多珂郡衙跡(大高台遺跡)
年内に常陸国風土記の本をまとめをしたいため、茨城県の東北部にあたる「多珂郡」の遺称地を訪ねて行ってきました。
この辺りはあまり散策したことがないため、ナビの助けを借りて車で下道を走り、高萩までいきました。
ここに多珂郡の郡衙が置かれていたようです。
石岡から約80kmほどを2時間半くらいで到着。高速を使わなかったので少し時間はかかりました。
常陸国風土記には、「成務天皇(景行天皇の後代で4世紀中頃?)の時代に、建御狭日(たけみさひ:出雲族)命を多珂国造に任命し、この人がこの地の地形を見て、山の峰は険しく、山が高いということで「多珂の国」と名付けた。そして範囲は、久慈郡の堺の助河(現:日立市宮田川)を道前(みちのくち)とし、陸奥国の石城郡の苦麻(くま)の村(現福島県大熊町?)を道後(みちのしり)と名付けた。
その後孝徳天皇(645~ 654年)の時代になって、この国の範囲が広すぎるとして、多珂国・石城国の2つに分けた。
その後律令制の施行に伴い、多珂国と石城国は多珂郡と石城郡となり、石城郡は陸奥国に編入された。
この多珂郡の郡衙が置かれた場所と推定されているのが、高萩市下手綱の大高台遺跡と呼ばれる場所である。
高萩駅から国道6号線を約3kmくらい北上したところに「赤浜」という信号がある。
ここを西へ左折し、700mほどいった台地上に郡衙があったらしい。
ここには県立高萩清松高校があり、この高校の敷地やその周辺の農地など一帯に郡の建物があったようだ。

6号国道(陸前浜街道)と赤浜信号で交差する道にも「陸前浜街道」の文字が書かれている。
すなわちこちらの細い道が旧街道のようだ。
陸前の名称は明治維新後1869年に陸奥国が分離されて、岩代国、磐城国、陸前国、陸中国 、陸奥国に分離した時の名称であり、江戸時代やその前の呼び名ではない。陸前は仙台を中心とした今の宮城県と岩手県の南東部の一部がこれに含まれている。
ただ、このあたりを古代の道が通っていたと考えてもいのだろう。

県立高萩清松高校。この高校の敷地あたりが古代の郡衙跡だという。

高校入り口から今来た赤浜信号方面を眺めた。
右手に家があるが、その裏手などは一面の畑地だ。

また左手側は一段高くなっていて、畑などが広がっており、奥に山並みが見渡せる。

この高校の敷地からさらに「この陸前浜街道を先に進むと、道はすぐにろの字のようにくねくねと曲がりながら、下の関根川に大きく下っていく。
この下り坂を「いわん坂」と名前が付けられていたが、名前の由来は不明だが、「岩ノ作」という小字名が下手綱にあることから、「いわのさく」が坂道と合わさって「いわん坂」となったのかもしれない。
この坂の途中に江戸時代中期の学者で医師でもあった「鈴木玄淳」の墓がある。
鈴木玄淳はこのあたりで私塾を開いて学問を教えていたらしく、そこの通っていたというのが、地図作りでも名前が知られた「長久保赤水」がいたという。
この長久保赤水が生まれた場所は、上の地図にも入れたが、赤浜信号の東側のこの陸前浜街道沿いである。
このような場所は訪れてみないとイメージはわかないものだ。
やはり現地を見てみるということは必要なことだと感じた。
現在いわん坂の下側は脇に新たな道路工事がされていて、便利になるのは良いが、しばらくするとこの昔のイメージはかなり薄れてしまうかもしれない。
この辺りはあまり散策したことがないため、ナビの助けを借りて車で下道を走り、高萩までいきました。
ここに多珂郡の郡衙が置かれていたようです。
石岡から約80kmほどを2時間半くらいで到着。高速を使わなかったので少し時間はかかりました。
常陸国風土記には、「成務天皇(景行天皇の後代で4世紀中頃?)の時代に、建御狭日(たけみさひ:出雲族)命を多珂国造に任命し、この人がこの地の地形を見て、山の峰は険しく、山が高いということで「多珂の国」と名付けた。そして範囲は、久慈郡の堺の助河(現:日立市宮田川)を道前(みちのくち)とし、陸奥国の石城郡の苦麻(くま)の村(現福島県大熊町?)を道後(みちのしり)と名付けた。
その後孝徳天皇(645~ 654年)の時代になって、この国の範囲が広すぎるとして、多珂国・石城国の2つに分けた。
その後律令制の施行に伴い、多珂国と石城国は多珂郡と石城郡となり、石城郡は陸奥国に編入された。
この多珂郡の郡衙が置かれた場所と推定されているのが、高萩市下手綱の大高台遺跡と呼ばれる場所である。
高萩駅から国道6号線を約3kmくらい北上したところに「赤浜」という信号がある。
ここを西へ左折し、700mほどいった台地上に郡衙があったらしい。
ここには県立高萩清松高校があり、この高校の敷地やその周辺の農地など一帯に郡の建物があったようだ。

6号国道(陸前浜街道)と赤浜信号で交差する道にも「陸前浜街道」の文字が書かれている。
すなわちこちらの細い道が旧街道のようだ。
陸前の名称は明治維新後1869年に陸奥国が分離されて、岩代国、磐城国、陸前国、陸中国 、陸奥国に分離した時の名称であり、江戸時代やその前の呼び名ではない。陸前は仙台を中心とした今の宮城県と岩手県の南東部の一部がこれに含まれている。
ただ、このあたりを古代の道が通っていたと考えてもいのだろう。

県立高萩清松高校。この高校の敷地あたりが古代の郡衙跡だという。

高校入り口から今来た赤浜信号方面を眺めた。
右手に家があるが、その裏手などは一面の畑地だ。

また左手側は一段高くなっていて、畑などが広がっており、奥に山並みが見渡せる。

この高校の敷地からさらに「この陸前浜街道を先に進むと、道はすぐにろの字のようにくねくねと曲がりながら、下の関根川に大きく下っていく。
この下り坂を「いわん坂」と名前が付けられていたが、名前の由来は不明だが、「岩ノ作」という小字名が下手綱にあることから、「いわのさく」が坂道と合わさって「いわん坂」となったのかもしれない。
この坂の途中に江戸時代中期の学者で医師でもあった「鈴木玄淳」の墓がある。
鈴木玄淳はこのあたりで私塾を開いて学問を教えていたらしく、そこの通っていたというのが、地図作りでも名前が知られた「長久保赤水」がいたという。
この長久保赤水が生まれた場所は、上の地図にも入れたが、赤浜信号の東側のこの陸前浜街道沿いである。
このような場所は訪れてみないとイメージはわかないものだ。
やはり現地を見てみるということは必要なことだと感じた。
現在いわん坂の下側は脇に新たな道路工事がされていて、便利になるのは良いが、しばらくするとこの昔のイメージはかなり薄れてしまうかもしれない。
藻島の駅家(長者山官衙遺跡)
高萩の多珂郡衙跡である大高台遺跡より南下して(戻って)、日立市十王町伊師にある長者山官衙遺跡の場所を目指しました。
ここは鵜の岬でおなじみの伊師浜の少し北側の内陸側にあります。
ただ常磐線よりは浜辺(東側)です。
まず、日立市十王町伊師3586の伊師町田園都市センターへ行ってみましょう。

駐車できる場所としてはちょうどよいのですが、「無断駐車禁止」の大きな立て看板が置かれていました。ここに国指定史跡「長者山官衙史跡及び常陸国海道跡」という看板が掲げられていました。

この田園都市センター手前の杉林の道路沿いに、大きな椎の木があります。
市の指定天然記念物「愛宕神社境内椎」と書かれています。

このように明らかに太い古木「椎の木」がその存在感をあらわにしています。

また説明にはこの横の道が陸前浜街道で、これが明治以降の名前であり、それまでの呼び名が「岩城相馬街道」であると記されています。
しかしここはもっと昔の常陸国風土記に記載されている「郡衙の南方三十里(約15km)のところに、藻島の駅家(うまや)がある。」また名前の由来としては「倭武の天皇(ヤマトタケル)が舟に乗って海から磯辺を見たら、さまざまな種類の海藻(め)が生い茂っていたから」と書かれている。
その藻島の駅家がこのあたりにあったといわれている。
ただ、この藻島の駅家は、日本後紀に弘仁2年(812年)に廃止されており、存続期間が約90年間という短い期間だったことがわかっています。

この椎の木の場所から杉林の中に道が続いています。

そしてその先に「愛宕神社」があります。
このあたりには古墳が多く残されており「十王台古墳群」と呼ばれています。

愛宕神社の裏側にはいくつかの祠があります。

愛宕神社の正面から拝殿。結構立派ですね。

神社は少し高台に置かれていますので、下の道からは階段を上ります。

この愛宕神社のわきを通る道が古代の官道が通っていた証拠に、この脇から長さ約280m、幅(両脇の側溝中心幅で)6.73mの古代官道跡が発掘されています。
この古代官道跡の調査時にいくつかの建物群の跡が発見され、これが長者山官衙遺跡として海道跡とともに、国の史跡に登録されました。
ここの藻島駅家の役割ですが、8世紀後半~9世紀前半は「蝦夷征討」が本格化した時期と重なり、この時に物資などを運ぶのに利用されたものと考えられます。
一方長者山官衙遺跡は、8世紀半ばから9世紀半ばの12棟の掘立柱建物がコの字型に配置され、9世紀半ば以降の倉庫とみられる8棟の礎石が見つかっています。
郡衙以外にこのような租税として徴収した米を一時保管したと考えられる建物があったと考えられ、ここが高萩の郡衙以外に郡衙の役割も持っていたと考えられることは非常に興味深いといえます。
ここは鵜の岬でおなじみの伊師浜の少し北側の内陸側にあります。
ただ常磐線よりは浜辺(東側)です。
まず、日立市十王町伊師3586の伊師町田園都市センターへ行ってみましょう。

駐車できる場所としてはちょうどよいのですが、「無断駐車禁止」の大きな立て看板が置かれていました。ここに国指定史跡「長者山官衙史跡及び常陸国海道跡」という看板が掲げられていました。

この田園都市センター手前の杉林の道路沿いに、大きな椎の木があります。
市の指定天然記念物「愛宕神社境内椎」と書かれています。

このように明らかに太い古木「椎の木」がその存在感をあらわにしています。

また説明にはこの横の道が陸前浜街道で、これが明治以降の名前であり、それまでの呼び名が「岩城相馬街道」であると記されています。
しかしここはもっと昔の常陸国風土記に記載されている「郡衙の南方三十里(約15km)のところに、藻島の駅家(うまや)がある。」また名前の由来としては「倭武の天皇(ヤマトタケル)が舟に乗って海から磯辺を見たら、さまざまな種類の海藻(め)が生い茂っていたから」と書かれている。
その藻島の駅家がこのあたりにあったといわれている。
ただ、この藻島の駅家は、日本後紀に弘仁2年(812年)に廃止されており、存続期間が約90年間という短い期間だったことがわかっています。

この椎の木の場所から杉林の中に道が続いています。

そしてその先に「愛宕神社」があります。
このあたりには古墳が多く残されており「十王台古墳群」と呼ばれています。

愛宕神社の裏側にはいくつかの祠があります。

愛宕神社の正面から拝殿。結構立派ですね。

神社は少し高台に置かれていますので、下の道からは階段を上ります。

この愛宕神社のわきを通る道が古代の官道が通っていた証拠に、この脇から長さ約280m、幅(両脇の側溝中心幅で)6.73mの古代官道跡が発掘されています。
この古代官道跡の調査時にいくつかの建物群の跡が発見され、これが長者山官衙遺跡として海道跡とともに、国の史跡に登録されました。
ここの藻島駅家の役割ですが、8世紀後半~9世紀前半は「蝦夷征討」が本格化した時期と重なり、この時に物資などを運ぶのに利用されたものと考えられます。
一方長者山官衙遺跡は、8世紀半ばから9世紀半ばの12棟の掘立柱建物がコの字型に配置され、9世紀半ば以降の倉庫とみられる8棟の礎石が見つかっています。
郡衙以外にこのような租税として徴収した米を一時保管したと考えられる建物があったと考えられ、ここが高萩の郡衙以外に郡衙の役割も持っていたと考えられることは非常に興味深いといえます。
碁石の浜
常陸国風土記には「藻島(めしま)の駅家(うまや)の東南の浜に碁石あり。色は珠玉(たま)の如し。所謂常陸の国に有る麗しき碁石は、唯、是の浜のみなり。」と書かれている。
このきれいな碁石がとれる場所が現在国民宿舎として有名な「鵜の岬」の北側の海岸と考えられれている。
ここ「伊師浜海岸」は江戸時代初期頃から使われている名前で、その前は「石浜」と呼ばれていたらしい。

この海岸入り口には「伊師浜海水浴場」と鵜の鳥絵の看板が掲げられていた。

そしてその奥(南側)の高台に立派な国民宿舎「鵜の岬」の建物が聳えている。

鵜の捕獲場所(鵜の岬)から続く岩場がここで途切れ、ここから白い砂浜が続いている。
この浜で白や黒の碁石が採れたという。
囲碁の歴史を見ると、奈良時代初期頃に中国から日本に伝わり、貴族に愛好されたという。
ただ、今の碁石は白石はハマグリの貝殻を使い、黒石には自然石が使われるというが、この浜あたりでは白い石と黒い石の両方が採れたようだ。
今はハマグリの貝をくりぬいて白石が作られているが、これも宮崎県日向地方で採れるハマグリが使われていたが、今ではあまり採れなくなり、メキシコ産のハマグリが使われているというが、これもいつまで続けられるのだろうか。

浜の北側にもしばらく砂浜が続いている。
このきれいな碁石がとれる場所が現在国民宿舎として有名な「鵜の岬」の北側の海岸と考えられれている。
ここ「伊師浜海岸」は江戸時代初期頃から使われている名前で、その前は「石浜」と呼ばれていたらしい。

この海岸入り口には「伊師浜海水浴場」と鵜の鳥絵の看板が掲げられていた。

そしてその奥(南側)の高台に立派な国民宿舎「鵜の岬」の建物が聳えている。

鵜の捕獲場所(鵜の岬)から続く岩場がここで途切れ、ここから白い砂浜が続いている。
この浜で白や黒の碁石が採れたという。
囲碁の歴史を見ると、奈良時代初期頃に中国から日本に伝わり、貴族に愛好されたという。
ただ、今の碁石は白石はハマグリの貝殻を使い、黒石には自然石が使われるというが、この浜あたりでは白い石と黒い石の両方が採れたようだ。
今はハマグリの貝をくりぬいて白石が作られているが、これも宮崎県日向地方で採れるハマグリが使われていたが、今ではあまり採れなくなり、メキシコ産のハマグリが使われているというが、これもいつまで続けられるのだろうか。

浜の北側にもしばらく砂浜が続いている。
仏の浜(1)-度志観音跡
常陸国風土記の多珂郡の記述はそれほど多くはない。
多珂郡が大化の改新以降に律令制制度での国や郡を明確に区分するようになる前は、まだ多珂国とよばれており、国造(くにのみやつこ)が派遣されていた。
都から4世紀中頃に、ここの国造に派遣されたのは建御狭日命(たけみさひのみこと)で出雲臣と同族の人であったという。
また、この頃の多珂国は今の日立市助河の北から福島県の大熊町あたりまでと記載されている。
この多珂国の南部の入口あたりを「道前」と呼び、最後北部の出口付近を「道後」と呼び、読み方も「みちのくち」「みちのしり」などといった。
その後、大化の改新直後の孝徳天皇の時代(645-654)に、この国(多珂国)を管理するには広すぎるとして、南北2つに分割して「多珂国」「石城国」となり西暦700年前頃に、常陸国多珂郡、陸奥国石城郡となった。
そして、この常陸国風土記にはこの「道前の里」で倭武の天皇(ヤマトタケル)が妻の橘皇后(弟橘姫)に会い、海幸彦・山幸彦の伝承を彷彿させるように、ヤマトタケルは山で狩りを、弟橘姫は海で漁をして獲物獲得競争をしたとなっている。
結果は姫の完勝で、山の幸はほとんどとれず、海の幸は大漁で(食べ)飽きるほどだったという。
このため海沿いの地名に「飽田の村」と名付けたと書かれており、ここは今の地名で「日立市相田町附近:小木津駅の東側海岸沿い)とみなされています。
風土記にこのような話を載せたのは恐らく何か理由があったはずですが、考えてみるととても意味深な話でもあります。
それぞれそれを想像してみるのも面白いでしょう。
さて、今回は、常陸国風土記に、この「飽田村」の近くの大海のほとりの岩壁に仏像が彫られた場所「仏の浜」があるとの記載があります。
全国の風土記でも仏像の記述は他になく、この常陸国風土記のこの箇所のみだといいます。
この仏の浜と言われる場所の候補地が2か所あります。
1つ目は日立市田尻町の田尻小学校南側の崖に残されている「度志(どし)観音跡」でここが県の指定史跡「仏ヶ浜」として登録されています。

この田尻小学校の南側の崖を目指していくと、その近辺の通りの道は結構広く整備されており、開けた感じの場所となっていました。
地図を見てみると、通りに沿ってコンビニ(ミニストップ)があり、その反対側にセレモニーホールがありました。
その駐車場のわきから少し内側に回り込むと「佛ケの浜」の案内板がありました。
どうやらこの通り沿いの駐車場のすぐ裏手の崖部分に「史跡・度志観音跡」があるようです。
(木々が生い茂っていて表通りから見えなくなっています)

その案内ポールのところから、前の広い道路に平行に木々の間に道が続いています。
そしてその少し上った先が開けていて説明看板が置かれていました。

このように、常陸国風土記の「佛ケ浜」はこの度志(どし)観音の場所に違いないと、昭和30年に茨城県教育委員会に認定されて、県の史跡として登録されました。

奥の岸壁中央に扉の付いた場所があり、ここが1300年以上前に風土記に書かれた仏像だと考えられたようです。
格子の中をのぞきましたが、壁面に何か彫られた跡があるようでしたが、その姿は肉眼ではよくわかりませんでした。

又向かって左側の壁面には地蔵像などいくつかの仏像が置かれていました。


壁面にも何か摩崖仏が彫られているのかもしれませんが、はっきりしません。
ここの歴史を見てみると、かつて常陸三十三観音霊場の第15番札所であった真言宗「清滝山源勝院観泉寺」があり、この観音像を本尊としていたそうです。
また、この寺は弘仁年中(810~824年)に空海が建立したという伝承があると書かれています。
ただ、この観泉寺も廃寺となっていて、よく歴史はわかりません。
風土記が書かれたという西暦720年頃にすでにあったのかはわかっていません。
今では次に書く「仏の浜(2)」の説の方の場所が可能性は高かそうです。
ただ、このあたりの岸壁に摩崖仏が彫られたというのは歴史的にはとても興味深い話で、多珂国は7世紀末頃は陸奥国での蝦夷に不穏な動きが頻発していたらしく、このあたりに観世音菩薩などの仏像を岸壁に彫り、蝦夷の動きを鎮めたいという願いをこのような仏像に込めたと考えられています。
<仏の浜(2)へつづく>
多珂郡が大化の改新以降に律令制制度での国や郡を明確に区分するようになる前は、まだ多珂国とよばれており、国造(くにのみやつこ)が派遣されていた。
都から4世紀中頃に、ここの国造に派遣されたのは建御狭日命(たけみさひのみこと)で出雲臣と同族の人であったという。
また、この頃の多珂国は今の日立市助河の北から福島県の大熊町あたりまでと記載されている。
この多珂国の南部の入口あたりを「道前」と呼び、最後北部の出口付近を「道後」と呼び、読み方も「みちのくち」「みちのしり」などといった。
その後、大化の改新直後の孝徳天皇の時代(645-654)に、この国(多珂国)を管理するには広すぎるとして、南北2つに分割して「多珂国」「石城国」となり西暦700年前頃に、常陸国多珂郡、陸奥国石城郡となった。
そして、この常陸国風土記にはこの「道前の里」で倭武の天皇(ヤマトタケル)が妻の橘皇后(弟橘姫)に会い、海幸彦・山幸彦の伝承を彷彿させるように、ヤマトタケルは山で狩りを、弟橘姫は海で漁をして獲物獲得競争をしたとなっている。
結果は姫の完勝で、山の幸はほとんどとれず、海の幸は大漁で(食べ)飽きるほどだったという。
このため海沿いの地名に「飽田の村」と名付けたと書かれており、ここは今の地名で「日立市相田町附近:小木津駅の東側海岸沿い)とみなされています。
風土記にこのような話を載せたのは恐らく何か理由があったはずですが、考えてみるととても意味深な話でもあります。
それぞれそれを想像してみるのも面白いでしょう。
さて、今回は、常陸国風土記に、この「飽田村」の近くの大海のほとりの岩壁に仏像が彫られた場所「仏の浜」があるとの記載があります。
全国の風土記でも仏像の記述は他になく、この常陸国風土記のこの箇所のみだといいます。
この仏の浜と言われる場所の候補地が2か所あります。
1つ目は日立市田尻町の田尻小学校南側の崖に残されている「度志(どし)観音跡」でここが県の指定史跡「仏ヶ浜」として登録されています。

この田尻小学校の南側の崖を目指していくと、その近辺の通りの道は結構広く整備されており、開けた感じの場所となっていました。
地図を見てみると、通りに沿ってコンビニ(ミニストップ)があり、その反対側にセレモニーホールがありました。
その駐車場のわきから少し内側に回り込むと「佛ケの浜」の案内板がありました。
どうやらこの通り沿いの駐車場のすぐ裏手の崖部分に「史跡・度志観音跡」があるようです。
(木々が生い茂っていて表通りから見えなくなっています)

その案内ポールのところから、前の広い道路に平行に木々の間に道が続いています。
そしてその少し上った先が開けていて説明看板が置かれていました。

このように、常陸国風土記の「佛ケ浜」はこの度志(どし)観音の場所に違いないと、昭和30年に茨城県教育委員会に認定されて、県の史跡として登録されました。

奥の岸壁中央に扉の付いた場所があり、ここが1300年以上前に風土記に書かれた仏像だと考えられたようです。
格子の中をのぞきましたが、壁面に何か彫られた跡があるようでしたが、その姿は肉眼ではよくわかりませんでした。

又向かって左側の壁面には地蔵像などいくつかの仏像が置かれていました。


壁面にも何か摩崖仏が彫られているのかもしれませんが、はっきりしません。
ここの歴史を見てみると、かつて常陸三十三観音霊場の第15番札所であった真言宗「清滝山源勝院観泉寺」があり、この観音像を本尊としていたそうです。
また、この寺は弘仁年中(810~824年)に空海が建立したという伝承があると書かれています。
ただ、この観泉寺も廃寺となっていて、よく歴史はわかりません。
風土記が書かれたという西暦720年頃にすでにあったのかはわかっていません。
今では次に書く「仏の浜(2)」の説の方の場所が可能性は高かそうです。
ただ、このあたりの岸壁に摩崖仏が彫られたというのは歴史的にはとても興味深い話で、多珂国は7世紀末頃は陸奥国での蝦夷に不穏な動きが頻発していたらしく、このあたりに観世音菩薩などの仏像を岸壁に彫り、蝦夷の動きを鎮めたいという願いをこのような仏像に込めたと考えられています。
<仏の浜(2)へつづく>
仏の浜(2)
昨日書いた「仏の浜」については、現在どうも風土記の遺称地とは違うのではないかという意見が多くなっているようです。
理由としては、
① 常陸国風土記に書かれている流れからすると、「藻島の駅家」と「飽田の村」との間にあると読めそうで、これらの遺称地がそれぞれ、日立市十王町伊師北部と、日立市相田町と考えられており、この度志観音のある日立市田尻町は相田町より少しばかり南であり、位置が違っている。
② この度志観音の彫られた時代が室町時代初期ごろではないかとみられ、奈良時代の風土記制作時期より後ではないかと考えられる。
③ この岸壁の位置が当時の海辺ではなく、少し内陸部ではないかとみられる。
などが言われています。
そのため、もう少し北の海岸に近い場所として、日立市小木津町の東連津川河口付近の岸壁に摩崖仏の像があるというので探しに行ってみました。

小木津町の北側の東連津川近くの海岸付近まで行ってみました。
しかし、ここには海岸に降りられるような場所がなく、コンクリートの津波除けの塀が張り巡らされており、人が降りられる場所も密漁防止の看板とともに塞がれていました。

浜辺には入れませんでしたが、東連津川の河口付近を塀の上から眺めてみました。
このように波打ち際まで岸壁が連なっていますが、摩崖仏らしきものはわかりません。

ただ、この波打ち際に摩崖仏が1300年前にあったとしてもこの波と風ではとても今に残されているはずもないでしょう。


ただネットには摩崖仏の写真があるので、もう少し内陸側の壁面に残されているのかもしれません。
まあ、なかなかここを訪れるのも少ないでしょうから、どこかでまた情報を得ながら探してみたいと思います。
理由としては、
① 常陸国風土記に書かれている流れからすると、「藻島の駅家」と「飽田の村」との間にあると読めそうで、これらの遺称地がそれぞれ、日立市十王町伊師北部と、日立市相田町と考えられており、この度志観音のある日立市田尻町は相田町より少しばかり南であり、位置が違っている。
② この度志観音の彫られた時代が室町時代初期ごろではないかとみられ、奈良時代の風土記制作時期より後ではないかと考えられる。
③ この岸壁の位置が当時の海辺ではなく、少し内陸部ではないかとみられる。
などが言われています。
そのため、もう少し北の海岸に近い場所として、日立市小木津町の東連津川河口付近の岸壁に摩崖仏の像があるというので探しに行ってみました。

小木津町の北側の東連津川近くの海岸付近まで行ってみました。
しかし、ここには海岸に降りられるような場所がなく、コンクリートの津波除けの塀が張り巡らされており、人が降りられる場所も密漁防止の看板とともに塞がれていました。

浜辺には入れませんでしたが、東連津川の河口付近を塀の上から眺めてみました。
このように波打ち際まで岸壁が連なっていますが、摩崖仏らしきものはわかりません。

ただ、この波打ち際に摩崖仏が1300年前にあったとしてもこの波と風ではとても今に残されているはずもないでしょう。


ただネットには摩崖仏の写真があるので、もう少し内陸側の壁面に残されているのかもしれません。
まあ、なかなかここを訪れるのも少ないでしょうから、どこかでまた情報を得ながら探してみたいと思います。
密筑の里と泉が森(久慈郡)
多珂郡から日立市南部は「久慈郡」となる。
現在、日立市の泉神社と呼ばれる比較的有名なパワースポットがある。
ここが常陸国風土記の久慈郡に書かれている「密筑(みつき)の里」と呼ばれる場所だとされている。
風土記には
「称ふ所の高市、此より東北二里(約1km)に密筑(みつき)の里あり。村の中に浄き泉あり、俗(くにひと)、大井(おほゐ)と謂ふ。夏は冷にして、冬は温し。湧き流れて川と成る。・・・・・・・」
と書かれており、この泉の場所に村人たちが集って、酒や肴を持ち寄って楽しんだという。
現在、日立市水木町に延喜式式内社の「泉神社」が建っており、この湧き水の池を含めた神社境内など一帯を「泉が森」という名称で昭和44年に県指定の史跡として登録されている。

ナビを頼りに神社に到着。 この少し先に神社の駐車場が置かれていた。
鳥居の左手には聖徳太子堂と書かれた石柱が建っていた。

入り口の鳥居から泉神社拝殿まで並木道沿いに青い旗がたくさん並べられていて雰囲気のよい神社である。

泉が森の説明

ここで行われている「水木のささら」祭りの説明。
石岡のお祭りのささらとはまた少し違うようで興味深い。

泉神社の拝殿。西日が差して少しまぶしい。

拝殿には龍の彫り物や徳川の葵のご紋がついていた。

拝殿の浦は本殿でその奥は森であるが、そちらへは行けない。

この拝殿と本殿の中間くらいの左手に「目洗の泉」と書かれた泉がありました。
さて、風土記に書かれた密筑の里の大井という井戸は、この泉神社拝殿に向かって、手前の右手側の下にありました。

神社からは少し下がった場所にあります。

泉の中央に赤い社が置かれています。これは弁天様だといいます。
まあ泉にはやはり弁天さんですよね。

この社の左手の泉は下から絶えず湧き水が噴出しているようで、もくもく、ぽこぽこと音は聞こえませんが、かなり勢い良く噴き出していました。
やはりここは何かご利益がありそうですね。
現在、日立市の泉神社と呼ばれる比較的有名なパワースポットがある。
ここが常陸国風土記の久慈郡に書かれている「密筑(みつき)の里」と呼ばれる場所だとされている。
風土記には
「称ふ所の高市、此より東北二里(約1km)に密筑(みつき)の里あり。村の中に浄き泉あり、俗(くにひと)、大井(おほゐ)と謂ふ。夏は冷にして、冬は温し。湧き流れて川と成る。・・・・・・・」
と書かれており、この泉の場所に村人たちが集って、酒や肴を持ち寄って楽しんだという。
現在、日立市水木町に延喜式式内社の「泉神社」が建っており、この湧き水の池を含めた神社境内など一帯を「泉が森」という名称で昭和44年に県指定の史跡として登録されている。

ナビを頼りに神社に到着。 この少し先に神社の駐車場が置かれていた。
鳥居の左手には聖徳太子堂と書かれた石柱が建っていた。

入り口の鳥居から泉神社拝殿まで並木道沿いに青い旗がたくさん並べられていて雰囲気のよい神社である。

泉が森の説明

ここで行われている「水木のささら」祭りの説明。
石岡のお祭りのささらとはまた少し違うようで興味深い。

泉神社の拝殿。西日が差して少しまぶしい。

拝殿には龍の彫り物や徳川の葵のご紋がついていた。

拝殿の浦は本殿でその奥は森であるが、そちらへは行けない。

この拝殿と本殿の中間くらいの左手に「目洗の泉」と書かれた泉がありました。
さて、風土記に書かれた密筑の里の大井という井戸は、この泉神社拝殿に向かって、手前の右手側の下にありました。

神社からは少し下がった場所にあります。

泉の中央に赤い社が置かれています。これは弁天様だといいます。
まあ泉にはやはり弁天さんですよね。

この社の左手の泉は下から絶えず湧き水が噴出しているようで、もくもく、ぽこぽこと音は聞こえませんが、かなり勢い良く噴き出していました。
やはりここは何かご利益がありそうですね。
権現山古墳(東海村)
日立市をさらに南へ戻って、東海村へやってきました。
ここには十三参りで有名な村松虚空蔵があります。
しかし、風土記が書かれたころはまだこの虚空蔵尊はなく、後に筑波山から見て鬼門(北東=丑虎)方向に建てられたものだと理解していますので、今回は風土記の頃を考えて、風土記の遺称地として名前が挙がっている「権現山古墳」を探していってきました。
このあたりにはほかにも古墳が残されていますが、これらは「那賀国造一族の墓」ではないかと考えられています。
常陸国風土記では、那賀国のところではなく、行方郡の成立の説明箇所の出てきます。
「孝徳天皇の時代(645~654年)の653年に、茨城の国造である小乙下壬生連麿と、那珂の国造の大建壬生直夫子たちが、請い願って、行方郡を設置した」となっています。
この大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたいおのこ)は建借間命(たけかしまのみこと)の子孫と思われます。
小乙下(せいいつげ)、大建(だいけん)というのは664年制定の冠位26階中の24位と25位だという。
ただ、行方郡を作った時は653年で、この冠位の制定は664年であり、年代としては合わないが、すでに653年前には同じ名前の冠位が存在していたものと思われます。
この権現山古墳は東海村村松943あたりで、古墳の上に「素鵞神社」が祀られています。
県道284号線沿いにあり、すぐ隣に「日本原子力研究開発機構の権現山寮」が建っています。

この神社があるところが権現山古墳(前方後円墳)で、右側が日本原研の権現山寮。

素鵞神社と掲げられていますが、昔から素鵞神社なのか明治以降に変わったのかは不明。

この神社と裏手の山全体が古墳のようです。

築造は五世紀中葉だという。

古墳の説明版の隣に「ヤマザクラ」の古木の案内が書かれています。

素鵞神社鳥居から上に上ると、小さな社がポツンとありました。
どうやらこれが素鵞神社の社のようです。

またこの左手側にヤマザクラの古木があり、根を保護するために周りにロープが張られていました。
ここには十三参りで有名な村松虚空蔵があります。
しかし、風土記が書かれたころはまだこの虚空蔵尊はなく、後に筑波山から見て鬼門(北東=丑虎)方向に建てられたものだと理解していますので、今回は風土記の頃を考えて、風土記の遺称地として名前が挙がっている「権現山古墳」を探していってきました。
このあたりにはほかにも古墳が残されていますが、これらは「那賀国造一族の墓」ではないかと考えられています。
常陸国風土記では、那賀国のところではなく、行方郡の成立の説明箇所の出てきます。
「孝徳天皇の時代(645~654年)の653年に、茨城の国造である小乙下壬生連麿と、那珂の国造の大建壬生直夫子たちが、請い願って、行方郡を設置した」となっています。
この大建壬生直夫子(だいけんみぶのあたいおのこ)は建借間命(たけかしまのみこと)の子孫と思われます。
小乙下(せいいつげ)、大建(だいけん)というのは664年制定の冠位26階中の24位と25位だという。
ただ、行方郡を作った時は653年で、この冠位の制定は664年であり、年代としては合わないが、すでに653年前には同じ名前の冠位が存在していたものと思われます。
この権現山古墳は東海村村松943あたりで、古墳の上に「素鵞神社」が祀られています。
県道284号線沿いにあり、すぐ隣に「日本原子力研究開発機構の権現山寮」が建っています。

この神社があるところが権現山古墳(前方後円墳)で、右側が日本原研の権現山寮。

素鵞神社と掲げられていますが、昔から素鵞神社なのか明治以降に変わったのかは不明。

この神社と裏手の山全体が古墳のようです。

築造は五世紀中葉だという。

古墳の説明版の隣に「ヤマザクラ」の古木の案内が書かれています。

素鵞神社鳥居から上に上ると、小さな社がポツンとありました。
どうやらこれが素鵞神社の社のようです。

またこの左手側にヤマザクラの古木があり、根を保護するために周りにロープが張られていました。
公民館での2回目の講座開催
「常陸国における源平合戦」と題して4回連続での講習会をしていますが、今週木曜日に2回目の講座を城南地区公民館で行いました。
1回目に比べると少し落ち着いて周りを見ることもできたかと思いますが、まだまだですね。
大変多くの方(約30名)が熱心に聞いていただきありがとうございました。

平日の昼間ですので、やはり年配の方が中心ですね。男女比率は半々くらいでしょうか?
しかし、八郷地区や石岡市内からの方もおり、この地区公民館の周辺地区ばかりではないことに驚いています。
この三村地区には前から少し興味があり、昔は結構歩いたりしたのですが、最近はご無沙汰ばかりでした。
今回も地元の昔話も話の中に加えたのですが、三村城の主、常春公(府中の大掾氏の弟)がここで小田氏の攻撃により最期を遂げた時のお話をしました。
この常春公の五輪塔を探して何度か足を延ばして見つけた時の喜びは今も忘れられないのですが、今回地元の方より、この椿の木の下にあった五輪塔が、「今は常春寺に移されましたよ」とお教えいただきました。
常春寺へは先月訪れたのですが、五輪塔が移されていたことは気が付きませんでした。
こんな会話も楽しいものですね。
地元の地名「羽成子(はなし)」が岩間の「葉梨山神社」とどのように関係するかそのうちに見えてくるかもしれません。
この場所から舟で小川に向かいには絶好の地です。(これはわかる方にしかわからない??)
鎌倉期の霞ケ浦の地形を思い浮かべると、小川の園部川河口付近は大きな入り江になっています。
Flood Maps 地図の紹介もしましたので、興味のおありになる方は使い始めているかもしれませんね。
次来週木曜日、また何か新たな知識が増えるといいですね。
1回目に比べると少し落ち着いて周りを見ることもできたかと思いますが、まだまだですね。
大変多くの方(約30名)が熱心に聞いていただきありがとうございました。

平日の昼間ですので、やはり年配の方が中心ですね。男女比率は半々くらいでしょうか?
しかし、八郷地区や石岡市内からの方もおり、この地区公民館の周辺地区ばかりではないことに驚いています。
この三村地区には前から少し興味があり、昔は結構歩いたりしたのですが、最近はご無沙汰ばかりでした。
今回も地元の昔話も話の中に加えたのですが、三村城の主、常春公(府中の大掾氏の弟)がここで小田氏の攻撃により最期を遂げた時のお話をしました。
この常春公の五輪塔を探して何度か足を延ばして見つけた時の喜びは今も忘れられないのですが、今回地元の方より、この椿の木の下にあった五輪塔が、「今は常春寺に移されましたよ」とお教えいただきました。
常春寺へは先月訪れたのですが、五輪塔が移されていたことは気が付きませんでした。
こんな会話も楽しいものですね。
地元の地名「羽成子(はなし)」が岩間の「葉梨山神社」とどのように関係するかそのうちに見えてくるかもしれません。
この場所から舟で小川に向かいには絶好の地です。(これはわかる方にしかわからない??)
鎌倉期の霞ケ浦の地形を思い浮かべると、小川の園部川河口付近は大きな入り江になっています。
Flood Maps 地図の紹介もしましたので、興味のおありになる方は使い始めているかもしれませんね。
次来週木曜日、また何か新たな知識が増えるといいですね。
公民館での3回目の講座を行いました。
昨日11月16日(木曜日)は、先週に続き3回目の歴史講座を行いました。
1週間前に2回目を行っており、その間の3日間はまちかど情報センターで風の会の文庫展もあり、少し疲れました。
昨日は天気も良く、暑いくらいで、今日は逆に雨で1日中寒い。
気温の変化もありますね。
だんだん体力も衰えてきます。
公民館での講座内容は今回「常陸の源氏=佐竹氏」の歴史を振り返ったのですが、水戸以南の大掾氏を中心とした平氏たちと違って、一つにまとまっていたように感じます。
また山の鉱物(金山)などの活用で軍資金を蓄えなどもかなりあったのでしょうか。

今回も30席がほぼ満杯で、皆さん熱心に聞いていただきました。

何とか少し話も盛り上げたいと思って、筑波ジオパークの地図やFLOOD MAPSの話しなどで地形的なお話もさせていただきました。
この公民館のある場所は霞ケ浦に近いので、霞ケ浦水門のお話なども次回に少し加えてみたいと思います。
次回は佐竹氏の南方33館仕置き事件での真相に少し迫ってみたいと思います。
残されている資料を基に現地に行って感じたことなどがうまく伝えられたらいいのですが、どうかわかりません。
次回(4回目:最終回)は2週間後です。
まあ一方的にしゃべるのはダメですね。少し聞いておられる方とどのように対話するかも必要ですね。
勉強になります。
また頑張ろう!
来週木曜日(11/23)は祝日で、大増の大覚寺では虫干しで寺宝の無料公開がされるようです。
1週間前に2回目を行っており、その間の3日間はまちかど情報センターで風の会の文庫展もあり、少し疲れました。
昨日は天気も良く、暑いくらいで、今日は逆に雨で1日中寒い。
気温の変化もありますね。
だんだん体力も衰えてきます。
公民館での講座内容は今回「常陸の源氏=佐竹氏」の歴史を振り返ったのですが、水戸以南の大掾氏を中心とした平氏たちと違って、一つにまとまっていたように感じます。
また山の鉱物(金山)などの活用で軍資金を蓄えなどもかなりあったのでしょうか。

今回も30席がほぼ満杯で、皆さん熱心に聞いていただきました。

何とか少し話も盛り上げたいと思って、筑波ジオパークの地図やFLOOD MAPSの話しなどで地形的なお話もさせていただきました。
この公民館のある場所は霞ケ浦に近いので、霞ケ浦水門のお話なども次回に少し加えてみたいと思います。
次回は佐竹氏の南方33館仕置き事件での真相に少し迫ってみたいと思います。
残されている資料を基に現地に行って感じたことなどがうまく伝えられたらいいのですが、どうかわかりません。
次回(4回目:最終回)は2週間後です。
まあ一方的にしゃべるのはダメですね。少し聞いておられる方とどのように対話するかも必要ですね。
勉強になります。
また頑張ろう!
来週木曜日(11/23)は祝日で、大増の大覚寺では虫干しで寺宝の無料公開がされるようです。
公民館講座最終回
全4回の公民館講座が本日終了しました。
初めての講師は結構疲れました。
タイトルは「常陸国の源平合戦」です。
本日は、私のライフワークともなっている現地調査結果の説明でした。
佐竹氏の南方三十三館仕置で実際何があったのか。
残されていた物証を見ていくと何が見えてくるか・・・
こんな内容です。
始めて講師をさせていただきましたが、教えたり説明をするという事はかなり難しいということを痛感しました。
きっと慣れてくればまた違ってくるのでしょうが・・・・
最期までほとんど欠席もなく、皆さんも熱心に聞いていただき感謝です。
このような歴史の専門家でもない私が、知ったかぶりして喋る内容も、うまく伝わったのか?
それとも笑っておられたのか?
ただ、最後の現地の話しは、写真や説明だけでなくもし興味を持たれたら是非現地を訪れていただいて、新たな発見を得ていただきたいと思います。
でも、歴史の研究者や、大学の学者様たちとはまた違った観点から地元の歴史を調べ、素人なりの観点から見える景色もこれからの地元の発展には欠かせないものと思っています。
私はエンジニアであり、プログラムのアルゴリズムなどを考えるのも仕事としてきましたので、物事の見方がどうも論理的に成り立たないと気持ちが悪い性格です。
意外に地元の歴史を調べるには、こんな性格にも合っているように思います。
年内の本の製作も進めており、今日はその施策本を持っていきましたが、欲しいといわれる方がおられてまだ途中の物なのですがお譲りしてしまいました。
それは、「常陸国風土記を巡る -遺称地を訪ねて-」という本です。
まだ完成ではなかったのですが、A5サイズ版で300ページ以上になり、読みにくいので少し大きなA4サイズの地図を10枚以上つけています。
何とか年内に形にしようと試行錯誤中なのです。

講習会が終わり、石岡市内に戻る途中に茨城廃寺方面を少し散策して戻ってきました。

貝地の舌状台地の先端にある、小目井跡(府中六井の一つ)です。 傾きかけた夕日が差し込んでいました。

もう陽は向こう側の山端に沈みかけです。光り輝いて・・・

そして筑波山もこの辺りから見ると遮るものがなく良い姿です。
初めての講師は結構疲れました。
タイトルは「常陸国の源平合戦」です。
本日は、私のライフワークともなっている現地調査結果の説明でした。
佐竹氏の南方三十三館仕置で実際何があったのか。
残されていた物証を見ていくと何が見えてくるか・・・
こんな内容です。
始めて講師をさせていただきましたが、教えたり説明をするという事はかなり難しいということを痛感しました。
きっと慣れてくればまた違ってくるのでしょうが・・・・
最期までほとんど欠席もなく、皆さんも熱心に聞いていただき感謝です。
このような歴史の専門家でもない私が、知ったかぶりして喋る内容も、うまく伝わったのか?
それとも笑っておられたのか?
ただ、最後の現地の話しは、写真や説明だけでなくもし興味を持たれたら是非現地を訪れていただいて、新たな発見を得ていただきたいと思います。
でも、歴史の研究者や、大学の学者様たちとはまた違った観点から地元の歴史を調べ、素人なりの観点から見える景色もこれからの地元の発展には欠かせないものと思っています。
私はエンジニアであり、プログラムのアルゴリズムなどを考えるのも仕事としてきましたので、物事の見方がどうも論理的に成り立たないと気持ちが悪い性格です。
意外に地元の歴史を調べるには、こんな性格にも合っているように思います。
年内の本の製作も進めており、今日はその施策本を持っていきましたが、欲しいといわれる方がおられてまだ途中の物なのですがお譲りしてしまいました。
それは、「常陸国風土記を巡る -遺称地を訪ねて-」という本です。
まだ完成ではなかったのですが、A5サイズ版で300ページ以上になり、読みにくいので少し大きなA4サイズの地図を10枚以上つけています。
何とか年内に形にしようと試行錯誤中なのです。

講習会が終わり、石岡市内に戻る途中に茨城廃寺方面を少し散策して戻ってきました。

貝地の舌状台地の先端にある、小目井跡(府中六井の一つ)です。 傾きかけた夕日が差し込んでいました。

もう陽は向こう側の山端に沈みかけです。光り輝いて・・・

そして筑波山もこの辺りから見ると遮るものがなく良い姿です。
| HOME |