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橋門の八坂神社

 今から10年近く前に、行方市の小高地区を「小高散歩」として6か所ほど紹介しています。
今年になって、常陸国風土記の遺称地などを巡る機会も増え、7月に行方地方も一度訪れましたが、時間の関係で予定の半分くらいしか訪れることが出来ませんでした。

これを、また少し涼しくなってから再訪問したいと考えていますが、気になる場所を少しずつ調べなおしたりしています。

この行方市の「小高地区」はそれほど広いわけでもなく、今は町としては小規模で、あまり注目される場所もありません。
きっと、平安や室町などの頃はもっと何かがあったのではないかと考えています。

1) 常陸国風土記には
 「(行方)郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯、小高といふももありき。其の居める処為れば、因りて名づく」
とあります。
行方郡の郡家が井上あたりにあったとすれば、南に七里(約3.5km)ですから、今の「小高」とみて間違いないでしょう。

2) 平安時代末期に多気大掾氏から水戸の吉田郷に入った吉田(平)清幹(きよもと)の次男(忠幹)が行方に入り、行方氏を名乗り、行方二郎と言われた。
この行方二郎の子供達4人、この地方に散らばって、行方四頭と称されるようになった。
この四頭は小高(長男)、島崎(二男)、麻生(三男)、玉造(四男)となるので、小高は長男ということは、この小高が行方の初期の中心地と考えてもいいと思う。

3) Wiki.を調べると、「1889年(明治22年)に、橋門村・小高村・井貝村・南村・島並村が合併し行方郡小高村が発足」
とあり、「1955年(昭和30年)にこの小高村は、 麻生町・大和村・太田村・行方村と合併し麻生町が発足した。」とあります。

この麻生町ですが、江戸時代は周り(玉造や潮来など)がほとんど水戸藩でしたが、この麻生町や羽生、沖洲、浜なども麻生藩の飛び地として新庄氏の所領となっていました。

上記のような歴史的背景を踏まえて、この小高地方をまた少し散策してみたくなったのです。

まずは、霞ケ浦沿いを走る国道355号線ぞいにある「橋門の八坂神社」から紹介します。

霞ケ浦沿いの国道355号線は、この辺りはほぼ南北に走っています。
石岡側から行くと玉造、手賀などを過ぎ、於下(おした)をすぐ手すぐに「橋門(はしかど)」という場所に出ます。
ここから左手(東側)に入ったの少し高台に中世の「小高城」がありました。

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橋門の国道沿いに「八坂神社」が置かれています。
ここを曲がって内陸側に入ると「常光院」という佐竹氏の菩提寺がありますが、佐竹氏が支配する前は、ここには皇徳寺という小高氏の菩提寺があった場所で、この寺の裏の台地の上に小高城があったようです。

まあ、八坂神社はこのあたりもたくさんありますが、そのほとんどが江戸時代までは「天王神社」「天王様」などと呼ばれた牛頭天皇を祀る社でした。
インドの祇園精舎の守護神が牛頭天皇ですが、日本では京都の八坂神社と同じく、明治維新後に祇園社、(牛頭)天王社はスサノオを祭神とする「八坂神社」(他に、須賀神社、素鵞神社など)に変わっていきました。
祇園社や天王社は寺院とされていますので、廃仏稀釈で、神社に形態を変えたのです。
この神社にも説明が以下書かれています。

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祇園祭で、荒魂、和魂などと表現されているのも、珍しいですね。
明治初めの廃仏稀釈は結構多くの反対も地方にはあったのでしょうね。

茨城地方などをこうして歩いてみて回っても、江戸時代に各地の天王社があって、そこで村の鎮守様としてまつられ、7月頃に祇園祭が盛大に行われていた痕跡が見て取れます。

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この八坂神社の境内には別に鳥居のある境内社が2つほどありました。
また古びた石碑などもあります。

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通り沿いには「天然記念物 小高のカヤ」なる看板石碑が置かれていました。
このカヤの木は奥に入った場所にあります。


続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/06 10:35
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