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(小高)福岡観音とそのいわれ

 国道355号線を、昨日紹介した「橋門の八坂神社」から左に曲がって、常光院の方に少し進んだ左側に小さな社が置かれています。
あまり、ここを通る人は地元の方でないと、気にもせずに前を素通りしていくと思います。

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今から十数年前にこの社を見つけた時はそれほど感じることもなかったと思いますが、その後常陸大掾氏や佐竹氏の南方三十三館仕置き事件をいろいろ知る中で、忘れられない記憶としてこの観音様が残っているのです。

1591年ですから今から400年以上前のこの地方で、いったいどのようなことが起きて、庶民はどんな感情を抱いていたのだろうかを想像する数少ない遺構と言えそうです。

天正19年(1591年)2月、佐竹氏に常陸太田の城へ呼び出された南方三十三館(実際の館数は不明)の中に、行方四頭の長男小高氏親子(小高治部大輔と子)の名前が和光院過去帳に残されています。
実際はどのように殺された(または自害)かはわかっていませんが、その知らせが、小高城に届いたときに、小高城内ではどのようなことが起こっていたのでしょう。

恐らく、太閤秀吉の命であり、すぐに城を明け渡すような指示もされたのだろうと思われます。
命に背けば、佐竹氏の軍勢が襲ってくる・・・ さあどうしよう。

ここに書かれた内容は、素直に城明け渡しの覚悟を決めたか、城にこもって戦いを挑んだのか、わかりませんが、城に残された奥方と腰元6人が、この何もないような城近くの原(昔の古墳などがあったようだ)で自害したという。

なんとも生々しく、400年以上も前の情景が浮かんでくるではありませんか。

そして、(北家)佐竹義憲のところから、大山城の「大山義則」が入って治めたようです。
その後、佐竹氏の秋田転封により、この常光院も佐竹北家の寺として、秋田県角館に移されています。

しかし、この小高の地でも、この常光院の法灯を守るために家臣10数人が残ったといわれています。
当然、これら家臣以外にも、佐竹氏派の遺臣などもたくさん残ったのでしょう。

それが、もともといた小高氏の関係者などとはお互いにあまり良い関係を築けないでいたようですね。

そのわだかまりを払しょくして、お互いに仲良くして暮らそうと、戦国末期からおよそ100年後に建てられた観音堂でしょう。

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ここに立つと、観音様も何かしゃべってくれそうなそんな気がするのです。おかしなものですね。


続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/08 11:06
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