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多珂郡衙跡(大高台遺跡)

 年内に常陸国風土記の本をまとめをしたいため、茨城県の東北部にあたる「多珂郡」の遺称地を訪ねて行ってきました。
この辺りはあまり散策したことがないため、ナビの助けを借りて車で下道を走り、高萩までいきました。
ここに多珂郡の郡衙が置かれていたようです。

石岡から約80kmほどを2時間半くらいで到着。高速を使わなかったので少し時間はかかりました。
常陸国風土記には、「成務天皇(景行天皇の後代で4世紀中頃?)の時代に、建御狭日(たけみさひ:出雲族)命を多珂国造に任命し、この人がこの地の地形を見て、山の峰は険しく、山が高いということで「多珂の国」と名付けた。そして範囲は、久慈郡の堺の助河(現:日立市宮田川)を道前(みちのくち)とし、陸奥国の石城郡の苦麻(くま)の村(現福島県大熊町?)を道後(みちのしり)と名付けた。
その後孝徳天皇(645~ 654年)の時代になって、この国の範囲が広すぎるとして、多珂国・石城国の2つに分けた。
その後律令制の施行に伴い、多珂国と石城国は多珂郡と石城郡となり、石城郡は陸奥国に編入された。

この多珂郡の郡衙が置かれた場所と推定されているのが、高萩市下手綱の大高台遺跡と呼ばれる場所である。
高萩駅から国道6号線を約3kmくらい北上したところに「赤浜」という信号がある。
ここを西へ左折し、700mほどいった台地上に郡衙があったらしい。

ここには県立高萩清松高校があり、この高校の敷地やその周辺の農地など一帯に郡の建物があったようだ。

多珂郡衙

6号国道(陸前浜街道)と赤浜信号で交差する道にも「陸前浜街道」の文字が書かれている。
すなわちこちらの細い道が旧街道のようだ。
陸前の名称は明治維新後1869年に陸奥国が分離されて、岩代国、磐城国、陸前国、陸中国 、陸奥国に分離した時の名称であり、江戸時代やその前の呼び名ではない。陸前は仙台を中心とした今の宮城県と岩手県の南東部の一部がこれに含まれている。
ただ、このあたりを古代の道が通っていたと考えてもいのだろう。

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県立高萩清松高校。この高校の敷地あたりが古代の郡衙跡だという。

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高校入り口から今来た赤浜信号方面を眺めた。
右手に家があるが、その裏手などは一面の畑地だ。

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また左手側は一段高くなっていて、畑などが広がっており、奥に山並みが見渡せる。

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この高校の敷地からさらに「この陸前浜街道を先に進むと、道はすぐにろの字のようにくねくねと曲がりながら、下の関根川に大きく下っていく。
この下り坂を「いわん坂」と名前が付けられていたが、名前の由来は不明だが、「岩ノ作」という小字名が下手綱にあることから、「いわのさく」が坂道と合わさって「いわん坂」となったのかもしれない。

この坂の途中に江戸時代中期の学者で医師でもあった「鈴木玄淳」の墓がある。
鈴木玄淳はこのあたりで私塾を開いて学問を教えていたらしく、そこの通っていたというのが、地図作りでも名前が知られた「長久保赤水」がいたという。
この長久保赤水が生まれた場所は、上の地図にも入れたが、赤浜信号の東側のこの陸前浜街道沿いである。

このような場所は訪れてみないとイメージはわかないものだ。
やはり現地を見てみるということは必要なことだと感じた。
現在いわん坂の下側は脇に新たな道路工事がされていて、便利になるのは良いが、しばらくするとこの昔のイメージはかなり薄れてしまうかもしれない。


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/11/03 13:25
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