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常陸国風土記の世界<行方郡>(1)

行方郡

 この行方郡は本風土記でも省略箇所は無いとされ、もっともボリュームの多い地域となっています。
他の地域についても同じように細かく記載があったのかどうかわかりませんが、当時の様子を知るにはやはりこの書かれている場所を訪ねて見ることも大切ではないでしょうか。

常陸国風土記の行方郡も現在の玉造・井上・芹沢あたりから徐々に南下していき、潮来(板来)地方まで順番に書かれている。
1300年も前の事でもあり、当時の地形や町や集落の様子などは全く違っていたであろうから、書かれている場所を正確に探すことはかなり困難でもある。
地名として残されていたりしても、そこが当時からそのように呼ばれていたとは限らない。
まあ、それでもこのあたりのことを言ったのであろうと推察して楽しむことはできる。

そんなところを勝手に推察したりしていくのもまた良いだろうということで、勝手に決めた遺称地なるものをいくつか載せて見よう。

では、この行方郡の領域を、風土記に記載された地名の内容で見て行きましょう。
ここでは次の6箇所に地域を分けてまとめてみる事にしました。
各地区の右側には和名抄に書かれている郷名を参考に記しました。

1)玉造地区:荒原郷・曾禰郷
2)手賀・井上地区:提賀郷・井上郷・行方郷・餘戸郷
3)小高・麻生・香澄地区:小高郷・麻生郷・香澄郷・八代郷
4)北浦・大生地区:大生郷・逢鹿郷・道田郷・藝都郷・高家郷
5)潮来地区:板来郷
6)鉾田市当麻地区:当鹿(当麻)郷

行方郡01

①現原の丘      ② 梶無川       ③ 鴨之宮1
④ 鴨之宮2      ⑤ 若海香取神社    ⑥ 曾尼の駅家
⑦ 椎井の池と夜刀神社 ⑧ 荒原神社      ⑨ 玉清の井
⑩ 井上神社     ⑪ 井上長者館跡(郡家?) ⑫ 国神神社
⑬ 橋門阿弥陀堂(鯨岡) ⑭ 側鷹神社(香取の神子) ⑮ 大麻神社
⑯ 八坂神社     ⑰ 天王崎      ⑱ 化蘇沼稲荷神社(藝都の里)
⑲ 鉾神社(小牧)  ⑳ 雷神社(丘前の宮)  21 大生神社
22 板来の駅家    23 国神神社(古高)   24 熱田神社
25 当麻の郷(二つの神子の社)

(1)玉造地区(荒原郷・曾禰郷)

行方郡02

① 現原(あらはら)の丘

 風土記には「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、車駕(みこし)を廻らして、現原(あらはら)の丘に幸し、御膳を供へ奉りき。
時に、天皇、四を望みまして、侍従を顧て曰りたまひしく、「・・・・・・此の地の名を、行細(なめくわし)の国と称ふべし」とのりたまひき。・・」と書かれています。

 この現原の丘からの眺めがまるで山や谷などが、細かなヒダのように織り成していて行細しと言う表現がぴったりするから「行方(なめかた)」と言うのだと・・・・
まあ、この名前の説明はこじつけであることは明らかですが、その話は別にして、この現原の丘がどこかと言うと、これは行方市の教育委員会で指定されている場所があります。

梶無川を上流に行った芹沢地区に近い場所です。
河童伝説でおなじみの手奪橋の直ぐ横に架かる橋を渡って、玉造工業高校の方へ少し進んだところに「現原の丘」の矢印看板が出ています(玉造工業高校側からは約1.7kmです)。
この看板にしたがって右に進むと若海ゴルフコースの案内板があります。

そして坂を登る道が続きますが、両脇はゴルフ場のきれいな芝のエリアが広がり、その間をこのような金網のフェンスで仕切られた道を進みます。

途中に左右をゴルファーが行き来できる解放された場所もあり、また上を渡る歩行者用の橋もあります。

行方郡03 
行方郡04

そしてゴルフ場の途切れたあたりが田となっていて、そこに「現原の丘」の看板があります。
行政的な市町村合併の歴史を見て見ましょう。
1889年(明治22年)4月1日に「捻木村」・「若海(わかうみ)村」・「芹沢村」・「谷島村」が合併し「行方郡現原村」が発足し、昭和30年に玉造町に編入されています。

常陸国風土記にはこの行方郡と隣の茨城郡との境はこの梶無川となっていますが、明治22年に発足した「現原村」のうち、捻木(ねじき)村と谷島村は川の西側ですので、昔は茨城郡であったかもわかりません。

② 梶無川(かじなしがわ)

 現在の「梶無川」と呼ばれている川は、風土記には昔「大益(おおや)河」と呼ばれていたが、ヤマトタケルの天皇がこの河を小舟に乗り上流に向かっていたときに舟の梶が折れてしまったので「無梶河(かじなしがわ)」と呼ぶようになった。と書かれています。

又この川ではたくさんの魚がとれ茨城郡との境となっていたと書かれています。

行方郡05

一方、現原の丘近くの芹沢地区にかかる橋は「手奪橋(てうばいばし)」となっており、芹沢家に伝わる伝説(いたずら河童の手を切り落として、それを取り返しに来た河童は手を膏薬ですぐさま元通りに継ぎ直し、お礼に良く効く膏薬を置いて行った)により「手奪川」などとも表示されることもあるようです。

この橋の近くの小字名には「テバイ」地名も残されていますので「テバイ川」などともいわれた地域もあったようです。
河童の手を継いだという「手継ぎ神社」も近くにあります。

(その2へ続く)


常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/03 11:45

常陸国風土記の世界<行方郡>(2)

③ 鴨之宮1(加茂地区)

 常陸国風土記には「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、現原の丘から降りて、無梶河を郡境の果てまで行ったとき、鴨が飛びわたるのが見えた。
そこで天皇が弓でそれを射ると、弓の弦の音に応じて鴨が地に落ちた。
鴨が落ちた場所を「鴨野」と言う。
しかしそこは土地が痩せていて草木も生えない。」
と書かれており、この鴨の落ちた場所にお宮を建て祀ってきたといわれています。
その場所が実は2箇所あります。

最初にお宮が建っていた場所が、昭和2年に鹿島参宮鉄道が玉造駅から鉾田方面に延伸することになり、この鴨の宮の敷地を通過する事になったのです。
そしてこのお宮のあった近くの崖上に「鴨の宮再建」と刻んだ碑が建立されたとあります。
そしてその50年後の昭和53年に玉造第一保育園のすぐ北東の山側に「鴨の宮」が移されました。
しかし、これが遷宮との意見と分社という意見で分れており、元あった場所にも鴨之宮が残されています。
まずは移転された後の鴨之宮を紹介します。
玉造市街方面から県道116号を梶無川に沿って上流へ進むと玉造甲から乙地域に入り、左側に「玉造第一保育園」があります。

この保育園の先の右手の細い道を少し行くとその左側の山の中腹に神社があります。

行方郡06

行方郡07
 
「鴨の宮」と書かれた案内矢印看板を少し上れば神社の鳥居が見えます。
鳥居の横に彫刻家の宮路久子さんが作られたヤマトタケルの像が置かれています。
この神社に置かれた説明板には昭和50年3月9日に元の鴨の宮の地から遷宮されたと書かれています。
ただ、今の神社が立てられる前までここには「石神神社」という神社があったそうです。

④ 鴨之宮2(鴨の宮地区)

 さて、遷宮される前の鴨之宮は何処にあったのでしょうか?
あまりはっきり書かれているものが見当たりません。
そこで、この鴨の宮を探してみました。
元あったという鴨の宮は江戸時代末期に存在した玉造郷校の跡地から東に250mくらいの場所にあると書かれた記事がありましたので、江戸時代に水戸藩の大山守をしていたという「大塲(おおば)家住宅」へ。

行方郡08

行方郡09

なかなか手入れも行き届いていて梅の花もきれいに咲いていた。
この大塲家の裏山に戦国時代末期まで玉造城があり、城は1591年に佐竹氏により無くなったが、江戸の末期に玉造郷校が建てられました。
大塲家住宅の右横の細い道が少し上ると右側に郷校があった場所に登る階段があります。
その入口に玉造郷校跡の説明看板が置かれていた。
また道の少し上には玉造城跡の説明看板もあります。
この上まで車で回りこんで登れる。
町が見下ろせる高台に出るが、ここには鴨之宮の元あったと思われる場所を見つけることは出来なかった。
鴨も宮があったのはここから東に250mくらいだというが、・・・

そこで、この場所は鹿島鉄道が通っていた場所になるはずなので、航空写真の地図上に、旧鹿島鉄道の線路らしきところを辿ってみた。

行方郡10

旧鹿島鉄道の線路が走っていた場所と思われるところに赤い線を引いた。
旧玉造駅は鉄道廃止後に以前行ったことがあり、ぼんやりとしたイメージはあった。
玉造の先は、榎本駅だと思っていたが、記の地図の右端部に「坂本駅跡」のマークがあった。
調べてみるとこの坂本駅は1957年に廃止された駅だという。
初めて知ったが、こんなものも一つの発見になる。

大塲家住宅の前の道をそのまま東方面に進むと、この鹿島鉄道の下を道路が通っている。
即ち道路の上を鉄道が通っていて、この鉄橋が壊されずに残っていた。

行方郡11

鴨の宮がこの線路で邪魔になり移転となったというのは昭和2年(1927)。この鉄道の軌道のあった場所らしき所にめぼしを付けて大塲家方面に戻る途中に玉造郷土研究会が掲げた看板が置かれていた。

行方郡12

その看板のところから、そのまま上に続く道を上った。

道は山に入って行く。そのまま歩数で100~150歩程度でここの家の墓所に出た。
代々続くこの方(関口家)の墓所のようだが、その一角にこの「鴨之宮跡」の石碑とヤマトタケルの像などが置かれていた。
 
行方郡13

行方郡14

行方郡15

行方郡16

 
この石祠には菊の御紋と「鴨之宮神社」と彫られていた。
今もこの地は「鴨の宮」というようだ。

(その3へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら




常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/04 10:14

常陸国風土記の世界<行方郡>(3)

● 大宮神社

 提賀の里のところに香島の子神の社の記述があり、この場所は次の手賀地区の「⑧荒原神社」を遺称地として挙げていますが、この玉造甲と乙(内宿)の境界地区に鎮座する大宮神社もこの候補地の一つです。
行方(なめがた)市には鹿島神社と香取神社が入り混じってたくさんあります。
鹿島神宮にも近いのに香取神社が比較的多いように感じます。
この大宮神社は鹿島神社の神であるタケミカヅチを祀っています。
延喜式の式内社でも途中で移動したり、分裂していくつかに分かれたりすることは多いですので、提賀の里に書かれていても時代で移されてみたものと考えることができます。
社伝によれば、この神社は奈良時代前の708年創建とされていますが、戦国時代に第13代玉造城主である玉造(平)憲幹(のりもと)が社殿を建立したといわれています。
市の文化財である銅鐘は1431年に鋳造寄進したとありますので、この頃に社殿ができたのでしょう。
行方地方に水戸の吉田地区から行方次郎がこの地に入り、その4人の息子がそれぞれ行方(小高)、島崎、麻生、玉造とそれぞれの地区を治めた。
玉造は4男であり、おそらくこの手賀地区の鹿島神社をこちらに分社して持ってきたのだろうと思われます。
玉造地区は玉造氏は滅びたが、家老の大場家が水戸藩の大山守となり、神社もまつりが復活してにぎやかになったものと考えられます。
現在5月4日、5日の2日間、御輿・大鉾・猿田彦が町中を練り歩き、山車の上ではお囃子に合わせて踊りなどが披露され、霞ケ浦の御浜降りも行われます。
また最後には流鏑馬も行なわれています。

行方郡17

行方郡18
 
この「大宮神社」という名前の神社は各地にありますが、それぞれその町の中心となる「大きなお宮」というような意味のようだ。
入口鳥居から両側に木々の中を拝殿に向かう。

行方郡19

行方郡20
 
二の鳥居の手前に石灯篭が並ぶ。
鹿島の神が中心ではありますが、猿田彦もその中心的役割をしています。
しかし繁昌にある鹿島神社に置かれていた猿田彦神は「大正元年に大宮猿田彦神社を合併」と書かれていましたので、同じような経緯かもしれません。
旧玉造11の地区が4年または3年に一度役(神輿・大鉾・天狗(猿田彦))が回ってくるそうです。


⑤ 若海香取神社

 鴨野の北側について以下の記述があります。
 「野の北に、櫟(いちい)・柴(くぬぎ)・鶏頭樹(かへりで)等の木、往々森々りて、自ら山林を成せり。即ち、枡の池有り。此は高向の大夫(まへつぎみ)の時、築きし池なり。北に香取の神子の社有り。社の側の山野は、土壌腴衍(こへ)て、草木密生れり。」
とあります。
「鴨野」は土壌塉捔(やせ)て・・・・ とあるのに対し、こちらは土壌腴衍(こへ)て・・・と対照的に書かれています。

そこで、「鴨野=鴨の宮地区や加茂地区」に比べて当時、人々が暮らすには良い場所で、「香取の神子の社」があるところを探してみます。
何か土地柄にそんな差がある場所なのでしょうか?

行方郡21

現在の地図(航空写真)で見てみましょう。
前に書いた「現原の丘」看板位置と、鴨の宮の2箇所の場所を書き込み、今回「香取の神子の社」と思われる「若海香取神社」及び、「捻木香取神社」及び、この後に出てくる提賀の里の北にあるとされる「香島の神子の社」の遺称地という「大宮神社」の位置も記しておきます。
風土記の本に書かれている「香取の神子の社」が捻木と若海地区のどちかであろうとありますが、梶無川の東側が行方郡であったという推定により、若海香取神社が遺称地の可能性が高いと考えられそうです。

ということで、この若海香取神社に行って見ました。
県道116号を梶無川に沿って上流側に向かい、若海ゴルフコースという案内にしたがってきれいに舗装された道路を東へ登っていきます。
少し行った先に気になる社がありました。「若海観音堂」となっています。

ただ、このお堂の謂れなどはよくわかりませんでした。

行方郡22

行方郡23
 
その観音堂から少し行った道沿いに「香取神社」の入り口看板があります。
かなり古くからある神社のようです。
道路とほぼ平行に参道があり、東側に鳥居があります。
また、神社の入口に近い道路沿いに「若海貝塚」の立て看板が置かれていました。
この香取神社もこの貝塚の上に立てられているようです。
もちろんこの前の舗装されたきれいな道路も貝塚を削り取ってしまっているようにも思います。
ここも、ゴルフ場開発により作られた道路でしょう。

行方郡24

この貝塚も規模が大きく、ここの発掘で、人骨、それも当時の人としてはかなり大柄な身長が170cm前後の男性の骨が見つかったというのです。

なぜ、貝塚に人骨があったのか、当時の埋葬形式ではないで棄てられたのか?
謎のようです。

さてこの神社の下は、広々とした谷津田が広がっております。
神社から少し東へ進んだあたりから見下ろすと、枡池のような灌漑用の池もあります。
池が築かれたのは「高向の大夫(まへつぎみ)の時」とあります。

行方郡25
枡の池?

また、この行方郡は653年に茨城郡の国造らと那珂郡の国造らが惣領であった「高向の大夫(まへつぎみ)」らに申し出て、2つの郡の領地を分けて設けられたともあります。

時代はやはりこの653年頃だと思われます。
また高向(たかむく)氏族は武内宿禰後裔氏族の一つだそうです。
やはり灌漑用に作られた池だったのだろうと思われます。
このあたりに昔も枡の池があったのかもしれません。

(その4へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら



常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/05 07:29

常陸国風土記の世界<行方郡>(4)

⑥ 曾尼(そね)の駅家(うまや)跡

 次に述べる「角のある蛇・夜刀の神」が祀られている「椎井の池」の近くを国府から鹿島神宮へ向かう陸路の官道があったといい、この池の近くに「曾尼の駅家」が設けられていたという。
しかし、この道がこの池の北側なのか南側なのか良くわかっていない。

行方郡26

行方郡27
 
現在池の東側を走る県道50号線に近いあたり(国道354と50号の泉北交差点より潮来・鹿島方面に700mほどいったあたりの旧泉区内に地元有志による「曾尼の駅家の跡」という看板が建てられています。
この曽尼(そね)の名前の由来については確かに風土記の記述では「疏禰毘古」という佐伯の名前から付けられたと書かれています。

佐伯というのは当時大和朝廷に逆らった現地人のことであると一般にはいわれています。

ただ、「ソネ」については、中心都市の隣の部落などにつけられていたのではないかとの指摘もあります。
古代東海道の常陸国国府府中(現石岡)の一つ手前の駅家(うまや)の名前は延喜式に記載があり「曽弥(そね)」となっています。

ただ鹿島と国府を結ぶ陸路は船路が発達して次第に使われなくなり、この曾尼及び板来の駅家(うまや)は西暦810年頃に廃止となったと思われます。



⑦ 椎井の池と夜刀神社

 風土記の記載内容でもっとも特異な表現がされている「頭に角がある蛇=夜刀神(やつのかみ)」が祀られている場所に行ってみました。
ここには椎が生い茂っている井戸のある場所だという。この場所を当時、蛇神の住む地と人間の暮らす場所との境としたといわれるところだったという。
現在、今でもぶくぶくと水の噴出す泉とその上の山に「愛宕神社」と「夜刀神社」が置かれている。風土記の記述によると、この角のある蛇を振り返ってみるとその家は滅びてしまうという。蛇神信仰としても興味深い話である。
この池には泉地区の浄水場から右に降りていく道があり、案内版も確りしているので問題はない。

行方郡28

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この湧水のある池の横に椎の木があって、ここに蛇が群がっていたのだろうか?
この場所は完全に谷津(やつ)と言って良いだろう。谷津が夜刀(やつ、やと)となったものだろう。ただ現地の看板では「夜刀神=やとのかみ」と読ませている。
イメージ的には「やと」ではなく「やつ」の方がすっきりくる。しかし、夜刀神はもともとこの地にいた原住民のことではないかとする解釈もあるという。
そしてこの池の端の方で地下から絶えず水がわきだしている。
ここに社を建てこの裏山が夜刀(蛇)の神の場所で、ここから南は人間たちが住む場所と蛇を祀り、人々が生活する場所を区別したという。このような蛇神信仰はどのようなことから生まれてきたのでしょうか。三輪山神話の話が広がっていたのでしょうが、蛇というものは日本もギリシャもユダヤ・キリスト教もそれほど変わらないのでしょうか。
この椎井の池のわきには駐車場があります。また池の反対側の丘の上は住宅が広がり、そちら側からも神社の入口鳥居が置かれています。

行方郡30

行方郡31
 
住宅地側の鳥居です。
ここから下に椎井の池があります。
この鳥居の脇には道祖神が置かれ、何かただならぬ場所という印象を受けます。

池の脇から今度は神社まで上りです。
このようにいったん下って上ると谷津のイメージは強く感じます。

行方郡32

行方郡33
 
椎井の池の横の石段を上ると上に「愛宕神社」の拝殿が見えてきます。正面に神社の拝殿。そしてその右奥に「夜刀神社」と書かれた神社が置かれています。

(その5に続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら



常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/06 04:57

常陸国風土記の世界<行方郡>(5)

(2)手賀・井上・行方地区(提賀郷・井上郷・行方郷)

行方郡34

⑧ 荒原神社(提賀の里)  

「郡衙より西北に提賀(てが)の里がある。
昔、この地に住んでいた手鹿(てが)という名の佐伯がいたため、里の名になった。
里の北に香島の子神の社がある。
周囲の山や野は、土が肥え、椎、栗、竹、茅などが多く繁っている」
と書かれており、現在「手賀」といわれる地区だと思われます。

ここに「香島の子神の社」があるとあり、これがこの「荒原神社」といわれています。ただし、玉造にある大宮神社も鹿島神宮の神を祀っており、こちらにあった神社が移ったという説もあります。(前の玉造地区で書いた)

行方郡35

行方郡36
 
この荒原神社は355号線の手賀の信号を山の方に少し入った先にあります。 現在この神社の前の何もない畑地に大きな新しい特養老人ホームが作られています。

<現地看板より>
「手賀里: 荒原神社の鎮座するこの台地は、古くから人々が住み着き、縄文時代中期にはすでに核となる集落がつくられていました。現在もこの台地、特に傾斜地の縁には多くの貝殻が散らばっています。このような遺跡は「貝塚」とよばれ、八幡平貝塚・堀ノ内貝塚・西内貝塚があり、貝に混じって動物や魚類の骨も見つけることができます。
 また、この台地から西方向霞ヶ浦へ伸びるこぼれ谷にはさまれた細長い台地には、多くの古墳がつくられました。そのひとつが手賀古墳群であり、箱式石棺とよばれる埋葬方法により、円形の塚を盛るなどいくつもの古墳が残されています。この他近くには大塚古墳があります。「常陸国風土記」には、永く当地方に住み着き大和朝廷に抵抗した「手賀」という名の人々のことが記録されています。「手賀里」はこの人々の名にちなんでおり、現在の手賀の地名の由来もここに求めることができます。
そして同じ風土記にある「里の北に位置する香嶋神子之社」が、荒原神社とする説もあります。現在の祭神は武甕槌命、祭礼は7月23日に行われます。
 古墳時代から奈良時代にかけて手賀里の人々は、山海の豊かな幸と米づくりを中心にくらしていました。荒原神社馬場前遺跡はその代表的な古代集落跡で、土器や魚労具が発見されています。・・・・・・・
この地は、中世には手賀氏の館が構えられ荒幡神社もその一角に祭られていた。別当の神宮寺、現在の持福院も薬師堂にあったと考えられます。・・・・・」
と書かれています。

香島の神の子社はこの「荒原神社」と霞ヶ浦よりにある持福寺のすぐちかくにある「手賀八坂神社」の2社が考えられています。
しかし、この荒原神社はこちらの手賀八坂神社にも合祀されているのですが、こちらにもまだ残っているようです。
 さて、手賀の「八坂神社」でもこの「荒原神社」と合同で「お浜降り」の神事が行われています。そこで、こちらの八坂神社もここで紹介しましょう。まず、すぐ近くに持福院という天台宗の寺がある。荒原神社の別当の神宮寺だと考えられています。
「天台宗 持福院」(天台宗雄喜山神宮寺持福院)で、(旧)手賀小学校のすぐ手前にある。
住職も48代目と言うことで、かなり古い寺である。
しかし、境内や墓地もそれ程広くはなく、寺の建物などの重厚感はあまり感じられない。
寺の本尊は釈迦如来座像で、鎌倉時代の製作と見られている。この本尊はほぼ等身大の大きさで、寺の中の正面に置かれていた。

行方郡37

行方郡38
 
さてこの持福院からさらに100mほど進むと、道沿いに「八坂神社」がある。
八坂神社といえばこの先の天王崎に八坂神社があり、元々は天王崎と言う名前の由来にもなった牛頭天王を祀る神社であった。

行方郡39

こちらの手賀八坂神社で、7月下旬の土日に手賀祇園祭が行われる。両宿、浜町、竹の塙、横須賀(横新)の4地区の山車が奉納曳行される。この山車で演じられる囃子が石岡・柿岡・片野などの石岡市の民俗芸能の流れを汲んだものだそうだ。この八坂神社は「荒原神社」が合祀されている。

神社に掲げられた説明板によると
「八坂神社(祭神・素戔嗚尊)古文書など保管されているものは、見当たりませんが、わずかに保管されているものは、江戸中期の延享二年(1745)遷宮したとされる棟札があり、当時村社の荒原神社と合祀された。 古老の話では、その昔舟津の湖岸にあったが、度重なる水害のため、現在の宿集落の中央に遷宮されたといわれている。21軒屋敷で守護してきたが、重荷になり村の氏子に移管された。鳥居はこれまでに、何回か修理されたが、笠木を解体した時、文化2年(1805)の墨書が発見された。」とある。
参考までに中世この地を領していた「手賀氏」について少し述べておきましょう。

<手賀氏>:
手賀氏は玉造城主・玉造幹政の次男政家が手賀郷に住して手賀氏を名乗ったとされます。
菩提寺は養徳寺で、城は寺の奥の東側の山の中にあったという。
この寺に手賀氏の墓石がある。戦国末期の1591年2月に手賀高幹と弟は佐竹氏の招きに応じて常陸太田の城に向かった。その後の具体的な記録がないが、常陸太田城で二人とも殺されたと思われます。

行方郡40

行方郡41

(その6へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら


 


常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/06 14:44

常陸国風土記の世界<行方郡>(6)

⑨ 玉清の井

 「常陸風土記」で玉造の街の名の由来ともなったとも言われる湧水「玉清井(たまきよい)」に行ってみました。
「常陸風土記」の解釈に2通りがあり、日本武尊(ヤマトタケル)が東征して常陸の国にやってき来た時、「ここの清くわく泉で手を洗い、玉で井を清めた」という解釈と「水をすくおうとして、水中に曲玉(まがたま)を落としてしまった」という解釈があるといいます。

行方郡42

行方郡43
 
ヤマトタケルが本当にいた人物かどうかは別にして、当時の書物にも書かれている場所でもあるのです。
ただ、この泉も江戸時代の旱魃のときに水を求めて昔の言い伝えによりこの地を掘って泉が出現したとされています。
現在はまわりの田圃の中に木がこんもりした場所が目に付き、すぐにわかります。
この池の中に日本武尊(ヤマトタケル)の像が置かれています。
まわりは皆、田圃で、そこに古い木の鳥居と新しい石の鳥居が立っています。
鳥居の横には大きな合歓(ねむ)の木があります。


⑩ 井上神社

 清玉井の北側に山側に少し上ったところ「井上神社」があります。
風土記の記載では「郡衙の西北に提賀の里がある」と書かれていますので、郡衙があったとおもわれる地域としてこの「井上」という地域が注目されています。
井上などという比較的よく使われる地名や苗字なのですが、ここはヤマトタケルの井戸(玉清井)のすぐ上にあるという意味から付けられた名前で昔から使われてきた名前だと思われます。

行方郡44

行方郡45
 
霞ヶ浦の北岸を走る国道355号線の少し山側を走る旧道(183号線)を玉造から麻生の方に進み、西蓮寺への入口を少し進んだところに「井上」の信号がある。
ここから内陸側に少し坂を登って行くと道沿いに「井上神社」がある。
この井上神社は鬱蒼とした木々に覆われており、道路の反対側には広い駐車場も完備している。
鳥居をくぐると前に狛犬と拝殿が見えますが、その手前に相撲の土俵があります。
この神社では毎年、無病息災を祈願して奉納相撲が江戸時代頃から行われてきたようです。
今では毎年10月10日に相撲甚句などが披露され、地元の消防団や保育園児などによって相撲大会が行われているそうです。
神社の本殿が市の文化財に指定されています。
説明板には「祭神は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)であったが、誉田別名命(ほむたわけのみこと)と倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の2柱が合祀された。」と書かれています。

彦火火出見尊は「山幸彦」のことで、鸕鶿草葺不合尊はこの山幸彦と海の神「豊玉姫」の子供です。
共に九州の日向の神様です。
海洋神が多い銚子の方には有りましたが、この辺りの神社にはあまり祀られていない神様です。
誉田別名命は応神天皇のことで八幡神社の祭神です。
倉稲魂命は穀物の(女)神で伊勢神宮でも内宮の食糧倉庫などの御稲御倉(みしねのみくら)の神様です。
これは後から下河辺氏の八幡神社を持ってきたというので、二つの神社が一緒になったもののようです。
下河辺氏は佐竹氏のこの地方を制圧した時に麻生城に派遣されました。
元々は藤原秀郷の流れをくむ人物かもしれません。
この下河辺氏がやって来て八幡神社をここに合祀したのでしょう。
これにより元からの神社(日向神)は影が薄くなったのかもしれません。
八幡神社も古く、建保(けんぽう)元年(1213年)は鎌倉時代です。
恐らく合祀されたのは1600年より少し前の頃でしょうか。

この元々ある井上神社は「社伝では坂上田村麿呂が奥羽征伐の際戦勝を祈願したとされます。」と書かれていますが、これはこの辺りの多くの神社が同じ時期に田村麻呂に合わせて作られており、話も何処まで真実かはわかりません。
奥の深い神社だと思います。

 本殿の棟札には、「享禄2年(1529年)8月、地頭下河辺治親他郷士・・・」とあるといいますので、この本殿も侮れません。
また、この九州日向の神様というのがどのような意味を持つのか興味がわきます。


⑩ 井上長者館跡(郡衙跡?)

行方郡の郡衙がどのあたりにあったのかはわかっていませんが、この井上長者館があったとされる付近がもっとも可能性は高いかもしれません。

行方郡46

この館跡の場所は1962年に撮影された航空写真から発見された場所でした。
標高は33m程で県道50号線の西側の畑地でした。
この付近は「長者郭」という小字地名が残っており、古代瓦が表採されていた場所でした。
1989年~1990年に市が発掘調査をしています。
出土物から8世紀から10世紀頃の居館跡と見られていますが、郡衙との関係などはわかっていません。

近くには西蓮寺などもあり、広い範囲に寺の領域もあったようですので、郡衙についてはまだまだ不明なところが多く残されています。

県道50号線を曾尼駅家の遺称地から、そのまま潮来方面に進むと、手賀のあたりを過ぎて右側に「西蓮寺参道入り口」と書かれた看板があります。
ここから参道が2㎞西蓮寺(さいれんじ)まで続いています。
このあたりは一面畑地が広がっています。
ここは住所も西蓮寺、そしてこの少し先が「井上」でその先が県道183号線と交差し、信号は「井上藤井」です。
信号すぐ隣に大きな施設「なめかた地域医療センター」があります。
この西蓮寺参道入り口と「井上藤井」信号までの区間の右側(西側)の畑の部分に、航空写真から大きな屋敷跡「井上長者館跡」が見つかった場所です。
古代の行方郡の郡衙はこの辺りではなかったかと思われます。



⑪ 国神(くにがみ)神社

 常陸国風土記の行方郡の鴨野の記述の少し後に、
「郡の西に津済(わたり)あり。謂はゆる行方の海なり。海松(みる)、及塩(またしほ)を焼く藻生ふ。
凡て、海に在る雑の魚は、載するに勝ふべからず。但、鯨鯢(くじら)の如きは、未だ曾て見聞かず。
郡の東に国社(くにつやしろ)あり。此を県(あがた)の祇(かみ)と号(なづ)く。
杜の中に寒泉(しみず)あり。大井と謂ふ。
郡に縁れる男女、会集(つど)ひて汲み飲めり。」とあります。

行方郡47

この郡の東にあるという国社(くにつやしろ)といわれる「国神神社」が行方市行方1820にあります。
玉造の町の方から国道355号線で霞ケ浦に沿って南下し、左の山沿いの旧道と交わってすぐ、左手に行方郵便局があり、その先を左に入っていったところにあります。
私は県道50号線側からこちらに向かっていきましたが、距離的にはちょうど中間あたりでしょうか。
郵便局側(国道355側)から進むと、右側に「八王子神社」へ曲がる看板があります。
このところを反対の左手に少し入った少し先の右手の小山の上に鎮座しています。
神社へは作業用の道路のような横道に入り、神社入り口は反対側を向いていました。
比較的新しい社殿で、きれいに整備されて守られていました。
地元関係者が最近(平成19年)に再建、修理、整備をされたようです。
ここに祭られている神様は「大己貴神(おおなむち)」です。
出雲大社の神である大国主命と同一です。
日本の国造りを成し遂げた神様です。 


この風土記に記載の神社は「香島の神子の社」、「二つの神子の社」などと表現されている鹿島・香取神宮の子社などを「天神(あまつかみ)」と呼び、もともとその地にあった祇(かみ)を「県(あがた)の祇(かみ)」と区別しています。
他に行方郡には潮来市古高(ふったか)に国上神社があり、やはり大己貴神と少名彦名神が祀られています。
また、潮来市上戸にも国神神社があります。
神社としてはこの上戸の方が有名ですが、古高の国上神社から勧請したのではないかともいわれているようです。
国神神社、国上神社などが全国に数多くありますが、ほとんどが大国主命など、出雲大社とかかわりのある神様が祭られているようです。

この行方市行方の国神神社の場所の字名が「国神」で、このあたりの地区を「神田地区」と呼んでいるようです。
ここに来る手前の道路の反対側に「八王子神社」がありましたが、八王子は牛頭天皇の皇子(8人)を祀っているというようですが、天王崎なども近いのでどのように関係しているか興味を覚えます。
明治維新の廃仏稀釈で牛頭天皇を祀る「天王社」は皆、スサノオをまつる神社に替わってしまいました。

(その7へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら


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常陸国風土記の世界<行方郡>(7)

(3)小高・麻生地区(小高郷・麻生郷・香澄郷)

行方郡48

<常陸国風土記>
1)郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯、小高といふもの有りき。其の居める処為れば、因りて名づく。
2)南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、はらばひて来り臥せりき。・・・・「橋門阿弥陀堂」
3)北に香取の神子の社有り。・・・・「側鷹神社」

<行方四頭>
・小高城は水戸の吉田清幹の次男平忠幹が平安時代末期に行方に入り行方氏(行方二郎)を名乗った。
・1184年、忠幹の子供4人に土地を分与し小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏の行方四頭と呼ばれた。
・小高氏はこの行方四頭の長男であり、行方地方(小高・行方)の中心であった。
・1591年2月、佐竹氏の南方三十三館の仕置により、小高氏父子は常陸太田城(?)で殺害された。
・小高城は佐竹氏支配となり菩提寺は常光院。ここにあった小高氏の菩提寺皇徳寺は南に移転。
・城内から逃れた奥方と越元6人が福岡(古墳)の地で自害した。その場所に約100年後に戦った人々の霊を慰め、お互いの確執を除くため観音堂が建てられた。・・・「福岡観音堂」

行方郡49

⑫ 橋門阿弥陀堂(鯨岡)

 常陸国風土記を読み進めていくと、クジラの話が何箇所かに出てきます。
この行方郡には2箇所に書かれています。

1) 郡の西に津済(わたり)あり。謂はゆる行方の海なり。海松、及塩を焼く藻生ふ。 
凡て、海に在る雑の魚は、載するに勝ふべからず。但、鯨鯢の如きは、未だ曾て見聞かず。

さて、ここでは当時は霞ヶ浦も海水の流れ込む内海でしたが、いろいろな魚類がたがクジラは見なかったようです。
ただ、土浦などの貝塚ではクジラの骨が見つかっており食用にしていた時代も縄文時代頃はあったと思われます。
ここで、クジラという漢字は「鯨鯢」と書かれていますが、鯨は雄のクジラをいい、鯢は雌のクジラを指すようです。

2)男高の里あり。・・南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、葡匐(はらば)ひて来り臥せりき。  
この男高(小高)の地に当時「鯨岡」という地名があったようですが、現在はありません。
そこで考えられる場所としてこの「橋門(はしかど)」地区にあるこんもりとした小山で上に「阿弥陀堂」が祭られている場所だろうとされています。
この橋門辺りの海岸に「太古の昔に鯨が浜にはいつくばって死んでしまったことからその名前になった」場所なのではないかといわれています。

国道355号線を石岡の方から霞ヶ浦に沿って南(東)下して、行方市に入り、玉造を過ぎ、男高に近い旧麻生町に近い「橋門(はしかど)」という場所の国道沿いに小さな小山があり、その上に祠がおかれています。

行方郡50

行方郡51
 
案内版には「橋門の阿弥陀様」と書かれています。

この国道側から上に登る階段がありますが、上にある社の向きは右手を向いており、そこに手水舎らしきものもあります。
この右手側も広場となっていて、恐らくは昔はこちら側からお参りに上ったものだと思います。
阿弥陀様となっていますが、この社の中はいくつかの石の板碑などが置かれています。
この板碑に阿弥陀像が彫られているのかもわかりません。
この小山は古墳のようです。
祠の建設時に古墳がけずられ、恐らく国道建設時にも古墳の一部が削られているものと思われます。
鯨岡と言う名前は地名では残っていませんが、この場所の北東の近隣に「公事塚古墳群(くじつかこふんぐん)」という古墳群があったといいます。
しかし、そこは砂利採取場として崩されてしまったそうです。
この橋門(はしかど)地名を考えると、昔は入り江にでもなっていたかもしれません。
また、この地の直ぐとなりが「於下(おした)」と言う場所です。
ここでは於下貝塚があり、犬の骨がバラバラに見つかり話題にもなった場所のようです。

⑬ 側鷹神社(香取の神子の社)

 「当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでいる。・・・池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった」とあります。

行方郡52

「そばたか神社」というのは千葉県に多くあり、茨城県では少ないのですが、ここ社は香取神宮との関係も深く、千葉氏の守護として祀られる場合が多いようです。
祭神も昔ははっきりされず、今では側高神としています。
神社は旧小高小学校のすぐ南側にあります。
 
 あまり車の多く通る道でもありませんが、道路沿いに鎮座しています。
鬱蒼とした木々が茂る一角にあります。
大きな鳥居と広い参道が奥の拝殿につながっています。
現地の説明板では「神代の昔、経津主命が東征のおり、この地に憩い天祖高皇産霊尊を祀り石槌剣を捧げて戦勝を記念したとの故事によって、その霊剣を御神体としてここに鎮祭したと伝えられている」と書かれています。
香取神宮に祀られているフツヌシが、霞ヶ浦(流れ海)を越えて、この地よりも東に向け軍を進めたのでしょうか。
行方市の鹿島神社と香取神社の数を調べてみると香取神社が多いのも意味があるのかもしれません。
境内にはかなりの年代を経たと思われる古木があります。
側鷹神社を東北の鬼門に祀っていたとしたら、一族の城、住居のあったと思われる場所がありました。
この神社から南西方向に「皇徳寺」という寺がありますが、その裏山に「皇徳寺古墳群」があるのです。
きっとこのあたりにこの側鷹神社を祀っていた部族が住んでいたのではないかと思われます。
これは考古学的な根拠もありませんので、あくまで推論です。

(その8へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら






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常陸国風土記の世界<行方郡>(8)

⑭ 大麻神社(麻生)

「麻生(あさふ)の里には昔、沢の水際に麻が生へていた。
その麻は、竹のように太く、長さ一丈に余りあるほどだった。
椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでいる。野に住む馬は乗馬用になる。
 飛鳥の浄御原きよみ はらの大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生(おほふ)の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。
以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがいである」
と風土記には書かれています。

 行方市の麻生の街中に近いところに「大麻(おおあさ)神社」があります。
大麻は「たいま」とは読ませないようで「おおあさ」と読ませています。
麻は総(ふさ)と同じで千葉県東部からこの地域に徳島(阿波=粟)からやってきた種族(忌部氏)などが麻を広めていったと思われます。

行方郡53

行方郡54
 
通りに面して入口の鳥居があり、神社の隣りは行方警察署(旧麻生警察署)です。

大麻神社(おおあさじんじゃ):(現地の説明板)

「常陸国風土記」に「麻生の里、古昔、麻、渚沐(なぎさ)の涯(きし)に生ひき。囲み、大きなる竹の如く、長さ一丈に余れり」とある。
これが即ち麻生の地名のいわれで、また、本社社名の由来と伝えられる。
御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)の二柱の神の他に五柱の神々を祀る。
十月の第三、土・日・月の三日間、祭典が行なわれる。
付近にある大宮貝塚は、猪・鹿・狸・鯨の骨・人骨などが、貝殻と共に出土する縄文時代の集落跡である。」

ここでも鹿島と香取の祭神がともに重要な神としてまつられている。
通りから鳥居をくぐって階段を登る。
両脇には古木がこの神社の古さを感じさせる。
伊勢神宮(皇大神宮(内宮))のお札を一般に「大麻(たいま)」というようですが、これもお祓いの時に使われる大麻(おおぬさ)の名前から来ているそうです。

行方市のHPでのこの神社の由緒などでは「この神社は地元では「大宮様」と称され、創祀は大同元年(806)と伝えられ、祭神は武甕槌経津主命、手力男命、大宮姫命、倉稲魂命、市杵島姫命、水速女命の七柱です。
当時、蝦夷遠征の戦勝祈願のために征夷大将軍坂上田村麻呂が北関東に神社を寄進しており、近くには武甕槌命を祀る鹿島神宮や経津主命を祀る香取神宮が鎮座していたため、麻生の里にも武勇の神を祀ったものと考えられます。」と書かれています。 

 また「仏教が地方へ伝播されると地域の人々の依り代である神社と結びつき神仏習合の信仰が広がりました。
麻生地方の郷社であった大麻神社の別当として神宮寺、後の東光寺(現在の医王山蓮城院)が誕生し中世まで続きました。

又、大麻神社と神宮寺は、中世当地方を支配した常陸大掾庶流麻生氏の居城である羽黒山麻生城の北東鬼門に位置し、麻生氏一族への災いを防ぐ信仰の地となっていたのでした。

江戸時代に近江国から外様の麻生藩新庄氏が入部すると、麻生地方の人々の心の拠所で郷社であった大麻神社を庇護するとともに、氏神として諏訪神社を勧請しました。
また、麻生陣屋の南西裏鬼門には八坂神社を勧請して、馬の産地の特性を活かし疫病除けの馬出し祭を興し、今日まで伝統行事として受け継がれてきたのでした。」と書かれています。

常陸国風土記でも「行方の馬」としてこの地方を馬の産地として紹介しています。


⑮ 八坂神社(香澄の里)(天王社)

行方郡55

行方郡56
 
「郡家より南へ二十里のところに、香澄(かすみ)の里がある。
古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(いなみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、ゆっくり歩きながら国を望み、東を振り向いて「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるやうにこの国は見えることだ」と侍臣におっしゃった。
この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶやうになった。
里の東の山にある社には、榎、槻、椿、椎、竹、箭、やますげが多く繁る。
里より西の海にある洲は、新治の洲といふ。
洲の上に立って北を遥かに望めば、新治の国の小筑波(をくは)の山が見えることから、名付けられた。」とあります。 
天王崎のすぐ近くに「茨城百景水郷麻生」という碑が建っています。

場所は、この岬のすぐそばにある「八坂神社」の境内に置かれている。 
この石碑は霞ケ浦から吹き付ける風などでかなり読みにくくなっている。
参道の両脇は松並木となっており、海辺と言う印象が強い。霞ケ浦も昔は海だった。
 この八坂神社は慶長9年(1604)麻生藩の藩内24か村の総鎮守として祀られたという。
昔は旧暦の6月14日、15日に藩の祭典が盛大に行われ、廃藩後は、古宿、新田の両集落が中心となって「麻生祇園馬出し祭」が行なわれてきたという。いまでも7月最終の土日に祭典が行なわれており、八岐大蛇に見立てた飾り馬と須佐之男命を奉じた神輿がもみ合う神事が行なわれている。

⑯ 天王崎(新治の洲?)

風の塔(別名麻生タワー)という展望台が行方市麻生の天王崎に立っています。
入口の壁には霞ケ浦の帆引き船の絵がタイルに描かれています。
塔には真中に螺旋階段があります。
一番上についているのは帆引き船のモニュメントのようです。

行方郡57
「新治の洲」から新治国(筑波山)を望む

行方郡58

行方郡59
 
この麻生の天王崎には白帆の湯という日帰り温泉施設(国民宿舎と隣接)があり、この浴室が最上階にあり眺めが良いです。やはりこの場所の夕日は美しい。

(その9へ続く)

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常陸国風土記の世界<行方郡>(9)

(4)北浦・大生地区(大生郷・道田郷・藝都郷・逢鹿郷)

行方郡60

まずこの地域については、風土記には「藝都の里」「田の里」「相鹿の里」「大生の里」と順番に北から並んでいるように書かれています。
そして、この地名についてもそのいわれが書かれており、ヤマトタケルの伝承話しとして書かれているか個所が多くあります。
伝承話ではありますが、この遺称地を訪ねてみるといろいろなことが見えてきます。
では、書物に書かれた順番に現地を探って見ましょう。

1)藝都(きつ)の里=うるわしの小野
 「この藝都(きつ)の里には昔、現地人の種族の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)という男女2人を長とした種族がいた。
ヤマトタケルの天皇が来たときに、男の寸津毘古は天皇の言う事に従わなかったので一刀のもとに切り殺された。
これを見て女の寸津毘売は白旗を掲げて地べたにひれ伏して許しを願い天皇を奉った。
天皇はあわれんでこれを許し放免した。
すると寸津毘売は喜んで一族皆引き連れて(姉妹:男女問わず一族のこと)雨の日も風の日も、また朝から晩まで天皇に奉仕した。
ヤマトタケルの天皇はこれを喜び御恵みを与えられた。
このことからこの地を【うるわしの小野】というようになった。」と書かれています。


(注)ここではその地に元から住んでいた現地人を「佐伯」ではなく「国栖(くず)」と表現しています。
この国栖の表現は「山城国」と同じです。
年代や種族によって使い分けているのかもしれません。
この「藝都の里」の場所ですが、平安時代に書かれた倭名抄では行方郡の中に17箇所の郷名(提賀・小高・藝都・大生・當鹿・逢鹿・井上・高家・麻生・八代・香澄・荒原・道田・行方・曾禰・坂来(板来)・餘戸)が書かれており、ここの「藝都(きつ)」の場所だと思われます。

藝都郷 ⇒ 旧北浦町 小貫・長野江・三和・成田・次木(なみき)のあたりで、江戸時代の村名では小貫・次木・成田・帆津倉・金上・穴瀬・高田・長野江という地名がそれだといいます。
また、小抜野(をぬきの)はその同じ郷に中の「小貫」地区と見られています。
ここを「うるわしの小野」といわれているように書いてありますが、現在現地に行っても特に感じられるものはありません。

新編常陸の記述では「成田村の西の野に小沼あり、水湧出す、これを化蘇沼(けそぬま)と云う」と書かれているとあります。(角川地名大辞典)
この化蘇沼近くに「化蘇沼稲荷神社」が1478年に建立され、この地の住所は内宿町ですが、本来隣の成田町ともいわれ、この旧藝都郷の一角に入るとされ、この神社境内にこの寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)の像が置かれています。

以前にこの神社を訪れました時のことを紹介します。
神社参道の入り口に木の鳥居があり、その横に「茨城百景化蘇沼稲荷」の石碑があります。
鳥居から桜の並木が続く。桜の木もかなりの年数が経っている古木です。
行方郡61

行方郡62
 
しばらく進むと赤い神社の建物が見えてくる。
祭神は倉稲魂命で、五穀豊穣の神様です。
創建は1478年で、大掾(だいじょう)氏が水戸城を江戸氏に奪われ石岡(常陸府中)に居を構えていた時です。
その大掾氏がこの地を治めていたようだ。
これは木崎城や香取神社でも出てきたが、甲斐の武田氏一族もこの地方にやってきたのは15世紀の初頭でした。

行方郡63

行方郡64
 
稲荷神社なので狛犬ならぬ狐の像が置かれています。
稲荷神社ということで本殿、拝殿ともに柱などは全て赤ですが、たくさんの鳥居が並ぶようなものはありません。
でも敷地も建物もかなり厳かな雰囲気があります。
この神社の建物が行方市の有形文化財に登録されています。
また手前にある古木はモミの木で幹回り約4m、樹高約16m、樹齢は約360年といわれており、市の天然記念物に指定されているそうです。

この神社の裏手に立派な土俵がありました。
この稲荷神社は別名「関取稲荷」といわれるようで、昔から相撲が盛んだったようです。
特に天保年間(1830~1844年)にこの町出身の秀ノ山雷五郎(四代目秀ノ山親方)が生まれ、ここで奉納相撲をしたことで豊作を祈願する行事と合わさって盛んになったといいます。

今でも毎年夏に子供たちの相撲大会や巫女舞などが行なわれているといいます。

行方郡65

行方郡66
 
この神社境内に「・この道やゆく人なしに秋のくれ」
という芭蕉の句碑が境内にあるという。写真は取り忘れたのでない。
この 「藝都郷」は江戸時代には俳人などもいて、結構賑わったらしい。
今では其の面影を感じることも殆んど無いが・・・・。
実は小林一茶が文化14年(1817)にここを訪れている。
一茶は小川の本間家で1泊し、そこからここまで4里を馬で送ってもらったという。
そしてこの近くの北浦湖畔で1泊し、対岸の札村にわたり、その後鹿島神宮を訪れ、潮来から舟で銚子へ向かっている。
一体何がここにあったのだろうかと前から気にしていたが、いろいろ調べていくと少し理由が見えてきた。

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「市報 行方」(行方市教育委員会生涯学習課)
洞海舎河野涼谷(本名:河野新之右衛門)は、水戸藩の支藩守山藩領の行方郡帆津倉(ほつくら)村に宝暦12年(1762年)に生まれました。 
その頃の関東各所、特に銚子から野田にかけての利根川沿岸では、利根川の水運を生かして醸造業が栄えており、利根川に続く常陸の北浦沿岸も同様でした。
生家河野家はその醸造業繁栄圏に位置しており、村の名主を務めながら醤油醸造業も営んでいました。
大店の主である涼谷は、芭蕉や親交のあった一茶のような職業俳人ではなく、俳諧を趣味として楽しんだいわゆる遊 俳であり、その仲間も句会や業俳との交流を楽しむ趣味人でありました。

 その中でも特に涼谷は、洞海舎社中をまとめながら、句会の開催、句集の編集と発行、江戸の業俳との交流会や接待を精力的に行う遊俳の一典型とも言えます。

 文化から天保期にかけての北浦湖岸の俳諧圏は、少なくとも四十村二百人の俳人を数えるほどに大きな俳諧圏を築いており、中でも洞海舎同人を中心とした帆津倉俳壇の活躍は地方稀(まれ)なる盛況と書き残されています。

 名月も昨日になりぬ峰の松

洞海舎河野涼谷は、多くの業俳と親交を持ちました。
小林一茶の旅日記「七番日記」には、文化十四年五月二十五日の条に「小川よリ四里、馬にて送らる、化蘇根(沼)いなり社有、李尺氏神と云。帆津倉(ほつくら)に泊。」とあり、
化蘇沼稲荷神社に詣でたり、北浦の涼谷宅に宿泊したリしたことが分かリます。

 涼谷は、他にも江戸や備前の業俳を招いては句会を催しました。
それは言うまでもなく利根川の水運と河岸(かし)の持つ経済力と業俳の持つ指導力と情報力がうまくかみ合ったからなのですが、遊俳の人々の進取の気風と江戸の文化への憧憬(どうけい)が大きな要因ではなかったかと思われます。

 化蘇沼稲荷神社境内には芭蕉の歌碑が二基あリ、いずれも洞海舎連中の建立によるものですが、涼谷と芭蕉の句が一つの石に彫られた歌碑は、芭蕉百六十五回忌、涼谷二十三回忌の安政五年に社中によって建立されたことがわかリます。

 裏には建立に当たった俳人の名が連ねられておリ、洞海舎の隆盛と共に句碑や奉納額が掲げられていた当時の化蘇沼稲荷神社が偲ばれます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
という記事がありました。

俳人であり、また醤油業に進出して財を成した「洞海舎河野涼谷」という人物がここにいたからなのだとわかりました。

2)田の里と鹿島神宮の神馬

先日書いた行方郡の芸都(きつ)の里の後に、「其の(芸都の里)南に田の里あり。息長足日売(おきながたらひめ)の皇后の時、此の地に人あり、名を古都比古(こつひこ)と曰ふ。三度韓国(からくに)に遣されしかば、其の功労を重みして、田を賜ひき。因りて名づく。又、波須武(はずむ)の野有り。倭武の天皇(ヤマトタケル)、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づくる也。野の北の海辺に、香島の神子の社在り。土塉(つちや)せ、櫟(いちい)・柞(ははそ)・楡(にれ)・竹、一二生(お)ひたり。」と書かれています。「三度韓国(からくに)に遣されしか・・・」と書かれていますが、どうやら新羅・高麗・百済の三韓征伐のことを指しているようだが、この征伐として3回派遣されたというような話は無いという。そして功労により田を貰った。と云うのは税としての特権を与えられたということなのか?

行方郡67

どうもこの辺りは訪れる機会が少なく、あまりイメージがわいて来ません。ただ、大生より北で芸都の里よりも南の地はどんなところなのでしょうか?霞ヶ浦の北浦沿いで、鹿行大橋の南側で、新しくできた北浦大橋の少し北側の地域です。田の里に比定される地域は、平安時代の倭名抄で「道田郷」といわれる地域だとされています。

行方郡68

この道田郷については、角川の地名辞典によれば、「新編常陸」には江戸期の地名といて、新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿の7村を当てているといいます。しかし、この「田の里」の東側に香島の神子の社があり、そこはすぐ海の近くだとなっていますので、このマークした鉾神社(高台台地に在り、中世には小牧氏?の城があった?)の下は現在蓮田が広がりますが、風土記の頃は水がこの下あたりまで来ていたのでしょう。
天掛や新宮などの北浦沿いは当時まだ水の中だったかもしれません。当時から続いている神社と云うことで、「鉾神社」に行って見ました。ただ、この鉾神社も車で近くまで行くのもよく道がわかりません。近くの「大和第一小学校」は2013年春に閉校となりました。

行方郡69

学校の建屋は全く在りませんでした。すっかり平地となっていて、中にも入れないようになっていました。
この学校跡地の脇の道を北にそのまま進むと、遠くに神社の鳥居が見えました。
車も通れそうです。ただ、小学校入口からはこちらへは工事中で道がなく、
少し先に回り込んで狭い道ですが、近くまで来られそうです。
 
行方郡70

行方郡71

少し長い参道を進んで、赤い鳥居の脇に昭和19年建立の「村社鉾神社」の石柱が置かれ、説明案内版が置かれていました。
ここでは「小牧(こまき)」地名に対して「こうまき」と読みをふっています。
この地域が鹿島神宮の馬の飼育地(牧)だったために「小牧=神牧」の意味だと書かれています。
祭礼も鹿島神宮から昔は禰宜等が年に何度もやって来て行っていたようです。
江戸時代から近くの村々の信仰がかなりあったようです。

行方郡72

行方郡73
 
小さな社に納められたものが2つ。寛政年の銘が入っていました。

小牧の普門寺

 田の里にある(小牧)鉾神社のある台地の南側に普門寺(天台宗)というお寺があり、この神社の別当であるという。
寺へは下の道から回っていきました。

行方郡74

寺の入口に「天台宗」の文字が。奥に寺の本堂が見えます。
寺の開祖の説明板によると大同元年(806年)に創建された「薬師堂」、「三光寺」が最初のようだ。
九州日向国(宮崎)の上人が建立したという。
普門寺と合併したのは大正末期のようだ。

行方郡75
 
上の写真が薬師堂(鉾薬師。右の池から仏像を神鉾で救い上げて、それを祀ったと言う。
上りの石段は苔むしていて雨の日などは足元が危ない。ゆっくりと足を踏みしめて上へ。

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「鉾薬師如来」の扁額が掲げられている。
内部を隙間から覗くが内部が暗く、何が置かれているのかがよく見えないが、須弥壇中央に薬師如来とその左右に月光・日光像? まわりに十二神将像? 
そしてその手前に祝詞用の座布団と台?こんなところだろうか。
比較的雑然とおかれていた。
寺には市の文化財の仏像がたくさんある。
 
こちらの阿弥陀如来像は合併前の普門寺にあったものか?
鎌倉時代から室町時代後半という。 多分、寺の本堂に安置されているのだろう。
こちらの平安時代作の薬師如来像が、薬師堂の本尊。806年という年号とあっているかは不明。
薬師如来像が約1m弱、日光月光像は50cm弱。十二神将像も40cmくらいの像だ。
鉾薬師堂の裏手は竹林なっている。なかなか趣きのある寺である。
このような場所にひっそりと佇んでいるのはなにか勿体ない思いがしてしまった。

(その10へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら


常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/08 16:06

常陸国風土記の世界<行方郡>(10)

3)相鹿の里(丘前の宮)

常陸国風土記の行方郡の最後に、
「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。
古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。
此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。
大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。
又、倭武の天皇の后(きさき)、大橘比売(おほたちばなひめ)命、倭(やまと)より降り来まして、此の地に参り遇(あ)ひたまひき。
故、安布賀(あふか)の邑と謂ふ。」と書かれている。

田の里の南に「相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里」があるといい、その地名の由来を書いている。
古老の話しで、しかも倭武の天皇(ヤマトタケル)の話となれば、まともに信じることは出来ないが、平安時代に書かれた「倭名類聚抄」に書かれた行方郡の郷名に「逢鹿」「大生」があるので、この名前で残っていることになる。

大生(おおう)郷は元鹿島といわれる大生神社や大生古墳群があるので、大体の場所は判る。
では「逢鹿郷」はどのあたりなのか。

ここはこの前の紹介に書いた「田の里(小牧など)」と大生の間の地域だ。
南は「大賀」あたりで、北は「岡」あたりのようだ。
伝承ではヤマトタケルが「相鹿の丘前(おかざき)の宮」にいた時に、食事を大生で作っていたというので「大生(おおう)」となり、后の大橘比売命(弟橘姫命)に再会した場所なので「相鹿(あふか)」という地名になったというようだ。
この「丘前(おかざき)の宮」と言われる場所は、行方市の「岡」がその遺称地だという。
ここには「雷神社」があり、その麓あたりだという。

「丘前の宮」は北浦大橋近くで、茨城県道185号線(繁昌-潮来線)沿いの「岡農村集落センター」の南隣りである。

行方郡78

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ここには「相賀山 寿福寺」と門柱がある。このあたりに丘前の宮があったと思われている。この寿福寺という寺は現在この場所にはない。ここを入っていくと「雷神社」という神社が建っている。

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上に登っていくと正面に新しい神社の建物が建てられており、左側に古いお宮が3つある。
一番左側に鳥居があって「雷神社(らいじんじゃ)」と書かれている。 
真ん中にあるのは「丘前宮道鏡大明神」と書かれていた。丘前宮(おかざきのみや)と呼ばれていたが途中から道鏡様(弓削道鏡)=男根 信仰が合わさって、この祠の中には何かそのようなものが置かれていた。
説明は下記を読んでいただければある程度分かるが・・・・。

行方郡82

常陸国風土記に書かれている内容も現代語で読んでどうも地理関係がよくわからない。
そこで、Flood Mapsで海面の高さを+4mして当時の地形を見ながら解釈してみた。

行方郡83

ここに書いたように「岡」という地域が「丘」であり、雷神社の手前東側にヤマトタケル
の居たという「丘前の宮」があり、大生神社あたりから水辺に降りた辺りに「大賀」という地区があるので、このあたりに煮炊きする炊事場の建物があったようだ。
この炊事場と、丘前の宮へ通じる浜辺に小舟を繋いでこれを橋として行き来したということなのだろう。やはり現地にいったり、地図を広げて当時の地形を考えてみたりしないと、本を読んだだけではよくわからないものだ。さて、この丘(岡)は、相鹿山と呼ばれているようで、この台地の西側に中世の城「相賀城」があった。雷神社から台地上を西に進むと、開けた畑が広がり、一つの立て看板「相賀城跡(あいがじょうあと)」があった。

行方郡84

このまわりに土塁とか城の名残が残されていたようだが、今はあまり畑が広がるだけ。「相賀城(あいがじょう)は平安時代の末、逢賀太郎親幹(おうがたろうちかもと)が築いた逢賀城(おうがじょう)で、これを室町時代の末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになった。」と書かれていた。

逢賀太郎親幹はこの名前(幹)からしても大掾氏の系統であることは確かで、行方四頭の系列であろう。手賀氏は行方四頭の玉造氏の系列だから、同じ系列かもしれない。やはり最後は佐竹によって滅ぼされた(南方三十三館)ようだ。この相賀城跡から下の「根小屋」地区にそのまま降りられるそのふもとの住宅街に、「ナウマンゾウの化石」の発掘場所という看板が置かれていた。こんな場所に1万5千年以上前にナウマンゾウがいたという。
 またこの「相賀城」の麓である根小屋地区に気になる寺と神社がありました。
「相賀山 龍翔寺」といい敷地の隣に保育所が併設されています。

行方郡85

行方郡86
 
相賀城の菩提寺だったようで、1501年に開山されたと記されています。
江戸時代はかなり大きな寺だったようです。

(その11へ続く)

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