藻島の駅家(長者山官衙遺跡)
高萩の多珂郡衙跡である大高台遺跡より南下して(戻って)、日立市十王町伊師にある長者山官衙遺跡の場所を目指しました。
ここは鵜の岬でおなじみの伊師浜の少し北側の内陸側にあります。
ただ常磐線よりは浜辺(東側)です。
まず、日立市十王町伊師3586の伊師町田園都市センターへ行ってみましょう。

駐車できる場所としてはちょうどよいのですが、「無断駐車禁止」の大きな立て看板が置かれていました。ここに国指定史跡「長者山官衙史跡及び常陸国海道跡」という看板が掲げられていました。

この田園都市センター手前の杉林の道路沿いに、大きな椎の木があります。
市の指定天然記念物「愛宕神社境内椎」と書かれています。

このように明らかに太い古木「椎の木」がその存在感をあらわにしています。

また説明にはこの横の道が陸前浜街道で、これが明治以降の名前であり、それまでの呼び名が「岩城相馬街道」であると記されています。
しかしここはもっと昔の常陸国風土記に記載されている「郡衙の南方三十里(約15km)のところに、藻島の駅家(うまや)がある。」また名前の由来としては「倭武の天皇(ヤマトタケル)が舟に乗って海から磯辺を見たら、さまざまな種類の海藻(め)が生い茂っていたから」と書かれている。
その藻島の駅家がこのあたりにあったといわれている。
ただ、この藻島の駅家は、日本後紀に弘仁2年(812年)に廃止されており、存続期間が約90年間という短い期間だったことがわかっています。

この椎の木の場所から杉林の中に道が続いています。

そしてその先に「愛宕神社」があります。
このあたりには古墳が多く残されており「十王台古墳群」と呼ばれています。

愛宕神社の裏側にはいくつかの祠があります。

愛宕神社の正面から拝殿。結構立派ですね。

神社は少し高台に置かれていますので、下の道からは階段を上ります。

この愛宕神社のわきを通る道が古代の官道が通っていた証拠に、この脇から長さ約280m、幅(両脇の側溝中心幅で)6.73mの古代官道跡が発掘されています。
この古代官道跡の調査時にいくつかの建物群の跡が発見され、これが長者山官衙遺跡として海道跡とともに、国の史跡に登録されました。
ここの藻島駅家の役割ですが、8世紀後半~9世紀前半は「蝦夷征討」が本格化した時期と重なり、この時に物資などを運ぶのに利用されたものと考えられます。
一方長者山官衙遺跡は、8世紀半ばから9世紀半ばの12棟の掘立柱建物がコの字型に配置され、9世紀半ば以降の倉庫とみられる8棟の礎石が見つかっています。
郡衙以外にこのような租税として徴収した米を一時保管したと考えられる建物があったと考えられ、ここが高萩の郡衙以外に郡衙の役割も持っていたと考えられることは非常に興味深いといえます。
ここは鵜の岬でおなじみの伊師浜の少し北側の内陸側にあります。
ただ常磐線よりは浜辺(東側)です。
まず、日立市十王町伊師3586の伊師町田園都市センターへ行ってみましょう。

駐車できる場所としてはちょうどよいのですが、「無断駐車禁止」の大きな立て看板が置かれていました。ここに国指定史跡「長者山官衙史跡及び常陸国海道跡」という看板が掲げられていました。

この田園都市センター手前の杉林の道路沿いに、大きな椎の木があります。
市の指定天然記念物「愛宕神社境内椎」と書かれています。

このように明らかに太い古木「椎の木」がその存在感をあらわにしています。

また説明にはこの横の道が陸前浜街道で、これが明治以降の名前であり、それまでの呼び名が「岩城相馬街道」であると記されています。
しかしここはもっと昔の常陸国風土記に記載されている「郡衙の南方三十里(約15km)のところに、藻島の駅家(うまや)がある。」また名前の由来としては「倭武の天皇(ヤマトタケル)が舟に乗って海から磯辺を見たら、さまざまな種類の海藻(め)が生い茂っていたから」と書かれている。
その藻島の駅家がこのあたりにあったといわれている。
ただ、この藻島の駅家は、日本後紀に弘仁2年(812年)に廃止されており、存続期間が約90年間という短い期間だったことがわかっています。

この椎の木の場所から杉林の中に道が続いています。

そしてその先に「愛宕神社」があります。
このあたりには古墳が多く残されており「十王台古墳群」と呼ばれています。

愛宕神社の裏側にはいくつかの祠があります。

愛宕神社の正面から拝殿。結構立派ですね。

神社は少し高台に置かれていますので、下の道からは階段を上ります。

この愛宕神社のわきを通る道が古代の官道が通っていた証拠に、この脇から長さ約280m、幅(両脇の側溝中心幅で)6.73mの古代官道跡が発掘されています。
この古代官道跡の調査時にいくつかの建物群の跡が発見され、これが長者山官衙遺跡として海道跡とともに、国の史跡に登録されました。
ここの藻島駅家の役割ですが、8世紀後半~9世紀前半は「蝦夷征討」が本格化した時期と重なり、この時に物資などを運ぶのに利用されたものと考えられます。
一方長者山官衙遺跡は、8世紀半ばから9世紀半ばの12棟の掘立柱建物がコの字型に配置され、9世紀半ば以降の倉庫とみられる8棟の礎石が見つかっています。
郡衙以外にこのような租税として徴収した米を一時保管したと考えられる建物があったと考えられ、ここが高萩の郡衙以外に郡衙の役割も持っていたと考えられることは非常に興味深いといえます。
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