真壁城跡
今週初めに真壁に行った。
人に会うためであったが、時間的に少し早かったので、久しぶりに国指定史跡である「真壁城跡」に立ち寄った。
石岡からは上曽峠を越えて中世の真壁氏の氏寺である五所駒瀧神社側に下り、真壁の町に入った。
現在この上曽峠はトンネルの工事中で、先日石岡側と真壁側がつながり開通式が行われた。
まだ道路の整備や、トンネル内の整備などに時間はかかるため道路の開通はまだ先で2025年度になるという。
車にとってはだいぶ楽になり開通は待たれるが、トンネル内に自転車等の通行帯はないみたいで、3.5kmほどの長さのトンネル部分の通行はあまり楽ではなさそうだ。
若い人なら逆に峠越えは車が少なくなるので帰って良いという人も中に入るようだが、これからのトンネルには自転車走行のレーンなどもぜひ検討して計画してほしいものだ。
さて、中世にこの山懐に囲まれた真壁の中心地に近い平野に真壁城があった。
この城を築いたのは、(つくば市)北条の多気山に居を構えていた常陸平氏の直系である「多気氏(多気大掾氏)」から分かれた常陸平氏(桓武平氏)の平直幹(なおもと)の四男である平長幹(ながもと)がここ真壁に城を築き「真壁氏」を名乗った。

(桜川市)真壁町の古城信号の少し北側の「真壁体育館」横にこの真壁城の看板が建てられている。

この城跡は膨大で、長年にわたる発掘調査により、平成6年に国の史跡に登録された。


筑波山から加波山に連なる山脈のふもと一帯に城が広がっていたようで、今でもまだ開発されずに広い敷地が残されている。
上の写真のように今もブルーシートがかけられた場所を発掘調査が続いているようだ。
この奥のもう少し右側は、道路工事が行われていたが、これが上曽トンネルへの取り付け道路工事だという。

昔からある旧真壁城址の石柱(昭和10年建立)

とても広い場所である。まだまだこれから始まりなのかもしれない。
多気大掾と、後からやってきた八田氏(小田氏)とはあまり仲は良くなかったらしい。
佐竹氏と小田氏も犬猿の仲のようで小田城を佐竹氏が奪った時には、この真壁氏も石岡側の手這坂で小田氏と争っている。
そのころから佐竹氏の仲間となったのだろうか?
徳川家康により、佐竹氏が出羽(秋田)に国替えを命じられた時に、この真壁氏も秋田角館へ移動して、ここは廃城となったようだ。
人に会うためであったが、時間的に少し早かったので、久しぶりに国指定史跡である「真壁城跡」に立ち寄った。
石岡からは上曽峠を越えて中世の真壁氏の氏寺である五所駒瀧神社側に下り、真壁の町に入った。
現在この上曽峠はトンネルの工事中で、先日石岡側と真壁側がつながり開通式が行われた。
まだ道路の整備や、トンネル内の整備などに時間はかかるため道路の開通はまだ先で2025年度になるという。
車にとってはだいぶ楽になり開通は待たれるが、トンネル内に自転車等の通行帯はないみたいで、3.5kmほどの長さのトンネル部分の通行はあまり楽ではなさそうだ。
若い人なら逆に峠越えは車が少なくなるので帰って良いという人も中に入るようだが、これからのトンネルには自転車走行のレーンなどもぜひ検討して計画してほしいものだ。
さて、中世にこの山懐に囲まれた真壁の中心地に近い平野に真壁城があった。
この城を築いたのは、(つくば市)北条の多気山に居を構えていた常陸平氏の直系である「多気氏(多気大掾氏)」から分かれた常陸平氏(桓武平氏)の平直幹(なおもと)の四男である平長幹(ながもと)がここ真壁に城を築き「真壁氏」を名乗った。

(桜川市)真壁町の古城信号の少し北側の「真壁体育館」横にこの真壁城の看板が建てられている。

この城跡は膨大で、長年にわたる発掘調査により、平成6年に国の史跡に登録された。


筑波山から加波山に連なる山脈のふもと一帯に城が広がっていたようで、今でもまだ開発されずに広い敷地が残されている。
上の写真のように今もブルーシートがかけられた場所を発掘調査が続いているようだ。
この奥のもう少し右側は、道路工事が行われていたが、これが上曽トンネルへの取り付け道路工事だという。

昔からある旧真壁城址の石柱(昭和10年建立)

とても広い場所である。まだまだこれから始まりなのかもしれない。
多気大掾と、後からやってきた八田氏(小田氏)とはあまり仲は良くなかったらしい。
佐竹氏と小田氏も犬猿の仲のようで小田城を佐竹氏が奪った時には、この真壁氏も石岡側の手這坂で小田氏と争っている。
そのころから佐竹氏の仲間となったのだろうか?
徳川家康により、佐竹氏が出羽(秋田)に国替えを命じられた時に、この真壁氏も秋田角館へ移動して、ここは廃城となったようだ。
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