤメ祭りの頃に毎年可憐な花が咲きます。

本堂も数年前の台風により被害を受けましたが、修理も終わり、この時期は青葉が一段と美しく、もうじき紫陽花も彩りを添えてくれるでしょう。

祭り会場(前川アヤメ園)から比較的近いのですが、訪れる人は少ないようです。

長勝寺本尊である「阿弥陀三尊」です。
いわゆる阿弥陀如来と左右に観音菩薩(慈悲)と勢至菩薩(智慧)を配しています。
県指定文化財では「阿弥陀如来坐像及両脇侍像」となっています。
檜材を使用した寄木造り・玉眼で定朝様の流れをくむ仏像です。
制作年代は鎌倉時代前期だそうです。
上品上生印を結んでいます。
阿弥陀如来さまに迎えに来てもらって、あの世に行ったらきっと良いことが有りそうですね。
ここ長勝寺は頼朝ゆかりの寺です。

この本尊の左側手前に立っている像は「大迦葉(だいはしょう)立像」で、これも県の文化財に指定されています。
ただ、こちらの指定は比較的新しく平成11年です。
この像は頭部と体部の制作年代が違っています。
頭部は14世紀で、体部は江戸時代の1698年だそうです。
光圀がこの頭部から釈迦の十大弟子の一人である「迦葉」に指定し、体部を造らせたようです。

この長勝寺本堂前には左右に2本の菩提樹の木があります。
このアヤメ祭りの頃に毎年可憐な花が咲きます。

本堂も数年前の台風により被害を受けましたが、修理も終わり、この時期は青葉が一段と美しく、もうじき紫陽花も彩りを添えてくれるでしょう。

曽尼の駅家跡(行方郡)と古道
常陸国風土記を読み解きながら、そこの出てくる地名などを少し追いかけています。
地域に眠る歴史を掘り起こすことが、本来のこのブログのテーマ。
今までに多くの場所を見てきましたが、この風土記を細かく読んでみると、気に留めていなかった場所なども気になるようになりました。
今回、行方郡の郡衙を考えるためにも風土記に書かれている「曽尼(そね)の駅家(うまや)の跡」の碑が道路横に置かれているというので探していってみました。
風土記には有名な角のある蛇の話として出てくる「椎井の池」の近くにあるとなっています。
この池の場所は一応特定され、玉造の泉区にある浄水場のところから下に降ったところにります。
「愛宕神社・夜刀神神社」の看板で案内が出ていますので何度か訪れたことはあります。
ここに鹿島へ通じる官道が通っていたとありますので、私は今まで泉区浄水場近くにあるのではとぼんやり考えていました。
しかし、地元の「玉造郷土文化研究会」で設置したこの駅家の碑のある場所は、県道50号線(玉造-神栖線)沿いにありました。
玉造の市街地より国道354を鹿行大橋方面に進み、県道50号線との交差点「泉北」信号を右に(潮来方面)に曲がってすぐに、泉区浄水場からの道路があります。この少し先にセレモニーホールがあり、このホールの駐車場の先端部に近いところに、下記写真のような石碑と案内板がおかれていました。


一般の民家の入り口近くです。

この曽尼(そね)の名前の由来については確かに風土記の記述では「疏禰毘古」という佐伯の名前から付けられたと書かれています。
佐伯というのは当時大和朝廷に逆らった現地人のことであると一般にはいわれています。
ただ、「ソネ」については、中心都市の隣の部落などにつけられていたのではないかとの指摘もあります。
古代東海道の常陸国国府府中(現石岡)の一つ手前の駅家(うまや)の名前は延喜式に記載があり「曽弥(そね)」となっており、ここも常陸国府から鹿島への官道の一つ目の駅家です。
なぜなのでしょう。
常陸国風土記が書かれた奈良時代の初期に「そね」という名前は既にあったが、これを記載した大和朝廷の人々はこの言葉の意味が分からなかったのでしょうね。
こんなことを考えてこの意味を解明するのも面白そうですね。
さて、この場所は「椎井の池」から見ると少し離れているようにも見えますが、本当にこちらにあったのでしょうか?

この駅家跡の碑が置かれているのは県道50号線に脇道が交差する場所にあります。
上の写真のような細い道が泉浄水場の方から県道50号と並行するようにこの場所に続いています。
ではこの駅家の次の駅家は板来(潮来)にあったと書かれており、現在潮来の古刹「長勝寺」の本堂の横の境内に「板来駅家跡」の木の立て札が建てられています。

今回この県道50号線をそのまま潮来方面に進みました。
しばらく行って右側にたくさんの牛乳などの自動販売機などが立ち並んだ「りさき牛乳店」のところ(信号:手賀?)を少し過ぎて右側に「西蓮寺参道入り口」と書かれた看板がありました。
前に通った時も気になったのですが、ここから参道が2㎞西蓮寺(さいれんじ)まで続いていたようです。
少し道は細いですが、車も十分走れます。
このあたりは一面畑地が広がっていました。
ここは住所も西蓮寺、そしてこの少し先が「井上」でその先が県道183号線と交差し、信号は「井上藤井」です。
信号すぐ隣に大きな施設「なめかた地域医療センター」があります。
実は、この西蓮寺参道入り口と「井上藤井」信号までの区間の右側(西側)の畑の部分に、航空写真から大きな屋敷跡(基礎部分など)が見つかり、「井上長者館跡」と名付けられた場所があります。
恐らく古代の行方郡の郡衙はこの辺りではなかったかと思われるのです。
やはり県道50号線沿いですね。
さて、この50号線をさらに進んでいくと大生古墳群に近い場所「水郷県民の森」脇を通り、大生神社の方からくる県道187号線と立体交差(50号が下)があります。
この交差点付近は「築地」と呼ばれる地域ですがこの交差点のところに「熱田神社」があります。
この熱田神社は江戸時代に水戸光圀が名古屋の熱田神宮と同じようなヤマトタケルの伝承が残されているというので命名された神社名です。
常陸国風土記には書かれていないのですがヤマトタケルの伝承が伝わる珍しい神社だと思います。
この神社の隣に廃校となった「津知小学校」の跡地があります。
この津知という名前は、この場所から潮来市街の現在の辻交差点の方に細長く地名が残され、以前は津知村、今は潮来市辻となりました。
私は風土記に記載された「板来駅家」はこの津知の霞ケ浦近くの川近くにあったのではないかと考えています。
(旧津知役場跡あたり)
辻の名前も多くの場所が、港(津)への街道からの分かれ道についているように感じています。
「津知=津を知る → 辻」
やはりこの鹿島道は現在の県道50号線に近い場所を走っていたというのは大いに考えられそうです。
どうも、今回、江戸時代以降に多くの人々が通った霞ケ浦沿いの国道から昔(古代、奈良時代など)の物を考えるのは間違いのもとのような気がしました。
地域に眠る歴史を掘り起こすことが、本来のこのブログのテーマ。
今までに多くの場所を見てきましたが、この風土記を細かく読んでみると、気に留めていなかった場所なども気になるようになりました。
今回、行方郡の郡衙を考えるためにも風土記に書かれている「曽尼(そね)の駅家(うまや)の跡」の碑が道路横に置かれているというので探していってみました。
風土記には有名な角のある蛇の話として出てくる「椎井の池」の近くにあるとなっています。
この池の場所は一応特定され、玉造の泉区にある浄水場のところから下に降ったところにります。
「愛宕神社・夜刀神神社」の看板で案内が出ていますので何度か訪れたことはあります。
ここに鹿島へ通じる官道が通っていたとありますので、私は今まで泉区浄水場近くにあるのではとぼんやり考えていました。
しかし、地元の「玉造郷土文化研究会」で設置したこの駅家の碑のある場所は、県道50号線(玉造-神栖線)沿いにありました。
玉造の市街地より国道354を鹿行大橋方面に進み、県道50号線との交差点「泉北」信号を右に(潮来方面)に曲がってすぐに、泉区浄水場からの道路があります。この少し先にセレモニーホールがあり、このホールの駐車場の先端部に近いところに、下記写真のような石碑と案内板がおかれていました。


一般の民家の入り口近くです。

この曽尼(そね)の名前の由来については確かに風土記の記述では「疏禰毘古」という佐伯の名前から付けられたと書かれています。
佐伯というのは当時大和朝廷に逆らった現地人のことであると一般にはいわれています。
ただ、「ソネ」については、中心都市の隣の部落などにつけられていたのではないかとの指摘もあります。
古代東海道の常陸国国府府中(現石岡)の一つ手前の駅家(うまや)の名前は延喜式に記載があり「曽弥(そね)」となっており、ここも常陸国府から鹿島への官道の一つ目の駅家です。
なぜなのでしょう。
常陸国風土記が書かれた奈良時代の初期に「そね」という名前は既にあったが、これを記載した大和朝廷の人々はこの言葉の意味が分からなかったのでしょうね。
こんなことを考えてこの意味を解明するのも面白そうですね。
さて、この場所は「椎井の池」から見ると少し離れているようにも見えますが、本当にこちらにあったのでしょうか?

この駅家跡の碑が置かれているのは県道50号線に脇道が交差する場所にあります。
上の写真のような細い道が泉浄水場の方から県道50号と並行するようにこの場所に続いています。
ではこの駅家の次の駅家は板来(潮来)にあったと書かれており、現在潮来の古刹「長勝寺」の本堂の横の境内に「板来駅家跡」の木の立て札が建てられています。

今回この県道50号線をそのまま潮来方面に進みました。
しばらく行って右側にたくさんの牛乳などの自動販売機などが立ち並んだ「りさき牛乳店」のところ(信号:手賀?)を少し過ぎて右側に「西蓮寺参道入り口」と書かれた看板がありました。
前に通った時も気になったのですが、ここから参道が2㎞西蓮寺(さいれんじ)まで続いていたようです。
少し道は細いですが、車も十分走れます。
このあたりは一面畑地が広がっていました。
ここは住所も西蓮寺、そしてこの少し先が「井上」でその先が県道183号線と交差し、信号は「井上藤井」です。
信号すぐ隣に大きな施設「なめかた地域医療センター」があります。
実は、この西蓮寺参道入り口と「井上藤井」信号までの区間の右側(西側)の畑の部分に、航空写真から大きな屋敷跡(基礎部分など)が見つかり、「井上長者館跡」と名付けられた場所があります。
恐らく古代の行方郡の郡衙はこの辺りではなかったかと思われるのです。
やはり県道50号線沿いですね。
さて、この50号線をさらに進んでいくと大生古墳群に近い場所「水郷県民の森」脇を通り、大生神社の方からくる県道187号線と立体交差(50号が下)があります。
この交差点付近は「築地」と呼ばれる地域ですがこの交差点のところに「熱田神社」があります。
この熱田神社は江戸時代に水戸光圀が名古屋の熱田神宮と同じようなヤマトタケルの伝承が残されているというので命名された神社名です。
常陸国風土記には書かれていないのですがヤマトタケルの伝承が伝わる珍しい神社だと思います。
この神社の隣に廃校となった「津知小学校」の跡地があります。
この津知という名前は、この場所から潮来市街の現在の辻交差点の方に細長く地名が残され、以前は津知村、今は潮来市辻となりました。
私は風土記に記載された「板来駅家」はこの津知の霞ケ浦近くの川近くにあったのではないかと考えています。
(旧津知役場跡あたり)
辻の名前も多くの場所が、港(津)への街道からの分かれ道についているように感じています。
「津知=津を知る → 辻」
やはりこの鹿島道は現在の県道50号線に近い場所を走っていたというのは大いに考えられそうです。
どうも、今回、江戸時代以降に多くの人々が通った霞ケ浦沿いの国道から昔(古代、奈良時代など)の物を考えるのは間違いのもとのような気がしました。
国神神社(行方)
常陸国風土記の行方郡の鴨野の記述の少し後に、「郡の西に津済(わたり)あり。謂はゆる行方の海なり。海松(みる)、及塩(またしほ)を焼く藻生ふ。凡て、海に在る雑の魚は、載するに勝ふべからず。但、鯨鯢(くじら)の如きは、未だ曾て見聞かず。
郡の東に国社(くにつやしろ)あり。此を県(あがた)の祇(かみ)と号(なづ)く。杜の中に寒泉(しみず)あり。大井と謂ふ。郡に縁れる男女、会集(つど)ひて汲み飲めり。」とあります。
この郡の東にあるという国社(くにつやしろ)がどんな所かを訪ねてみました。
この社といわれる「国神神社」は行方市行方1820あたりにあります。
玉造の町の方から国道355号線で霞ケ浦に沿って南下し、左の山沿いの旧道と交わってすぐ、左手に「行方郵便局があり、その先を左に入っていったところにあります。
私は県道50号線側からこちらに向かっていきましたが、距離的にはちょうど中間あたりでしょうか。
郵便局側(国道355側)から進むと、右側に「八王子神社」へ曲がる看板があります。
このところを反対の左手に少し入った少しごちゃごちゃした住宅や森が生い茂っていてわかりにくいですが、右手の小山の上に鎮座しています。

少し道がぬかるんでいましたが、畑への作業用の道路のような道を入り、神社入り口は反対側を向いていました。

比較的新しい社殿でしたが、きれいに整備されて守られていました。
これについては下の神社説明碑に記載があり、地元関係者が最近(平成19年)に再建、修理、整備をされたようです。

さて、ここに祭られている神様は「大己貴神(おおなむち)」です。
まあ出雲大社の神である大国主命と同一ですね。
この日本の国造りを成し遂げた神様です。
この風土記に記載の神社は「香島の神子の社」「香取の神子の社」「二つの神子の社」などと表現されている鹿島・香取神宮の子社などを「天神(あまつかみ)」と呼び、もともとその地にあった祇(かみ)を「県(あがた)の祇(かみ)」と区別しています。

他に行方郡には潮来市古高(ふったか)に国上神社があり、やはり大己貴神と少名彦名神をまつっています。
また、潮来市上戸にも国神神社があります。
神社としてはこの上戸の方が有名ですが、古高の国上神社から勧請したのではないかともいわれているようです。
国神神社、国上神社などが全国に数多くありますが、ほとんどが大国主命など、出雲大社とかかわりのある神様が祭られているようです。

この場所も行方市行方(字国神)18020 となっており、字名が「国神」で、このあたりの地区を「神田地区」と呼んでいるようです。
そういえばここに来る手前の道路の反対側に「八王子神社」があったけど、牛頭天皇の皇子(8人)を祀っているというのもどのように関係してくるのだろうか?
明治維新の廃仏稀釈で牛頭天皇を祀る「天王社」は皆、スサノオをまつる神社に替わってしまった。
郡の東に国社(くにつやしろ)あり。此を県(あがた)の祇(かみ)と号(なづ)く。杜の中に寒泉(しみず)あり。大井と謂ふ。郡に縁れる男女、会集(つど)ひて汲み飲めり。」とあります。
この郡の東にあるという国社(くにつやしろ)がどんな所かを訪ねてみました。
この社といわれる「国神神社」は行方市行方1820あたりにあります。
玉造の町の方から国道355号線で霞ケ浦に沿って南下し、左の山沿いの旧道と交わってすぐ、左手に「行方郵便局があり、その先を左に入っていったところにあります。
私は県道50号線側からこちらに向かっていきましたが、距離的にはちょうど中間あたりでしょうか。
郵便局側(国道355側)から進むと、右側に「八王子神社」へ曲がる看板があります。
このところを反対の左手に少し入った少しごちゃごちゃした住宅や森が生い茂っていてわかりにくいですが、右手の小山の上に鎮座しています。

少し道がぬかるんでいましたが、畑への作業用の道路のような道を入り、神社入り口は反対側を向いていました。

比較的新しい社殿でしたが、きれいに整備されて守られていました。
これについては下の神社説明碑に記載があり、地元関係者が最近(平成19年)に再建、修理、整備をされたようです。

さて、ここに祭られている神様は「大己貴神(おおなむち)」です。
まあ出雲大社の神である大国主命と同一ですね。
この日本の国造りを成し遂げた神様です。
この風土記に記載の神社は「香島の神子の社」「香取の神子の社」「二つの神子の社」などと表現されている鹿島・香取神宮の子社などを「天神(あまつかみ)」と呼び、もともとその地にあった祇(かみ)を「県(あがた)の祇(かみ)」と区別しています。

他に行方郡には潮来市古高(ふったか)に国上神社があり、やはり大己貴神と少名彦名神をまつっています。
また、潮来市上戸にも国神神社があります。
神社としてはこの上戸の方が有名ですが、古高の国上神社から勧請したのではないかともいわれているようです。
国神神社、国上神社などが全国に数多くありますが、ほとんどが大国主命など、出雲大社とかかわりのある神様が祭られているようです。

この場所も行方市行方(字国神)18020 となっており、字名が「国神」で、このあたりの地区を「神田地区」と呼んでいるようです。
そういえばここに来る手前の道路の反対側に「八王子神社」があったけど、牛頭天皇の皇子(8人)を祀っているというのもどのように関係してくるのだろうか?
明治維新の廃仏稀釈で牛頭天皇を祀る「天王社」は皆、スサノオをまつる神社に替わってしまった。
古代の郷名(常陸国風土記から)
常陸国風土記を読み進めていくと、この頃の地名はまだかなり固定されておらず、呼び名はあってもまだその地名の意味もよくわからなかったと思われる。
その土地で使われている言葉と、都からやってきたお役人などとの間でスムーズに会話できたのかも意外にわからない気がしてきた。
常陸国の成立も645年の大化の改新から50年くらいの間に形が固定されてきているように思う。
常陸国との呼び名も同様だ。
確かにこの地を統括する国司が選ばれてはいるが、当初はその地に進出して制圧していった武人がそこの長(国造:くにのみやつこ)として任命され、そこに都から別(わけ)と呼ばれる官人を補佐につけて運営していたようだ。
これがやっと形になってくるまで約半世紀(50年)ほどかかっている。
国司として常陸守が初めて任命されたのは西暦700年10月(百済王遠寶)であり、その少し前まで「常陸」という名前は出てきていないようだ。常道などという呼び方はあったようだから、常道が常陸という名前になっていったものとは推察できそうだ。
常陸国風土記の記載によれば、新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の6国に国造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されていたが、
649年:鹿島郡(海上国と那珂とから分割)
653年:行方郡(茨城郡の8里と那珂郡の7里を分割)
653年:信太郡(筑波と茨城郡から700戸を分割
600年代後半:白壁郡(筑波郡から分割)(後に真壁郡と名称変更)
このころの 行方郡の成立と古代郷名日本は白村江の戦いが661~663年であり、唐が高句麗を滅ぼしたのは668年であるので、日本でも唐の制度を早急に取り入れ、外敵にもかなり神経を使っていたと思われる。
当時、距離ではなく面積の里(さと)と呼ばれた単位は戸の単位で約50戸を呼んでいたようであり、この戸はかまどの数で一緒に生活する人数では約10人ほどいたといわれている。
そのため、1里(さと)≒50戸≒500人 が一単位と大雑把にみていいだろう。
また、距離の1里≒0.53km として計算しておけばよさそうだ。
これが、奈良時代のころまでは1里(さと)50戸としていたものが、次第に里を使わずに「郷」の字を使うようになっていった。
930年代に編纂された倭名類聚抄(和名抄)にはそれぞれの郡における郷名が記載されている。
常陸国風土記に最も詳しい記載がされているのは「行方郡」であるので、これを少し、和名抄や現在の遺称地と言われている地名(都市名)とをまとめてみた。
少し頭の中がスッキリした。
しかし何故かこのようなものをあまり見かけないのだが。これも推察が入っていたりして決定的ではないが、今後いろいろな場所へ行って本を読み直してみればだんだんと確信に変わるものと考えている。
行方郡の成立と古代郷名の関係
※0 風土記の表現 和名抄郷名 読み 現在の遺称地※11
<茨城郡> 8里 →9郷(行方の里が行方郷と井上郷に分かれた?)
現原(の丘) 荒原※1 あらはら 芹沢・青柳・若海・蕨・石神
曾尼の村※2 曾禰 そね 玉造中心部
提賀の里※3 提賀 てが 玉造手賀(玉造南西部)
(行方?) 井上※4 いのうえ 井上・藤井・出沼・西蓮寺
〃 行方 なめかた 麻生町行方・船子・五町田・於下
男高の里 小高※5 おだか 旧小高村
(?) 高家 たけべ(たけい) 内宿・両宿・山田
芸都の里 藝都※6 きつ 小貫・次木(なみき)・成田・長野江・三和(帆津倉)
(?) 餘戸※7 あまるべ 小幡・行戸(ゆくど)
<那珂郡> 7里→8郷(香澄の里が香澄郷と八代郷に分かれた)
麻生の里 麻生 あそう 麻生・島並・小屋・石神
香澄の里 香澄 かすみ 永山、清水・牛堀
〃 八代※8 やしろ 上戸・島須・赤須・築地・茂木・堀ノ内
板来の村 板来※9 いたこ 潮来・辻・古高
大生の里 大生 おおう 大生・釜谷・水原・築地・延方
田の里 道田 みちた 新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿
相鹿の里 逢鹿 おおが 大賀・根小屋・蔵川・岡(岡平)・宇崎・八幡・石神・白浜
当麻の里 当麻※10 たぎま 鉾田市当間
※0 白雉四年(653年)に茨城郡より8里、那珂郡より7里の合わせて15里を行方郡とした。
※1 もともとは現原といったようだが、広野が多かったために荒原郷となったという。
※2 曾禰は疏禰毘古という佐伯の名前から村の名前を「曾尼」としたとある。
※3 手鹿という佐伯の名前から村の名前を提賀の里としたとある。
※4 井上は清玉井の上と解釈されており、風土記記載時は行方郷と一体と思われる。
※5 小高という佐伯の名前から男高となったとあるが、平安時代に小高郷になったものか?
※6 化蘇沼稲荷神社は現在高家郷に入るが、当時はこの神社あたりまで芸都の里と考えられる。
※7 50戸(約500軒)を1里(郷)としたが、それに満たない場所を餘戸と呼んでいたという。
※8 平安時代に香澄郷から独立し成立したと思われる。
※9 和名抄には「坂来」と郷名が書かれているが、記載ミスとしている。
※10 和名抄には「当鹿」と郷名が書かれている。これも表記ミスで「当麻」という。
※11 この郷名にあたる現在の遺称地は、新編常陸や角川地名辞典などを参考とした(予想地)
その土地で使われている言葉と、都からやってきたお役人などとの間でスムーズに会話できたのかも意外にわからない気がしてきた。
常陸国の成立も645年の大化の改新から50年くらいの間に形が固定されてきているように思う。
常陸国との呼び名も同様だ。
確かにこの地を統括する国司が選ばれてはいるが、当初はその地に進出して制圧していった武人がそこの長(国造:くにのみやつこ)として任命され、そこに都から別(わけ)と呼ばれる官人を補佐につけて運営していたようだ。
これがやっと形になってくるまで約半世紀(50年)ほどかかっている。
国司として常陸守が初めて任命されたのは西暦700年10月(百済王遠寶)であり、その少し前まで「常陸」という名前は出てきていないようだ。常道などという呼び方はあったようだから、常道が常陸という名前になっていったものとは推察できそうだ。
常陸国風土記の記載によれば、新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の6国に国造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されていたが、
649年:鹿島郡(海上国と那珂とから分割)
653年:行方郡(茨城郡の8里と那珂郡の7里を分割)
653年:信太郡(筑波と茨城郡から700戸を分割
600年代後半:白壁郡(筑波郡から分割)(後に真壁郡と名称変更)
このころの 行方郡の成立と古代郷名日本は白村江の戦いが661~663年であり、唐が高句麗を滅ぼしたのは668年であるので、日本でも唐の制度を早急に取り入れ、外敵にもかなり神経を使っていたと思われる。
当時、距離ではなく面積の里(さと)と呼ばれた単位は戸の単位で約50戸を呼んでいたようであり、この戸はかまどの数で一緒に生活する人数では約10人ほどいたといわれている。
そのため、1里(さと)≒50戸≒500人 が一単位と大雑把にみていいだろう。
また、距離の1里≒0.53km として計算しておけばよさそうだ。
これが、奈良時代のころまでは1里(さと)50戸としていたものが、次第に里を使わずに「郷」の字を使うようになっていった。
930年代に編纂された倭名類聚抄(和名抄)にはそれぞれの郡における郷名が記載されている。
常陸国風土記に最も詳しい記載がされているのは「行方郡」であるので、これを少し、和名抄や現在の遺称地と言われている地名(都市名)とをまとめてみた。
少し頭の中がスッキリした。
しかし何故かこのようなものをあまり見かけないのだが。これも推察が入っていたりして決定的ではないが、今後いろいろな場所へ行って本を読み直してみればだんだんと確信に変わるものと考えている。
行方郡の成立と古代郷名の関係
※0 風土記の表現 和名抄郷名 読み 現在の遺称地※11
<茨城郡> 8里 →9郷(行方の里が行方郷と井上郷に分かれた?)
現原(の丘) 荒原※1 あらはら 芹沢・青柳・若海・蕨・石神
曾尼の村※2 曾禰 そね 玉造中心部
提賀の里※3 提賀 てが 玉造手賀(玉造南西部)
(行方?) 井上※4 いのうえ 井上・藤井・出沼・西蓮寺
〃 行方 なめかた 麻生町行方・船子・五町田・於下
男高の里 小高※5 おだか 旧小高村
(?) 高家 たけべ(たけい) 内宿・両宿・山田
芸都の里 藝都※6 きつ 小貫・次木(なみき)・成田・長野江・三和(帆津倉)
(?) 餘戸※7 あまるべ 小幡・行戸(ゆくど)
<那珂郡> 7里→8郷(香澄の里が香澄郷と八代郷に分かれた)
麻生の里 麻生 あそう 麻生・島並・小屋・石神
香澄の里 香澄 かすみ 永山、清水・牛堀
〃 八代※8 やしろ 上戸・島須・赤須・築地・茂木・堀ノ内
板来の村 板来※9 いたこ 潮来・辻・古高
大生の里 大生 おおう 大生・釜谷・水原・築地・延方
田の里 道田 みちた 新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿
相鹿の里 逢鹿 おおが 大賀・根小屋・蔵川・岡(岡平)・宇崎・八幡・石神・白浜
当麻の里 当麻※10 たぎま 鉾田市当間
※0 白雉四年(653年)に茨城郡より8里、那珂郡より7里の合わせて15里を行方郡とした。
※1 もともとは現原といったようだが、広野が多かったために荒原郷となったという。
※2 曾禰は疏禰毘古という佐伯の名前から村の名前を「曾尼」としたとある。
※3 手鹿という佐伯の名前から村の名前を提賀の里としたとある。
※4 井上は清玉井の上と解釈されており、風土記記載時は行方郷と一体と思われる。
※5 小高という佐伯の名前から男高となったとあるが、平安時代に小高郷になったものか?
※6 化蘇沼稲荷神社は現在高家郷に入るが、当時はこの神社あたりまで芸都の里と考えられる。
※7 50戸(約500軒)を1里(郷)としたが、それに満たない場所を餘戸と呼んでいたという。
※8 平安時代に香澄郷から独立し成立したと思われる。
※9 和名抄には「坂来」と郷名が書かれているが、記載ミスとしている。
※10 和名抄には「当鹿」と郷名が書かれている。これも表記ミスで「当麻」という。
※11 この郷名にあたる現在の遺称地は、新編常陸や角川地名辞典などを参考とした(予想地)
常陸国風土記の世界<信太郡>(1)
「常陸国風土記を読みながら、その遺称地を巡る」をテーマにして少しずつまとめています。
今回は信太郡をまとめてみました。
2-5 信太(しだ)郡 <読みは倭名抄では「志多」> (風土記の記載内容)
(郡衙は美浦村信太付近? 後に下君山へ移転?)
東:信太の流海(うみ)、南:榎(え)の浦の流海、西:毛野の河、北:河内郡
この本にはないが、逸文として、「白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり」とある。これも重要。
(1) 郡の北十里に碓井(うすい)あり、景行天皇が浮島の仮宮(今、浮島に景行天皇行在所(あんざいしょ)跡=お伊勢の台の碑がある)に行幸された時、水質が悪く、差し上げる水がなかった。そこで占いをする者に占わせ掘らせた井戸(碓井)が雄栗の村に残っている。・・・この井戸は陸平貝塚のぶくぶく水のあたりで、雄栗の村は陸平貝塚周辺と推定され、その名は水を浮島へ送ったことによるといわれている。(県HPより)
(2) 西に高来(たかく)の里(現:阿見町竹久:たかく)がある。昔普都(ふつ)の大神(香取神宮の祭神の経津主神か)が天から葦原中津国(:倭国本土?)に降りてきて、山河の荒ぶる神を平定し、身につけていた甲(よろい)・戈(ほこ)・楯(たて)・剣(つるぎ)や玉類まですっかり脱ぎ捨てて天に昇って行った。
・・・美浦村郷中の楯縫(たてぬい)神社が遺称地とされているが、美浦村信太にもう一つ楯縫神社があり、こちらは信太郡惣社と言われこちらの方が古いかもしれない。なお、竹久には阿彌神社(信太郡の二の宮)がある。ただし阿見町中郷にもう一つの阿彌神社がある。両社とも元は1つであったが途中で分れたのかも知れない。
(3) 諺(いいならわし):葦原の鹿は味爛(くさ)れるがごとく、喫(くら)ふに山の宍(しし)に異なれり。二つの国(下総と常陸)の大猟も、絶え尽すことはない。(正確な意味は不明)
(4) 飯名の社(やしろ):現つくば市臼井にある「飯名神社」の分社があったという。場所は龍ヶ崎市と牛久市にまたがる女化稲荷神社との説もあるが、龍ケ崎市八代町稲塚にある「稲塚古墳」あたりとの説が有力。稲塚古墳の墳上には稲塚神社という小祠がある。飯名(いいな)が稲敷の名前の由来との説が強い。つくばの飯名神社境内に万葉集の歌碑がある。
○筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも 愛しき子ろが 布乾さるかも(作者不明、東歌)
→ いな=否、を=諾 でいやちがう? そうかな?と迷っている様子です。
(5) 榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、東海道の常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗用することが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。…榎浦(えのうら)の津は昔の流れ海がどのようになっていたか不明で、小野川西岸とすれば下君山、羽賀沼、江戸崎付近などが考えられる。古代の東海道は対岸の荒海(あらみ)駅屋から舟で渡ってきたと考えられるが、かなり早い時期にこの駅も廃止となったので不明な部分も多い。古代の東海道は中路でほぼ30里(約16km)毎に駅屋は設け、約10疋の馬を配していたと考えられています。香島の大神は鹿島神宮だが、本風土記の香島郡には天つ大神の社(鹿島神宮)、坂戸の社、沼尾の社の三つをあはせて香島の天の大神というと書かれています。
(6) 古老の話し:倭武天皇(ヤマトタケル)が乗浜に行ったとき、浜辺に海苔が乾してあったため、能理波麻(のりはま)村と名付けた。
(7) 浮島:戸数十五戸、田七・八町ばかり、塩を焼いて生計を立てている。社が九ある。
戸数とはかまどの数と考えられるので人口はこの10倍くらいはいたようだ。田畑は少なく塩を焼いて生計を立てていた。社(やしろ)が多く物部氏一族が居住していたのかもしれない。(続日本紀に養老七年(723年)三月 物部国依に信太連(しだのむらじ)の姓(むらじ)を賜ったとある)
(注)以下逸文(写本にはないが、他での引用などで見つかっている文)
(8)黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のためここで亡くなった。このとき角枯を黒前山と改めた。黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたようで、野や道を輝かせた。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国という。
(9)白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり。
3-4 信太郡 (風土記記載の遺称地)

信太郡は今の稲敷市(旧江戸崎町・新利根町・東町・桜川村)と美浦村、阿見町が含まれる範囲と思われます。ただ、この地域も風土記の書かれた当時からは地形的に大きく変化しています。そのため、当時を再現するためにFlood Mapsにより海面高さを+5mしてみて見ましょう。特に違っているところは、
1)利根川の東遷により大きな内海であった南部の地域はすっかり陸地に変化した。
2)下総側の成田地域附近まで内海があり、ここに下総国府から鹿島神宮への官道の駅「荒海(あらみ)」という駅家(うまや)があった。(西暦815年頃廃止)奈良朝初期頃、国司はここから舟で常陸国に渡ったと考えられています。ただ下総国府は現在の市川市真間あたりと考えられており、もう少し手前の布佐や木下あたりから対岸の利根町へ渡り、そこからやはり舟で渡ったとも考えられる。地図には榎浦の流海、榎浦の津を記載しているが、これもまだ特定されているものではありません。
3)当時浮島は陸から分離した島であり、潮の関係で陸続きになることもあったようだ。ただ、江戸時代に土砂が堆積すると同時に浅くなった場所を埋立、干拓して完全な陸続きになった。(これは東側も同じで、現在国道50号線附近まで干拓地が広がっている)
4)現在の古渡(ふっと)から江戸崎のところを流れている小野川は当時今の何倍も川幅が広くあった。これは江戸崎周辺でも江戸時代以降に干拓された地域が広がり茨城百景 「江戸崎の景」や江戸崎八景「吹上の秋月」「洲崎の晴嵐」などの現在の景色と見比べるとわかると思います。水鳥の宝庫だった水辺が広大な水田地帯に変っています。
では現在の地図で遺称地といわれる場所を載せ、詳細をその後に載せます。

① 信太郡郡衙1(信太) ② 信太郡郡衙2(下君山)③ 碓井・雄栗の村
④ 浮島の帳宮 ⑤ 楯縫神社1(郷中)⑥ 楯縫神社2(信太)
⑦ 阿彌神社1(竹来) ⑧ 阿彌神社2(中郷) ⑨ 飯名の社
⑩ 広畑貝塚 ⑪ 弁天塚(大塚)古墳
では次回からはそれぞれの場所を紹介します。
今回は信太郡をまとめてみました。
2-5 信太(しだ)郡 <読みは倭名抄では「志多」> (風土記の記載内容)
(郡衙は美浦村信太付近? 後に下君山へ移転?)
東:信太の流海(うみ)、南:榎(え)の浦の流海、西:毛野の河、北:河内郡
この本にはないが、逸文として、「白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり」とある。これも重要。
(1) 郡の北十里に碓井(うすい)あり、景行天皇が浮島の仮宮(今、浮島に景行天皇行在所(あんざいしょ)跡=お伊勢の台の碑がある)に行幸された時、水質が悪く、差し上げる水がなかった。そこで占いをする者に占わせ掘らせた井戸(碓井)が雄栗の村に残っている。・・・この井戸は陸平貝塚のぶくぶく水のあたりで、雄栗の村は陸平貝塚周辺と推定され、その名は水を浮島へ送ったことによるといわれている。(県HPより)
(2) 西に高来(たかく)の里(現:阿見町竹久:たかく)がある。昔普都(ふつ)の大神(香取神宮の祭神の経津主神か)が天から葦原中津国(:倭国本土?)に降りてきて、山河の荒ぶる神を平定し、身につけていた甲(よろい)・戈(ほこ)・楯(たて)・剣(つるぎ)や玉類まですっかり脱ぎ捨てて天に昇って行った。
・・・美浦村郷中の楯縫(たてぬい)神社が遺称地とされているが、美浦村信太にもう一つ楯縫神社があり、こちらは信太郡惣社と言われこちらの方が古いかもしれない。なお、竹久には阿彌神社(信太郡の二の宮)がある。ただし阿見町中郷にもう一つの阿彌神社がある。両社とも元は1つであったが途中で分れたのかも知れない。
(3) 諺(いいならわし):葦原の鹿は味爛(くさ)れるがごとく、喫(くら)ふに山の宍(しし)に異なれり。二つの国(下総と常陸)の大猟も、絶え尽すことはない。(正確な意味は不明)
(4) 飯名の社(やしろ):現つくば市臼井にある「飯名神社」の分社があったという。場所は龍ヶ崎市と牛久市にまたがる女化稲荷神社との説もあるが、龍ケ崎市八代町稲塚にある「稲塚古墳」あたりとの説が有力。稲塚古墳の墳上には稲塚神社という小祠がある。飯名(いいな)が稲敷の名前の由来との説が強い。つくばの飯名神社境内に万葉集の歌碑がある。
○筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも 愛しき子ろが 布乾さるかも(作者不明、東歌)
→ いな=否、を=諾 でいやちがう? そうかな?と迷っている様子です。
(5) 榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、東海道の常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗用することが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。…榎浦(えのうら)の津は昔の流れ海がどのようになっていたか不明で、小野川西岸とすれば下君山、羽賀沼、江戸崎付近などが考えられる。古代の東海道は対岸の荒海(あらみ)駅屋から舟で渡ってきたと考えられるが、かなり早い時期にこの駅も廃止となったので不明な部分も多い。古代の東海道は中路でほぼ30里(約16km)毎に駅屋は設け、約10疋の馬を配していたと考えられています。香島の大神は鹿島神宮だが、本風土記の香島郡には天つ大神の社(鹿島神宮)、坂戸の社、沼尾の社の三つをあはせて香島の天の大神というと書かれています。
(6) 古老の話し:倭武天皇(ヤマトタケル)が乗浜に行ったとき、浜辺に海苔が乾してあったため、能理波麻(のりはま)村と名付けた。
(7) 浮島:戸数十五戸、田七・八町ばかり、塩を焼いて生計を立てている。社が九ある。
戸数とはかまどの数と考えられるので人口はこの10倍くらいはいたようだ。田畑は少なく塩を焼いて生計を立てていた。社(やしろ)が多く物部氏一族が居住していたのかもしれない。(続日本紀に養老七年(723年)三月 物部国依に信太連(しだのむらじ)の姓(むらじ)を賜ったとある)
(注)以下逸文(写本にはないが、他での引用などで見つかっている文)
(8)黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のためここで亡くなった。このとき角枯を黒前山と改めた。黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたようで、野や道を輝かせた。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国という。
(9)白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり。
3-4 信太郡 (風土記記載の遺称地)

信太郡は今の稲敷市(旧江戸崎町・新利根町・東町・桜川村)と美浦村、阿見町が含まれる範囲と思われます。ただ、この地域も風土記の書かれた当時からは地形的に大きく変化しています。そのため、当時を再現するためにFlood Mapsにより海面高さを+5mしてみて見ましょう。特に違っているところは、
1)利根川の東遷により大きな内海であった南部の地域はすっかり陸地に変化した。
2)下総側の成田地域附近まで内海があり、ここに下総国府から鹿島神宮への官道の駅「荒海(あらみ)」という駅家(うまや)があった。(西暦815年頃廃止)奈良朝初期頃、国司はここから舟で常陸国に渡ったと考えられています。ただ下総国府は現在の市川市真間あたりと考えられており、もう少し手前の布佐や木下あたりから対岸の利根町へ渡り、そこからやはり舟で渡ったとも考えられる。地図には榎浦の流海、榎浦の津を記載しているが、これもまだ特定されているものではありません。
3)当時浮島は陸から分離した島であり、潮の関係で陸続きになることもあったようだ。ただ、江戸時代に土砂が堆積すると同時に浅くなった場所を埋立、干拓して完全な陸続きになった。(これは東側も同じで、現在国道50号線附近まで干拓地が広がっている)
4)現在の古渡(ふっと)から江戸崎のところを流れている小野川は当時今の何倍も川幅が広くあった。これは江戸崎周辺でも江戸時代以降に干拓された地域が広がり茨城百景 「江戸崎の景」や江戸崎八景「吹上の秋月」「洲崎の晴嵐」などの現在の景色と見比べるとわかると思います。水鳥の宝庫だった水辺が広大な水田地帯に変っています。
では現在の地図で遺称地といわれる場所を載せ、詳細をその後に載せます。

① 信太郡郡衙1(信太) ② 信太郡郡衙2(下君山)③ 碓井・雄栗の村
④ 浮島の帳宮 ⑤ 楯縫神社1(郷中)⑥ 楯縫神社2(信太)
⑦ 阿彌神社1(竹来) ⑧ 阿彌神社2(中郷) ⑨ 飯名の社
⑩ 広畑貝塚 ⑪ 弁天塚(大塚)古墳
では次回からはそれぞれの場所を紹介します。
常陸国風土記の世界<信太郡>(2)
(風土記の信太郡の地域を歩いてみた記録を順に数回に分けて載せます。)
① 信太郡郡衙1 美浦村信太附近
信太郡の成立は本文には書かれていないが、逸文として、「白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり」という記載がある。
この風土記成立の奈良朝初期には現在美浦村に信太といわれる地名が残る地域辺りではないかとされています。当時ここらあたりは入り江になった高台にあったと思われます。
② 信太郡郡衙2 美稲敷市下君山附近
古代の官道である「古東海道」の駅家(うまや)を探していくと、下総台地の「荒海(あらみ)」駅家あたりから常陸国側に舟で渡って来たと思われています。ただ、この荒海駅も815年頃には廃止され、次第にルートも北へずれて行き、メインの古東海道は信太郡の北側へ移動したと思われます。風土記記載の「榎浦の津」という常陸国の入口にあったとされる駅家(うまや)も恐らく廃止されたと思われます。しかし、この下君山地区から古代の官寺の跡という遺跡が発見(2014年5月に考古学会報告あり)されました。この寺(下君山廃寺)からは国分寺系列の瓦が出土しており、その制作年代は奈良時代後期と見られています。そのため、奈良時代後期に郡寺として建てられたものと考えられ、郡衙もその頃にこの近くに移転されたものと考えられます。現在現地は畑地と林が点在しており、塔の路盤なども残されているようです。
③ 碓井・雄栗の村 陸平(おかだいら)貝塚附近
昔、景行天皇が浮島の仮在所に来た時に井戸を掘らせた場所は、現在の国指定史跡となっている「陸平貝塚公園」内の北側にある「ぶくぶく水」といわれる湧き水ではないかといわれている。
そのため、この辺り「雄栗の村」であり、この池が「碓井」であるかもしれないという。
しかし確かなことはわかっていない。
この貝塚を訪れた時に書いた記事を参考に以下に載せます。
<縄文時代を貝塚に見た(陸平貝塚)>
この美浦村周辺を理解するために最初に訪れたのは国指定史跡である「陸平(おかだいら)貝塚」です。ここは考古学のルーツともいわれるほどその方面では有名な場所です。
陸平というだけあり、丘になって霞ケ浦までの距離も近いですが昔は霞ケ浦も海水であり5000年前は今より2~4m水面が高かったといわれ、貝塚の高さ付近で海に接していたと思われます。頭の上から暑い夏の日差しが降り注ぎ、貝塚に向かう木々の中はツクツクボウシの大合唱でした。運よく地元の協力による発掘調査(小規模ですが)の最中で、地元の小学生も手伝い貝や土器の破片を選別していました。

陸平は明治のころは岡平と称されていたそうで、いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されています。このように長い間人が住んでいたのです。
大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。
住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いをしていました。
今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。そして美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。
まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。
その後、また冬場に現地を訪れました。今度は文化財センターのところから東側の道を散策してみました。植物や動物なども、冬場は何もありません。しかし縄文の丘を渡る風が気持ち良く吹いていました。

丘の先の方の坂を下りると「ブクブク水」という湧水があります。公園のはずれに地元も方たちが再現した縄文時代の家があります。この建設時の説明があり、ここ陸平の地元ボランティアなどの活動を知ることができました。とてもうれしくなりました。美浦村には「陸平をヨイショする会」があります。この会は、陸平貝塚をヨイショすることを目的に、平成7年3月に結成されました。
④ 浮島の帳宮(景行天皇行在所跡(お伊勢の台))
霞ケ浦の南側湖岸を旅すると、この地の古い遺跡が多く眠っているのに驚かされます。しかし、そのほとんどが感心も持たれずにひっそりと眠っています。
確かに貝塚などの遺跡を除けばお話に登場する程度で、本当かどうかも疑われるようなものかもしれません。
ここは稲敷市の浮島に眠る史跡です。名前の通り、昔は霞ケ浦に浮かぶ島だったところです。
黒坂命(くろさかのみこと)はこの地にやってきてここから北の方を制圧していき、日立市北部の竪破山で亡くなり、この霞ケ浦が見える地に埋葬されたと伝えられます。
さて黒坂命の時代後だと推察されますが、景行天皇の第2皇子といわれるヤマトタケル(日本武尊)がこの地にやってきました。
そして、この湖を渡り対岸の行方を含め、東国の地を平定して故郷に戻る途中(伊勢)で病に罹り亡くなったといわれています。
神話であり事実かどうかはわかりません。
常陸国風土記には、この地に父である景行天皇が息子ヤマトタケルの辿った跡を偲んでやってきたと記されています。
景行天皇は、この浮島に来て帳(とばり)の宮(仮宮)に行き、そこにしばらく滞在したとあります。
その場所が「景行天皇行在所(あんざいしょ)跡」でお伊勢の台と呼ばれる丘です。
風土記の逸文では、この行宮に三十日(みそか)滞在したとあり、この島にいる「賀久賀鳥(かくがどり)」のさえずる声が可愛らしかったので伊賀理命を遣わして網を張ってこの鳥を捕まえさせたといいます。
そして、この鳥を捕まえた伊賀理命に「鳥取」という名前を与えたのです。
どうして出雲の国とつながる話がこの地に出てくるのか不思議です。
景行天皇は西暦71年~130年となっていますが、実際には4世紀初め頃の話だと思われます。
浮島地区に入り右側に小山が見えてきた。ここが浮島かと思いましたが、辺りには何もありません。店舗やガソリンスタンドも閉鎖されています。
そのまま進むと真っ直ぐ行く道の両側は田圃や畑など一面の平地となり、昔はこの辺り一帯が海(湖)であったのだろうと想像しながら進む。

浮島に入り、浮島小学校の少し先に「景行天皇行在所」の看板が見えた。
すぐ手前が農家の直売所のような建物があり駐車もできるが、店はやっておらず、辺りにはだれもいない。

階段を登ると少し広くなった小山の上に石碑が置かれていた。
東京墨田区堤通に「隅田川神社」が鎮座しています。この神社は昔「浮島宮」と言われたそうです。
浮島宮はこの景行天皇の行宮のことで、それが隅田川に移されたものだと伝えられています。
でも、この浮島の現地にはそんなことは何処にも書かれていません。
まだまだわからないことがたくさんありそうです。
この隅田川神社(浮島宮)は鳥石楠船命(とりのいわくすふね)を祀っています。
常陸国風土記の世界<信太郡>(1)は→ こちら
① 信太郡郡衙1 美浦村信太附近
信太郡の成立は本文には書かれていないが、逸文として、「白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり」という記載がある。
この風土記成立の奈良朝初期には現在美浦村に信太といわれる地名が残る地域辺りではないかとされています。当時ここらあたりは入り江になった高台にあったと思われます。
② 信太郡郡衙2 美稲敷市下君山附近
古代の官道である「古東海道」の駅家(うまや)を探していくと、下総台地の「荒海(あらみ)」駅家あたりから常陸国側に舟で渡って来たと思われています。ただ、この荒海駅も815年頃には廃止され、次第にルートも北へずれて行き、メインの古東海道は信太郡の北側へ移動したと思われます。風土記記載の「榎浦の津」という常陸国の入口にあったとされる駅家(うまや)も恐らく廃止されたと思われます。しかし、この下君山地区から古代の官寺の跡という遺跡が発見(2014年5月に考古学会報告あり)されました。この寺(下君山廃寺)からは国分寺系列の瓦が出土しており、その制作年代は奈良時代後期と見られています。そのため、奈良時代後期に郡寺として建てられたものと考えられ、郡衙もその頃にこの近くに移転されたものと考えられます。現在現地は畑地と林が点在しており、塔の路盤なども残されているようです。
③ 碓井・雄栗の村 陸平(おかだいら)貝塚附近
昔、景行天皇が浮島の仮在所に来た時に井戸を掘らせた場所は、現在の国指定史跡となっている「陸平貝塚公園」内の北側にある「ぶくぶく水」といわれる湧き水ではないかといわれている。
そのため、この辺り「雄栗の村」であり、この池が「碓井」であるかもしれないという。
しかし確かなことはわかっていない。
この貝塚を訪れた時に書いた記事を参考に以下に載せます。
<縄文時代を貝塚に見た(陸平貝塚)>
この美浦村周辺を理解するために最初に訪れたのは国指定史跡である「陸平(おかだいら)貝塚」です。ここは考古学のルーツともいわれるほどその方面では有名な場所です。
陸平というだけあり、丘になって霞ケ浦までの距離も近いですが昔は霞ケ浦も海水であり5000年前は今より2~4m水面が高かったといわれ、貝塚の高さ付近で海に接していたと思われます。頭の上から暑い夏の日差しが降り注ぎ、貝塚に向かう木々の中はツクツクボウシの大合唱でした。運よく地元の協力による発掘調査(小規模ですが)の最中で、地元の小学生も手伝い貝や土器の破片を選別していました。


陸平は明治のころは岡平と称されていたそうで、いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されています。このように長い間人が住んでいたのです。
大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。
住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いをしていました。
今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。そして美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。
まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。
その後、また冬場に現地を訪れました。今度は文化財センターのところから東側の道を散策してみました。植物や動物なども、冬場は何もありません。しかし縄文の丘を渡る風が気持ち良く吹いていました。

丘の先の方の坂を下りると「ブクブク水」という湧水があります。公園のはずれに地元も方たちが再現した縄文時代の家があります。この建設時の説明があり、ここ陸平の地元ボランティアなどの活動を知ることができました。とてもうれしくなりました。美浦村には「陸平をヨイショする会」があります。この会は、陸平貝塚をヨイショすることを目的に、平成7年3月に結成されました。
④ 浮島の帳宮(景行天皇行在所跡(お伊勢の台))
霞ケ浦の南側湖岸を旅すると、この地の古い遺跡が多く眠っているのに驚かされます。しかし、そのほとんどが感心も持たれずにひっそりと眠っています。
確かに貝塚などの遺跡を除けばお話に登場する程度で、本当かどうかも疑われるようなものかもしれません。
ここは稲敷市の浮島に眠る史跡です。名前の通り、昔は霞ケ浦に浮かぶ島だったところです。
黒坂命(くろさかのみこと)はこの地にやってきてここから北の方を制圧していき、日立市北部の竪破山で亡くなり、この霞ケ浦が見える地に埋葬されたと伝えられます。
さて黒坂命の時代後だと推察されますが、景行天皇の第2皇子といわれるヤマトタケル(日本武尊)がこの地にやってきました。
そして、この湖を渡り対岸の行方を含め、東国の地を平定して故郷に戻る途中(伊勢)で病に罹り亡くなったといわれています。
神話であり事実かどうかはわかりません。
常陸国風土記には、この地に父である景行天皇が息子ヤマトタケルの辿った跡を偲んでやってきたと記されています。
景行天皇は、この浮島に来て帳(とばり)の宮(仮宮)に行き、そこにしばらく滞在したとあります。
その場所が「景行天皇行在所(あんざいしょ)跡」でお伊勢の台と呼ばれる丘です。
風土記の逸文では、この行宮に三十日(みそか)滞在したとあり、この島にいる「賀久賀鳥(かくがどり)」のさえずる声が可愛らしかったので伊賀理命を遣わして網を張ってこの鳥を捕まえさせたといいます。
そして、この鳥を捕まえた伊賀理命に「鳥取」という名前を与えたのです。
どうして出雲の国とつながる話がこの地に出てくるのか不思議です。
景行天皇は西暦71年~130年となっていますが、実際には4世紀初め頃の話だと思われます。
浮島地区に入り右側に小山が見えてきた。ここが浮島かと思いましたが、辺りには何もありません。店舗やガソリンスタンドも閉鎖されています。
そのまま進むと真っ直ぐ行く道の両側は田圃や畑など一面の平地となり、昔はこの辺り一帯が海(湖)であったのだろうと想像しながら進む。

浮島に入り、浮島小学校の少し先に「景行天皇行在所」の看板が見えた。
すぐ手前が農家の直売所のような建物があり駐車もできるが、店はやっておらず、辺りにはだれもいない。


階段を登ると少し広くなった小山の上に石碑が置かれていた。
東京墨田区堤通に「隅田川神社」が鎮座しています。この神社は昔「浮島宮」と言われたそうです。
浮島宮はこの景行天皇の行宮のことで、それが隅田川に移されたものだと伝えられています。
でも、この浮島の現地にはそんなことは何処にも書かれていません。
まだまだわからないことがたくさんありそうです。
この隅田川神社(浮島宮)は鳥石楠船命(とりのいわくすふね)を祀っています。
常陸国風土記の世界<信太郡>(1)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(3)
⑤ 楯縫神社1(美浦村郷中)
楯縫神社は2箇所あり、最初は大きな方の神社から紹介します。美浦村郷中にあります。
風土記の記載では普都(ふつの)大神は、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和め、それを終へて天に帰らうとして、身に着けていた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けていた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行ったとあります。
この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様で、物部(もののべ)氏の神といわれています。


神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
この神がこの地を平定して帰る時に身につけていた楯や剣などを全てこの地に残していったと伝えられているのです。
「楯脱ぎ」というのが「楯縫」になったといわれています。
その残された楯や剣などをお祀りしたのがこの楯縫神社です。
香取神宮のあたりからこの美浦・阿見辺りまでは昔、物部氏の勢力範囲となっていたと考えてもいいでしょう。延喜式の神社名簿にはこの楯縫神社と阿見町竹来(たかく)にある阿弥神社の2社が載っています。
場所は旧125号線の美浦村中心地を通過してバイパスと交わる少し手前にあります。
神社入り口の1の鳥居から2の鳥居に進み真っ直ぐ正面に神社の拝殿が見える。古木に囲まれて進むと気持ちも神聖な気分になる。
現地の案内板によればこの神社には木製の狛犬があり村の文化財だという。
やはり阿吽の対になった狛犬だというが狛犬を屋外に置くようになったのは江戸時代になってからだそうで、ここの狛犬は屋内に置かれているのだという。
姿を見て見たかったが内部は見えなかった。訪れた時は境内の紅葉もきれいだった。しかし一人もいない。静かでひっそりとした神社はいい。
本殿にもかなり凝った彫刻が彫られていました。
⑥ 楯縫神社2(阿見町郷中)
稲敷郡美浦村にあるもう一つの楯縫(たてぬい)神社(信太)を紹介します。
この楯縫神社は、美浦トレセンに向かう途中の「信太(しだ)」とその地名に残されている場所にあります。そこは信太小太郎の屋敷あったとされる「佐倉」のすぐ近くです。


トレセンに向かう途中の通り近くの空き地に車を停めて、通りの東側の神社を目指します。
この辺り一帯が少し高く飛び出していて、この高台の下まで昔は海が来ていたであろうことが推察できます。
もう一つの楯縫神社とは明らかに地形が違っています。
むかしの人が建てた神社などの祭礼の場所としてはこのような崖の上のような場所が向いていると思われます。
神社脇の道を行くと家や田んぼが広がり霞ヶ浦につながっている。
1500年くらい前はどんな姿だったのだろうか?
神社は郷中の楯縫神社に比べればかなり質素です。しかし、こちらの神社が信太郡総社だとも言われています。

拝殿
神社は無人のようだが、管理されている人は代々おられるようだ。信太小太郎の子孫だとも言われるという記事も読んだが内容は不明。 この先の「美浦トレセン」近くで「大作台遺跡」「信太入子ノ台遺跡(トレセン美駒寮横)H22年」などの遺跡が見つかっており、縄文時代から平安時代の住居跡や、「志太」と墨で書かれた土器なども見つかっていて大変興味深い地域なのです。
⑦ 阿彌神社1(阿見町竹来)
信太郡の二ノ宮といわれる阿見町竹来(たかく)に鎮座する「阿弥(阿彌)(あみ)神社」に行ってみました。常陸国風土記に「高来の里」と出てくるところです。(高来=竹来)
「碓氷から西に行くと高来(たかく)の里がある。」と書かれた場所です。
この阿弥神社は県社でもあり格式の高い神社です。阿見町の名前の由来となっていると感じました。12月初めに訪れたのですが、銀杏の木が神社拝殿前にあるのですが、訪れる人も少なく、銀杏の葉のじゅうたんが出来ていました。

神社拝殿

神楽殿(昔の神宮寺?)
この神社の創建は607年、推古天皇(593-629)の年代と伝えられています。
ここは物部の「普都大神」の降臨した地であり、中世では庄内第一の惣廟(そうびょう)として二の宮と呼ばれていたが、近世になって(明治6年10月)「阿弥神社」と改めたという。
この神社の祭神は「武甕槌命」となっており、香取の神ではなく鹿島の神です。
藤原氏が天下をとるとその神(春日大社)は鹿島の神(武甕槌命タケミカヅチ)で、物部氏の足跡が消えていったのかも知れません。
境内社。このほかに参道の途中から小道がのびており、幾つもの小さな祠(境内社)が置かれています。
また神社の参道は両側には鬱蒼とした木々が聳えます。
ここは阿見町指定天然記念物の「阿弥神社樹叢(じゅそう)」です。
この神社神域の日本杉はいつからあるのかは明らかではないそうで、300年以上前からあることは切り株などからわかっているだけだそうです。
しかし、この千数百年前からの歴史ある地域の樹叢を天然記念物に指定しています。
それにしてもこの神社も忘れられたように鎮座しています。

神社本殿。元禄4年(1691)の棟札がある。
阿見町内では最古の建築だそうだ。吉田麦翠の句碑『湖の風も通うて夏木立』が入口鳥居のすぐ近くの木の茂みの中に置かれています。麦翠は地元竹来の人で、近世後期の町域農民に広く俳句を普及させました人です。

入口鳥居から神社までの参道の両側にこの樹叢が広がります。

神社拝殿手前に置かれている狛犬はなかなか面白く、迫力もある顔です。
⑧ 阿彌神社2(阿見町中郷)
阿見町の名前の謂れともなっている「阿彌神社」が二つあり、それぞれがこの「元となっている」との論争もあるようだ。どちらもかなり古くからある神社だ。今度は阿見町の中心に近い阿見町中郷にある阿彌神社を紹介します。


中郷の阿彌神社は国道125号線のバイパスと県道203号線とに挟まれた場所で、国道側の西郷信号近くに鳥居がありそこから長い参道が続いている。
この神社は現地看板の由緒では
「「崇神天皇18年(紀元前80年)、豊城入彦命が崇神天皇の勅命による東国平定で当地に訪れた際、「皇祖の天下を経営せらるるや阿彌普都、実に能く天業を補弼せり、其神功成るに及びて天に還りしと、蓋し是地に於てするや」と常陸国風土記に記された普都大神の事蹟を偲ばれた。この御言葉が信太郡阿彌郷、ひいては阿見町の由来になったという。この伝承を縁故として、和銅元年(708年)に祠を建てて皇子を祀り、阿彌神社と称した。豊城入彦命の後裔一族に大網公があり、その氏神かという推測がある。」とある。
この鳥居から真っ直ぐに長い参道が続き、その先に神社の拝殿が見えてきました。
手前には狛犬が2対置かれています。また、この拝殿に向かって左側(西側)に一つの社が置かれている。

調べてみるとどうやらこれは旧霞ヶ浦海軍航空隊の敷地内にあった旧霞ヶ浦神社だという。海軍航空隊の殉職者の英霊をまつっていたが戦後GHQにより強制的に廃絶となり、社だけをこの神社に移して保存したという。しかし現在は境内社とはなっておらず、自衛隊の敷地内の土浦航空隊神社にて祀られるとともに、英霊は東京神宮にある東郷神社境内の社に移されたという。
2つの阿弥神社を比べて見ると、竹来は鹿島神宮の祭神である「健御雷之男命(タケミカヅチ)」が主祭神で副祭神が香取神宮の祭神である「經津主命」と中臣氏(藤原)の祭神「天兒屋根命」です。
一方、中郷の阿弥神社は主祭神が「豊城入彦命」であり、こちらは海側ではなく陸側から東にやってきている。
石岡市柿岡にある丸山古墳がこの墓だとも言われている。
どうも物部氏の進出範囲がこの辺りで止まっているようだ。
常陸国風土記の世界<信太郡>(1)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(2)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(4)
(参考)もう一つの阿彌神社と竹来三社
・もう一つの阿彌神社(古女子神社)
茨城県阿見町には前述したように2つの阿彌神社があるが、延喜式の式内社としてどちらがその起源かは意見が分かれている。しかし、もう一つ気になる神社が存在する。
それが「鹿島古女子神社(かしまこなごじんじゃ)」という。


場所は国道125号線バイパスの「香澄の里工業団地」の信号から左の竹来の阿彌神社方面にすこし入ったあたりだ。
あまり車も通らない奥まった場所(掛馬543)にある。
神社入り口のまわりは畑が広がり、反対側は木々が生い茂っている。
この神社の入口鳥居は街道側とは反対側であり、竹来の阿弥神社の方向を向いている。
祭神は「鹿島御子神」だそうだ。伝承によればこの神は竹来の阿彌神社の子孫にあたるという。
その他に建御雷之男命・経津主命・天児屋根命・宇賀之魂命 ・水波能売命・大日霊命などを祀る。
創建は大同年間(806-810)といわれる。
境内近くの森にはいくつもの古墳が何も書かれずに散在している。
古女子古墳群というようで、前方後円墳を含む4基が存在している(1基は消滅した?)という。
・ 竹来三社(阿見町)
竹来(たかく)三社と呼ばれる古社が阿見町にある。
鹿島神宮と密接なつながりを持つことをうかがわせる。


竹来三社(阿彌神社・室崎神社・十握神社) 鹿島の大神(鹿島神宮・坂戸神社・沼尾神社)
1)阿彌神社(竹来) 1)鹿島神宮
創建:推古天皇十五年(607年)? 創建:神武天皇元年(紀元前660年)?
祭神:健御雷之男命 祭神:武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)
配祀:經津主命、天兒屋根命
2)室崎神社:創建:貞観二年(863年)? 2)坂戸神社:創建 不明
祭神:天兒屋根命 祭神 天児屋命(あめのこやねのみこと)
3)十握神社:創建:貞観二年(863年)? 3)沼尾神社:創建 不明
祭神:經津主命 祭神 経津主(ふつぬし)神
常陸国風土記には「天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸社と、沼尾社の三つをあはせて、香島の大神と称する」とあります。
そしてこの三社が一直線上にあることが知られています。
この鹿島三社(香島大神)とこの竹来三社は共に同じように一直線上に配置され、それぞれに祀られている祭神の関係が同じようになっています。
阿見町の竹来阿彌神社が鹿島神宮と同じような位置関係にあり、坂戸神社、沼尾神社に相当するのが室埼神社、十握(とつか)神社となります。
また「鹿島古女子(こなご)神社」は、竹来阿弥神社の鹿島御子神(三神)の子孫が建立したといわれ、創建は 大同年間(806~810)と考えられています。
また鹿島神宮の郡家跡が鹿島神宮の南側(神宮から見て坂戸神社の反対側)から見つかっており、同じように信太郡の郡衙もこの鹿島古女子神社付近に最初にあったのかもしれません。
また武甕槌命、天兒屋根命、經津主命 の三神だが、武甕槌命は全国の鹿島神社に祀られており、經津主命は香取神社に祀られている。
また天兒屋根命は中臣氏(藤原氏)の氏神です。
・室崎神社
前に紹介した2つの阿弥神社(中郷と竹来)を結ぶ道路の中間点に道がクランクに折れ曲がった場所にこの「室崎神社」という神社がある。
神社の場所は「曙」となっているが、元々はこの辺りは大室と呼ばれていたらしい。
この神社の創建はかなり古く、貞観元年(862年)とか、仁和3年(887年)とかいわれているという。そして祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこ)である。

この室崎神社拝殿前には小さな相撲の土俵がある。大人が相撲を取るには小さすぎるのでちびっ子相撲でも行なわれているのだろうか。竹来三社の一つらしいが、竹来阿見神社に合祀されてもこうして元の場所に残るというのは鹿島神宮の坂戸社、沼尾社などとも同じなのかもしれない。
この辺りは香取社もきっとあったのではないだろうか。しかしそのほとんどが鹿島神社になって行ったのかも知れない。このあたりでは鹿島の神(タケミカヅチ)も香取の神(フツヌシ)もどうやら一緒の神として混ざり合っているようだ。
・十握神社
阿見町廻戸(はざまど)の高台の一角にこの古い神社がある。
十握神社(とつかじんじゃ)という変わった名前で、祭神は經津主神。阿弥神社、室崎神社、十握神社の3つを竹来三社と言われている。
廻戸(はざまど)城があった高台台地の一番はずれの坂を上ったところに神社の入り口があった。
参道は他の2社と同じように南南西を向いている。

住宅もすぐ下に迫っている。
向こう奥に霞ケ浦が見える。
十握(とつか)とはどういう意味であろうか。
調べてみると瀬戸内海のちいさな島「志々島」にも同じ名前の神社が残されている。
志々島は本当に小さな島だが樹齢1200年以上ともいわれる大楠の大木がある。
志々島の十握神社の祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)であり、 「十握」の名前は日本武尊が持っていた十握(束)剣から来ていると書かれていた。
やはりこちらも十束(十握)の意味だろうか?
拝殿前に室崎神社と同様に小さな土俵があった。
⑨ 飯名の社(阿見町中郷)
今から1300年程前に、東北及びそれより北はまだ蝦夷地で大和朝廷の支配が及んでいなかった時、大和朝廷の一番北に位置したのがここ常陸国(今の茨城県)です。
そして、常陸国への入口が、この信太郡と言えます。
東北地方は陸奥(みちのく=道奥)と呼ばれていますので都から続く道も、その頃はこの常陸国(国府:石岡)まで続いていたのでしょう。
常陸という名前も、一般的な解釈では「常道」(ひたみち)=平に続く道 から来ているという説明が行われています。
その他にもヤマトタケルが袂を水に濡らして(浸して)しまったとかなんとかいろいろに言われますが、この信太郡を見ていると少しちがった解釈も出来そうに思います。
この常陸が大和朝廷の中に組み込まれ、律令制が施行された初期の頃、この常陸国の手前には「流海」とか「香取の海」と名呼ばれた大きな内海が広がっていました。
また、日高見国(ひたかみのくに)というと東北地方にあったとの解釈がずうっと行われてきましたが、1300年程前はこの信太郡の地をそう呼んでいたと解釈できる記述が残っています。
「日高」と名前がつく地名が日本各地に存在し(道成寺のある和歌山県日高郡など)、大和朝廷の北進(東進)に従って、その名前が北や東に移って行ったようです。
日高見国が常陸(日の昇る地)となったというのもしっくりとすると思います。
稲敷市は2005年に江戸崎町・新利根町・東町・桜川村が平成の大合併でできた市です。
何故稲敷の名前を使ったのでしょうか? 当然昔はこの辺りはすべて稲敷郡という郡名がついていました。
この稲敷郡というのは昔から使われていた名前で、牛久市、竜ヶ崎市、阿見町、美浦村、河内町などがこの地域に入っていました。
8世紀初めに書かれた常陸国風土記の逸文によれば「白雉4年(653年)、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太郡を置かれた」とされています。
残されている風土記の信太郡の記述によると「その里より西にある飯名(いひな)の社は、筑波の山の飯名の神を分祀したものである。」と書かれています。
飯名の社というのは現在筑波山の麓にある古い神社「飯名神社」のことで、こちらは「筑波郡」の項を参照ください。(別途)
ただ「飯名(いいな)」の名前そのものが筑波山(神)を指しているように思います。
そして、『新編常陸国誌』(江戸時代後期~)には、「八代村(龍ヶ崎市)に稲塚(稲塚古墳)といふ丘あり」と書かれています。
どうもこの信太郡の飯名はこの竜ヶ崎市の稲塚あたりにあった社で、筑波山の麓に残る「飯名神社」から分祀したようです。
稲作は現在では縄文時代から行われていたというのがどうやら定説になりそうなので、この辺りに南洋の島から伝わってきたのではないかなどと考えるのもロマンが広がります。
イネなどという言葉については「イナ」「伊奈」なんて言葉の連想するのも楽しそうです。
稲敷が筑波山の神の宿るこの飯名(いいな)=いな=稲から来ているということは興味をおぼえます。
牛久市の西側に「伊奈町」という地名がありましたが、今では「つくばみらい市」になりました。
この「伊奈」も同じ流れでついたように思います。
常陸国風土記の世界<信太郡>(1)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(2)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(3)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(5)
⑩ 広畑貝塚(浮島と製塩)
広畑貝塚は、先日浮島を散策して偶然に見つけましたが、ここは国の史跡に認定されている重要な史跡です。
浮島の真中を走る街道にも近く、ただの空地に案内板が置かれています。
特に目立って特徴的なものはありません。
こんなところでも貝塚が発見されたのだと思う程度です。
ただの平地に見えます。

案内版には
「この貝塚は標高1.5~2.0mの比較的低地に営まれていた貝塚で、明治29年(1896)から発掘調査が行なわれました。
縄文式土器と弥生式土器とが層位的に区別される遺跡として注目され、さらに出土品の中に粗製無文の土器片から多量の炭酸カルシウムが検出されるところから、縄文期における土器製塩の遺跡であることが確認され、昭和57年(1982)に文部大臣より史跡(貝塚)の指定を受けました。・・・・」と書かれています。
常陸国風土記には
「乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでいる。
また九つの社があり、口も行いもつつしんで暮らしている。」という記述があります。
浮島の村の人家は十五軒とありますが、昔は1軒(竈が1個)で10人近くが生活していたようなので100人以上いたのではないかと思われます。
ただ風土記の内容は4世紀頃くらいでしょうから、縄文時代はずっと前になります。この製塩土器というのは、製塩用の土器に海藻を利用して採ったかん水を入れ煮つめて塩を作るものです。
ここの浮島は風土記には海苔が採れたとも書いてあります。
ではいったい何時頃から行なわれてきたのでしょう。
全国に製塩土器が発見されているようなのですが、ここの常陸国(茨城)がもっとも古いようです。
さて、この広畑貝塚からは縄文時代と弥生時代の遺跡が階層的に見つかっているようで、ここに書いた製塩土器は縄文時代のものだといいます。
すると、この貝塚が製塩土器の最古のものかもしれません。
紀元前1000年頃になりそうです。今から3000年ほど前のことになります。
しかし、この発見された場所は説明にある通り海抜が+1.5~2mくらいのところにあります。
ということは、3000年前はこの辺りの海面は今より1.5~2mくらい高い程度であったと考えられます。
⑪ 弁天塚(大塚1号)古墳 - 黒坂命古墳
茨城の名前についてはこの風土記に書かれている「黒坂命(くろさかのみこと)」なる人物が、この地に住む「野の佐伯・山の佐伯」を茨で棲みかとなっていた穴や洞窟を塞いでやっつけたことが名前の由来だと書かれています。
この「黒坂命」とはどんな人物だったのでしょうか?
この頃の英雄はほとんど、どこかの神社に祀られ神様となっています。
しかし、この黒坂命は、これだけの活躍をしたにもかかわらず、死んだとされる日立市十王町の「黒前(くろさき)神社」に祀られているだけです。
調べて見ると「多氏(大氏)(おおし)」の系統の人物だったと思われます。
常陸国風土記の逸文では日立市十王町の竪破山(たつわれさん)で亡くなった黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かい、この時幡がたなびいている様子から幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国というと書かれています。
この黒坂命の墳墓ではないかといわれる古墳が江戸時代に発見されました。
称は弁天塚古墳とか大塚1号古墳などと呼ばれています。
場所が最初わからずにうろうろしましたが、まさかこんな場所といった感じで、すぐ隣は一般の家が建っていました。

色川三中(土浦市出身)が「黒坂命墳墓考」として記録されています。・・・・」と記され、黒坂命の墓ではないかと考察したとしています。
しかし、この時に発見されたとしている石棺や鏡、剣、甲冑などがたくさん記録されていますが、何も残されていません。
この古墳の下面で海抜5~6m、頂上でも10mくらいです。
さて、黒坂命がこの地に来たのはいつごろなのでしょうか?
3世紀後半から4世紀初めでしょうか。
この古墳は2005年の筑波大考古学研究室の調査で、古墳の形態から古墳時代中期前半と思われますと、案内板にも書かれています。
そうするとやはり5世紀半ばくらいのものでしょう。
黒坂命の年代は特定されていませんが、時代が合うかどうかはわかりません。
<信太郡終わり>
常陸国風土記の世界<信太郡>(1)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(2)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(3)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(4)は→ こちら
広畑貝塚は、先日浮島を散策して偶然に見つけましたが、ここは国の史跡に認定されている重要な史跡です。
浮島の真中を走る街道にも近く、ただの空地に案内板が置かれています。
特に目立って特徴的なものはありません。
こんなところでも貝塚が発見されたのだと思う程度です。
ただの平地に見えます。

案内版には
「この貝塚は標高1.5~2.0mの比較的低地に営まれていた貝塚で、明治29年(1896)から発掘調査が行なわれました。
縄文式土器と弥生式土器とが層位的に区別される遺跡として注目され、さらに出土品の中に粗製無文の土器片から多量の炭酸カルシウムが検出されるところから、縄文期における土器製塩の遺跡であることが確認され、昭和57年(1982)に文部大臣より史跡(貝塚)の指定を受けました。・・・・」と書かれています。
常陸国風土記には
「乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでいる。
また九つの社があり、口も行いもつつしんで暮らしている。」という記述があります。
浮島の村の人家は十五軒とありますが、昔は1軒(竈が1個)で10人近くが生活していたようなので100人以上いたのではないかと思われます。
ただ風土記の内容は4世紀頃くらいでしょうから、縄文時代はずっと前になります。この製塩土器というのは、製塩用の土器に海藻を利用して採ったかん水を入れ煮つめて塩を作るものです。
ここの浮島は風土記には海苔が採れたとも書いてあります。
ではいったい何時頃から行なわれてきたのでしょう。
全国に製塩土器が発見されているようなのですが、ここの常陸国(茨城)がもっとも古いようです。
さて、この広畑貝塚からは縄文時代と弥生時代の遺跡が階層的に見つかっているようで、ここに書いた製塩土器は縄文時代のものだといいます。
すると、この貝塚が製塩土器の最古のものかもしれません。
紀元前1000年頃になりそうです。今から3000年ほど前のことになります。
しかし、この発見された場所は説明にある通り海抜が+1.5~2mくらいのところにあります。
ということは、3000年前はこの辺りの海面は今より1.5~2mくらい高い程度であったと考えられます。
⑪ 弁天塚(大塚1号)古墳 - 黒坂命古墳
茨城の名前についてはこの風土記に書かれている「黒坂命(くろさかのみこと)」なる人物が、この地に住む「野の佐伯・山の佐伯」を茨で棲みかとなっていた穴や洞窟を塞いでやっつけたことが名前の由来だと書かれています。
この「黒坂命」とはどんな人物だったのでしょうか?
この頃の英雄はほとんど、どこかの神社に祀られ神様となっています。
しかし、この黒坂命は、これだけの活躍をしたにもかかわらず、死んだとされる日立市十王町の「黒前(くろさき)神社」に祀られているだけです。
調べて見ると「多氏(大氏)(おおし)」の系統の人物だったと思われます。
常陸国風土記の逸文では日立市十王町の竪破山(たつわれさん)で亡くなった黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かい、この時幡がたなびいている様子から幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国というと書かれています。
この黒坂命の墳墓ではないかといわれる古墳が江戸時代に発見されました。
称は弁天塚古墳とか大塚1号古墳などと呼ばれています。
場所が最初わからずにうろうろしましたが、まさかこんな場所といった感じで、すぐ隣は一般の家が建っていました。

色川三中(土浦市出身)が「黒坂命墳墓考」として記録されています。・・・・」と記され、黒坂命の墓ではないかと考察したとしています。
しかし、この時に発見されたとしている石棺や鏡、剣、甲冑などがたくさん記録されていますが、何も残されていません。
この古墳の下面で海抜5~6m、頂上でも10mくらいです。
さて、黒坂命がこの地に来たのはいつごろなのでしょうか?
3世紀後半から4世紀初めでしょうか。
この古墳は2005年の筑波大考古学研究室の調査で、古墳の形態から古墳時代中期前半と思われますと、案内板にも書かれています。
そうするとやはり5世紀半ばくらいのものでしょう。
黒坂命の年代は特定されていませんが、時代が合うかどうかはわかりません。
<信太郡終わり>
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夏至のころの夕日
今年の夏至は6月21日というので、すでに1週間以上日が経ってしまっていますが、まだ日没時間も遅いですね。
昨日(6/29)は銚子で仕事を5時過ぎに終えて、帰路につきましたが、銚子からは夕日を追いかけるように車は進みます。
そして、やはり、今頃はなかなか暗くなりません。
昨日は麻生の天王崎付近でもまだ太陽が地平線より上に見えていました。
せっかくだから霞ケ浦に沈む夕日を眺めていこうと天王崎公園に立ち寄りました。

そう、まさに沈みゆくところです。

ここの夕日はいろいろな思い出があります。
少しほっとした気分でしばらく眺めていました。
昨日(6/29)は銚子で仕事を5時過ぎに終えて、帰路につきましたが、銚子からは夕日を追いかけるように車は進みます。
そして、やはり、今頃はなかなか暗くなりません。
昨日は麻生の天王崎付近でもまだ太陽が地平線より上に見えていました。
せっかくだから霞ケ浦に沈む夕日を眺めていこうと天王崎公園に立ち寄りました。

そう、まさに沈みゆくところです。

ここの夕日はいろいろな思い出があります。
少しほっとした気分でしばらく眺めていました。
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