小高城跡(行方市)
常陸国風土記を読んでいると、この行方(なめかた)地方に興味が行く。
何故ならこの昔には茨城の中心はこの行方あたりにあったのではないかとさえ思えるからだ。
現在残されている常陸国風土記はすべて写本であり、記述も「総記」部分以外は「行方郡」だけが省略なしで、他の郡はすべてが残されていない。また一切記述が残されていない郡もある。
また、この行方郡という郡名「なめかた」は、読み方についても変わっていて、意味合いのカイシャクモマチマチだ。
さらに、当時の陸奥国であった現在の福島県にも「行方郡」があり、そこに「小高郷」が存在した。
これは偶然の一致ではなく、まだ、常陸国と陸奥国の境界がはっきりしておらず、北部の蝦夷征伐における前線基地が、常陸国からこの陸奥国の南側の福島県相馬市あたりに前線基地ができて、この常陸国の行方地方から人が移り住んだものではないかともいわれる。
相馬氏が千葉、茨城からこの地方に移り住んだのも、ここに仲間がいたからであろう。
もう少し詳しく機会があれば調べてみよう。

現在の行方市行方や小高地方は江戸時代は町としての繁栄はあまりなく、玉造、麻生に挟まれて今は見るべきものが少なくなってしまったのだろう。
この地に平安時代末期に水戸の吉田氏一族の吉田(平)忠幹(ただもと)(吉田清幹の次男)=行方二郎が、この行方郷に入り、城を築いたのが最初だという。

そして、その子吉田景幹(行方郡地頭)は、源平合戦で源義経軍に加わり、屋島で戦死。
そのため、この景幹の4人の息子が領地を分割して小高(行方地方)、島崎(潮来地方)、麻生、玉造の各地を治めることになった。
鹿島神宮の行事などの取りまとめもこの4人が交代して行う仲の良さ。
でも時代が経つにつて、お互いに戦をするようになり、麻生氏は島崎氏により滅亡。
残された3氏も1591年に佐竹氏により滅ぼされてしまった。
この行方の地には、佐竹氏一族の大山氏が入り、佐竹氏の秋田転封により、この城も廃城となってしまった。

現在城跡は畑や雑草などでおおわれて、遺構もよくわからないが、脇道から中に車も入れる。
良く調べれば中世の城の遺構がかなり残されているように思い。
まあ、中世の城マニュアではないので、詳しくはわからない。
この看板の場所は、現在の「常光院」の裏山の反対側にある。この場所と、常光院に挟まれた地域がこの城跡である。
何故ならこの昔には茨城の中心はこの行方あたりにあったのではないかとさえ思えるからだ。
現在残されている常陸国風土記はすべて写本であり、記述も「総記」部分以外は「行方郡」だけが省略なしで、他の郡はすべてが残されていない。また一切記述が残されていない郡もある。
また、この行方郡という郡名「なめかた」は、読み方についても変わっていて、意味合いのカイシャクモマチマチだ。
さらに、当時の陸奥国であった現在の福島県にも「行方郡」があり、そこに「小高郷」が存在した。
これは偶然の一致ではなく、まだ、常陸国と陸奥国の境界がはっきりしておらず、北部の蝦夷征伐における前線基地が、常陸国からこの陸奥国の南側の福島県相馬市あたりに前線基地ができて、この常陸国の行方地方から人が移り住んだものではないかともいわれる。
相馬氏が千葉、茨城からこの地方に移り住んだのも、ここに仲間がいたからであろう。
もう少し詳しく機会があれば調べてみよう。

現在の行方市行方や小高地方は江戸時代は町としての繁栄はあまりなく、玉造、麻生に挟まれて今は見るべきものが少なくなってしまったのだろう。
この地に平安時代末期に水戸の吉田氏一族の吉田(平)忠幹(ただもと)(吉田清幹の次男)=行方二郎が、この行方郷に入り、城を築いたのが最初だという。

そして、その子吉田景幹(行方郡地頭)は、源平合戦で源義経軍に加わり、屋島で戦死。
そのため、この景幹の4人の息子が領地を分割して小高(行方地方)、島崎(潮来地方)、麻生、玉造の各地を治めることになった。
鹿島神宮の行事などの取りまとめもこの4人が交代して行う仲の良さ。
でも時代が経つにつて、お互いに戦をするようになり、麻生氏は島崎氏により滅亡。
残された3氏も1591年に佐竹氏により滅ぼされてしまった。
この行方の地には、佐竹氏一族の大山氏が入り、佐竹氏の秋田転封により、この城も廃城となってしまった。

現在城跡は畑や雑草などでおおわれて、遺構もよくわからないが、脇道から中に車も入れる。
良く調べれば中世の城の遺構がかなり残されているように思い。
まあ、中世の城マニュアではないので、詳しくはわからない。
この看板の場所は、現在の「常光院」の裏山の反対側にある。この場所と、常光院に挟まれた地域がこの城跡である。
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