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小高の神宮寺

 茨城県行方市の行方・小高地区あたりはどうも周りの行政区のはざまにあって今の行政組織ではどうも忘れ去られている感が強いと感じる。

佐竹氏の南方三十三館の皆殺し(仕置き)で、この地に居を構えていた行方四頭の長男「小高氏」は消滅してしまった。
その後ここに佐竹派の重鎮「大山氏」が移り住み、常陸太田から佐竹氏が建てた寺「常光院」を移し、歴代の佐竹氏の墓も移した。

しかし、佐竹氏はすぐに出羽(秋田)へ配置替えとなり、ここの佐竹派の武士たちも多くが秋田に移った。
ただ、常光院には佐竹氏の墓もあり、家臣十八人が残った。
先日常光院も訪れたが、この十八人の家臣の名前がすべて石碑に書かれていた。

隣の玉造の町は水戸藩となり、それなりに発展し、反対側の麻生藩は、外様の新庄氏の領地となり、家老がいて町としてもまとまってそれなりに栄えた。

丁度その中間のこの行方・小高地方は、今は麻生町と統合され、行方市の一地方となっているが、江戸時代に何か特別なものがあったのかというと、何も書かれたものがないように思われる。

常陸国風土記には大昔にこの近くの浜に鯨が這いつくばって死んでいたことがあり、鯨岡という名がついたとあるが、この名前は今はない。今当時から残されているものとしては香取の神子の社と言われた社と推察される「側鷹神社」くらいだ。

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中心部の丘の上に立つ「小高のカヤ」という県の天然記念物のカヤの木へまた行ってみた。
樹齢は650年くらいだというので、時代は南北朝時代頃だろうか?

ここに置かれた看板から推察すると、その頃にこの場所に「神宮寺」が建てられたようだという。
行方市のHPにもこれと同じ説明がかかれているので、この神宮寺が何時頃建てられて、いつごろまであったのか?、また神宮寺とあるから、元になった神社はどこなのか?を問い合わせた。

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市の教育委員会の方から丁寧な回答が寄せられたが、私の知りたいと思っていたことはほとんど回答はなかった。
やはり意外に忘れ去られてしまっているのだろうか?
江戸時代前半の文書にこの神宮寺(天台宗)の記述が残っていて、この頃にはあったらしい。

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カヤの木には朝の陽ざしが降り注ぎ、曼殊沙華の赤い花もその周りに咲いていた。

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カヤの木の近くには「小高地区館」とい建物がある。
この場所に昔最初の小高小学校が建てられたという。
目地の最初の頃に日本各地で寺などで寺子屋式に小学校が始まったが、ここもそうかと思ったのだが、調べてもそんなに古い記録は出てこない。
昭和になってからできたものだろう。
戦後の人口が急激に増えた昭和30年代に新しい校舎を側鷹神社わきに建設している。
ただ今はここも閉鎖され、麻生小学校に統合された。

地元密着の歴史も何か書き残しておかないとこのようにわからなくなってしまう。


続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/01 13:10

真壁「うり坊」(旧桜井館)

 先月の末頃に、石岡から上曽峠を越えて、(桜川市)真壁町に行ってきました。
もうだいぶたってしまったのですが、FBでご連絡をいただき、急遽ご招待を受けて人に会いに出かけたのです。
伝正寺前の旧旅館「桜井館」を改装しリニューアルの「見晴らしの丘 真壁 うり坊」という施設でした。

私が丁度10年前にこのブログに書いた下記の記事を読んでご連絡いただいたものです。

 真壁散歩(6)伝正寺 ⇒ こちら

この時に寺も、こちらの旅館「桜井館」も改装工事中で、これからどう変わっただろうかと気になっていたので、お訪ねしてみたいと思っていたところだったのです。

行ってみると、寺(伝正寺)の方はまだ工事中らしく、一般の見物客はお断りのようでした。
一方、こちらにオープンされた桜井館から「うり坊」という施設に変わった方は、とてもきれいに整備され、自転車などでこちらを訪れ食事をしたり、泊まることもできるので、一度訪れてみてください。


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館内の食事処からは、真壁の町が一望できます。

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日本の「窓」は「間戸」という漢字から始まったのだと思いますが、京都などの庭園などを部屋から眺めるのに良い工夫がされています。
まあ、様式ではありますが窓=Windowですよね。 これは「Wind(風)の通り道」から来たものだと聞いたことがあるように思います。
これも日本人の感性の特色だと思います。
部屋いっぱいの窓は気持ちがいいですね。

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新しい館の名前はイノシシの子供「うり坊」です。

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新しい浴室を案内いただきました。
この桜井館は元は温泉(鉱泉?)でしたが、今は温泉ではなくなってしまったようです。
この湯には一度若いころに来ているのです。

文豪の芥川龍之介や室生犀星などが泊まったことがあるとか言われていたのを思い出します。

室生犀星はこのあたりでザボンの木を見つけて、ザボンを東京へ贈った?
まあ、今はザボンはないようだけれど、小粒な筑波ミカン(福来れ蜜柑)などは作っておられるようです。

「どっこい真壁の伝正寺」などと又言われるようになるのはいつのことでしょうね。
松島の「瑞巌寺」ではこの真壁平四郎=法身の展示会などを最近まで行っていました。
意外のこの真壁ではこの法身のことは話題に上りませんね。

もっともっと知っていただきたいと思います。

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この伝正寺さんの工事はいつまで続くのでしょうか?

筑西・桜川地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/10 11:22

らぽっぽ なめがたファーマーズヴィレッジ

 昨日は「ふるさと風の会」のメンバーで第2回常陸国風土記の遺称地を巡るとして、行方地方の2回目を行いました。

前回7月に行ったのですが、予定の40%くらいが回り切れず、今回その残りの場所訪問でした。
メンバーは6人。2台の車に分乗して朝9時に石岡を出発しました。

途中昼食に選んだのは、「らぽっぽ なめがたファーマーズヴィレッジ」という行方市宇崎にある施設です。
白浜少年自然の家に近い場所で、廃校になった小学校を利用した観光施設です。

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まだ学校の看板は残されています。多分あえて残しているのだと思います。

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行方の特産品であるサツマイモを使ったいろいろな商品が販売されています。

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大学芋をプラスチックケースに詰め放題で650円などというものもあります。
私は少し小さなケースに詰められた400円を1パック土産に買いました。
セブンイレブンで販売しても入り商品だそうです。

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ネット販売などもしているようです。
これらの商品などは。「白ハト食品工業(株)」さまが運営をしているようです。

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入場は無料ですが、この「おいもミュージアム」などの施設は有料のようです。
また、周辺にある農地での芋ほり体験などもできるようです。
お子さん連れなどもよいかもしれませんが、体験イベントは問い合わせてから行かれる方がよいでしょう。

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まあ、今回訪れたのも近くの風土記遺称地である「丘前(おかさき)の宮」とも近いためでです。

施設の2回のレストランでランチをいただきました。

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パスタ類が1200円
カレーが1500円です。

カレーも生野菜が入ったスープカレーのようです。

私が頼んだのは「きのことチキンクリームのパスタ」です。
セットに付く飲み物はアイスコーヒーを選びました。

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このパスタには本当は(野菜)サラダも付くはずでしたが、この日はサラダ野菜がなくなり、ケーキがかわりに食後に付きました。

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このお芋を使ったスイーツケーキ。かなりいけます。
サラダより何かお得な感じでした。






常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/13 13:24

椿の海と鉄牛禅師

 昔、千葉県の九十九里浜の内陸側に「椿の海(太田ノ胡水とも呼ばれた)」大きな内海がありました。
江戸時代になり、この内海を埋め立てて、広大な農地を作り、「干潟八万石」とまで言われるほどの農地が出現したのです。

私が千葉県側をよく散策するようになり、それまで茨城県側からのみ古代、中世の歴史などを見てきたのですが、こちらの千葉県九十九里浜方面からの人の流れが見えるようになると、それまでの歴史観も変わってきました。

古代の古東海道などでの陸のルートばかりではなく、九州からの海人族や、伊勢近郊から船で黒潮に乗りやってきた古代から中世の人々がかなりいたことを示す痕跡があちこちに残されていました。

この椿の海も江戸時代前までは多くの武将たちも九十九里からこの内海や栗山川から内陸部に入り、東庄町あたりで利根川を越えて常陸国側にわたってきたようなのです。

そんな椿の海の干拓した姿を眺めるのに適した場所が、千葉県民の森の「東庄県民の森」にある高台です。

ここには、この椿の海の干拓に尽力したのが「鉄牛和尚」でした。
この椿の海といわれる名前のごとく、もともとは海とつながる汽水湖だったようですが、次第に九十九里川が閉じられ、淡水湖になっていたようです。

それを埋め立てて農地にするため、干拓申が1615年ころから行われたが許可は下りず、やっと寛文9年(1669年)に許可されて工事が行われたが、排水のために九十九里浜側を掘削すると、今度は海水が農地に流れ込むことになったり、なかなかの難工事となり、資金繰りにも苦労して途中で断念するまでになってしまったようです。

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(広大な椿の海のあった干拓地を望む。手前の湖は干拓用の池。干拓された農地はこの右側に大きく広がっている。)

それを救ったのが鉄牛和尚といわれる人です。この和尚のおかげで何とか干拓も寛文11年(1671)成し遂げられたそうです。

この干拓の功労者として、この椿の海が見下ろせる山の上に「福聚寺」というお寺が建てられ、鉄牛和尚は晩年をここで過ごされたそうです。

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福聚寺入口(黄檗宗(おうばくしゅう):禅寺)

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福聚寺本殿

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鉄牛和尚の墓所

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社の中には大きな墓石がおかれていました。
市のHPによると「遺言により境内で荼毘にふされ、その場所に石造無縫塔が建立された。塔は2メートルに及ぶ巨大なもので伊達綱村・稲葉正通の寄進」となっています。

この寺や椿の海を眺める高台は、県民の森でもあるのですが、他にも過去に記録のある場所のようです。

1)「城山の森」=沼闕(ぬまかけ)城跡

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この見晴台の一角に上記のような看板が立っています。
中世の城があったようで、現在の東庄町一帯を領していた東(とう)氏の一族の居城であったようです。
ただ、近くに「大友城」という千葉氏の祖といわれる平良文(村岡良文)の孫・村岡忠常(平忠常)が築いたようあり、この沼闕城もそのまた一族が築いたのかもしれません。
ただ、椿の海を船で進んでくると、この場所で陸に上がって上ってくれば到達する好適地であったものとも考えられます。
誰が初期に築いたのかはわかりませんが、何度か建て直したりしたのかもしれません。

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この内容の記事は以前にも書いています。
今回少し記事を追加して、明日へ続きます。


小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/15 13:41

勢力富五郎自刀の地

 千葉県東庄町では、今も天保水滸伝を看板に掲げた施設なども多くみられます。
今ではこの講談・浪曲や歌謡曲などを知る方もめっぴり減ったように思います。

私も最初に訪れた時には、江戸時代のヤクザ同士の争いなどとあまり興味もなかったのですが、次第に興味を覚えるようになりました。
歌謡曲でも田畑義男の「大利根月夜」や三波春夫の「大利根無情」などで歌われた大利根河原の決闘場所もこの東庄町です。
もちろんこれらの歌もなかなか今聞く機会もありませんが、50年ほど前までは結構テレビなどでも歌われていました。
「平手 造酒」などの名前も昔はよく知っていました。

この東庄町にいた「笹川繁蔵」親分と銚子・飯岡地方で勢力を持っていた「飯岡助五郎」親分との勢力争いから、この決闘が起こり、その後笹川繁蔵が暗殺され、十手持ちでもあった飯岡助五郎一家と繁蔵の子分たちの争いが熾烈になり、その中心となったのがこの勢力富五郎たちで、仇討ちを果たせず、近くの金毘羅山に逃げ込んで、500人余りの助五郎たちや岡っ引きなどに囲まれて最後にこの山で自刀して果てたとされています。

十手持ちであった飯岡助五郎を悪者に仕立て、笹川繁蔵を悲劇のヒーローに仕立て、中国の水滸伝が、「梁山泊」という湖のほとりであり、この湖も時代で干上がって陸地となったという。

これが金毘羅山と言われる地形に似ていたのだろうか?
この山に籠って52日間も抵抗して、最後に自刀した場所が、東庄町のこの椿の海を見下ろす高台(県民の森)の山の中に残されています。
前回行ったときに行けなかったので、今回足を延ばして見てきました。

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城山の森と書かれた見晴台に近い場所に「天保水滸伝遺跡遊歩道」という立て看板があります。

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県民の森にある鉄牛和尚の「福聚寺」の門から左手に入り、開けた庭園の先端から山の中に入っていきます。

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山道はなだらかなところもありますが、結構アップダウンを繰り返して進みます。

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最期に山登りがまっていて、その頂上から少し行ったところの開けた鞍部にこの遺跡地がありました。

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大きな木の下に石碑が置かれていました。

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ここで抵抗した人間は全員江戸に連行されて処刑されたという話しを聞いたことが有るので、富五郎は自刀しても、ここには墓はないようです。
また町中の延命寺にも勢力富五郎碑という大きな石碑がありますが墓とは書かれていません。
ただ、この地で亡くなった平手 造酒は墓もあります。
また笹川繁蔵は暗殺され飯岡に運ばれて死体も流されたと伝えられてきましたが、飯岡助五郎により丁寧に弔われていて、この遺骨も最近になって、笹川(東庄町)の延命寺に返却されて、こちらの寺に今は祀られています。

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寺からこの勢力富五郎の碑まで、歩いて片道12~13分くらいです。
年寄りの足には少しきつくなってきました。

この勢力富五郎、笹川繁蔵、飯岡助五郎などみな、江戸で角力(相撲取り)となって、その後地元などで親分やその子分などになっていますね。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/16 11:35

(潮来)熱田神社の狛犬

 常陸国風土記の遺称地巡り第2回目として、先日あまり訪れない場所を巡ったが、その中に潮来市の郊外にある「熱田神社」を訪れた。
この神社は、常陸国風土記には書かれた記述はないが、ヤマトタケル伝説が残る神社だ。
県道50号線と潮来市辻あたりから大生神社をつなぐ街道との交差点付近にある。
この交差点は立体交差で、県道50号がこの神社の下を通る。

神社の詳細はむかしこのブログにも書いたので今回は省略する。
(前回記事:熱田神社(潮来市築地) ⇒ こちら1こちら2

この前に書いたブログにも紹介しているのだが、ここの狛犬の姿が良い。

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何か好きだな~。

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又こちらはキツネならぬ「鹿」(片方に角がある)である。




常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/21 15:43

大生(おおう)神社

 潮来の熱田神社の次はそのまま北上して大生神社へ。

ここは鹿島神宮の元社などともよばれるが、鹿島神宮より古いという訳でもない。
鹿島神宮に祀られているのは「武甕槌(たけみかづち)大神」だが、常陸国風土記に出てくる「建借間命(たけかしまのみこと)」がこの地を制したことから、一族がこの大生地方に住み着き、ここに「建借間命(たけかしまのみこと)」を最初に祀った。

そして、後に、鹿島神宮に「武甕槌(たけみかづち)」として、祀りなおした。
そのために、ここが鹿島神宮の元社であると呼ばれる???

まあはっきりしないが、そんなところなのかもしれない。

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まあ、この辺りは古墳も多く、神社の参道も非常に長い。
殆ど車も通らないので、この木々の生い茂った林の静けさに、心も落ち着く。

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拝殿にお参り。

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常陸国風土記には大生(おおう)という名前は、ヤマトタケルがこの北側の丘前(おかさき)の宮に滞在した時に、この大生の浦辺に、炊屋舎(かしぎや)を建てて、ここで食事を作り、それを北浦沿いに小舟を並べてうかべ、これを橋のようにわたって、その丘前の宮に運んだと書かれている。
その食事を作った場所を「大炊(おおい)」と呼んだことから「大生」となったという。

まあこれもあてにはならないが、そんなことを考えてこの地に来てみるのもよいだろう。

丘前の宮はこの北の「岡」という地名の場所だとされる。
ここは相鹿の郷ともよばれる。
ヤマトタケルはここで弟橘姫に再会していて「相鹿=あふか」となったとも書かれている。
北の日立市助川の方でも再会しているが、ここも名前に「遇鹿(あふか)」の地名由来が同じ理由で書かれている。

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大生神社は時々訪れていて、いつもそのたびに不思議な思いに駆られるが・・・。


常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/22 13:28

宮本茶村の墓と浄国寺

 潮来市内の辻地区に、江戸時代の国学者「宮本茶村」の墓がある。
いつも潮来に来てもあまりこちら方面までは足を延ばさないが、久しぶりに行ってみたいと思い訪ねた。

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この辻地区はいろいろ探索してみたい地区で、結構古くから歴史がありそうな地区である。
頼朝が鹿島神宮に祈願文を書いたときに使った硯を奉納した「硯宮神社」や二十三夜尊堂、愛友酒造などがあり、古墳も残されている。

この宮本茶村は江戸時代の学者で、延方郷校などでも教えていたようだ。
また吉田松陰とも交流があり、松陰が水戸から鹿島神宮を経由して銚子まで行ったときに、この家に1泊したとあります。

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「恥不若(ちふじゃく)」という私塾の名前は興味がありますね。「恥じるにあたわず」でしょうか??

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この墓のある場所は、すぐ裏(西側)は一般の住宅などが並んでいますが、この場所にむかし茶村の家があったようです。
又すぐ隣(東側)に浄土宗の「浄国寺」があります。

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潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/25 12:54

丘前の宮と相鹿の里

 ふるさと風の会で、常陸国風土記に書かれている遺称地巡りの2回目として10月12日に行方地域の東南部を回った。
行方地域も結構広く、多くの遺称地巡りもネットに公開されているものも多いが、ほとんどが玉造から小高地方くらいまでで、この東南側の北浦方面が抜け落ちている。

前回大生神社などを紹介しているが、今回紹介するのは、相鹿の里と丘前の宮である。
相鹿は後の10世紀前半の辞書「和名類聚抄」に「逢鹿郷(あふかごう)」と書かれた場所と推察され、常陸国風土記では倭武の天皇(ヤマトタケル)がここにある相鹿の丘前(おかざき)の宮に滞在している時に、大生の里の浜辺に炊屋舎(かしぎや)を建てて、ここで炊事、料理を作って、水辺に舟を並べて、この舟の上を歩いて、この宮まで運んだと書かれている。
また、この地にヤマトタケルの妻である大橘比売(おとたちばなひめ)が倭(大和)から降りてきて再会したとなっている。

まあ、これは史実ではなく、ヤマトタケルの存在も造られたものであるともいわれるし、相鹿(あふか)の名前由来を作り上げたものではあろうが、大変興味深い話である。

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現在この丘前の宮があったとされる場所が、行方市岡と言われる場所で、ここには丘へ上る入口に昔ここにあった寺の門柱が残っている。
相賀山・寿福寺と書かれた門柱
この寺はここから少し離れた場所に残っているが、今はこの先にはいくつかの神社が祀られている。

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左側の社が「雷神社」で、ここを丘前の宮とみなしている。ただ、今はここには道鏡信仰が一緒になり、そのような木や石の造形物が置かれている。

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この神社から東の方に道が続いている。

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「歴史と文化 ふれあいコース」として、いくつかの史跡を巡れるようになっています。
ここは丘の上の方ですが、山や畑を巻くようにして下の集落へ続いています。
昔一度歩いて「ナウマンゾウの化石出土地」などは住宅地の真ん中あたりに立っていました。

まあ、そこまで歩くのはやめて、この畑や林を巻くように数分行く「相賀城跡」に行けますのでそこまで行って引き返しました。

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相賀城は戦国末期の佐竹氏の南方三十三館仕置きで、滅ばされ城も廃城になったようです。
写真は9月末に撮ったもの。彼岸花が咲いていました。

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このような案内看板があり、詳しく見ていけばもう少し面白い話も見つかるのかもしれません。
しかし、何度も行くのも結構面倒くさい場所なんです。
今年は、常陸国風土記全体のまとめをするために行かなければならない場所がまだあるので、しばらくは忘れておきましょう。



常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/30 11:51
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