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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(5)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は5回目です。


<5> 土浦~中貫~稲吉~石岡(約15km) 

(現代語訳)
土浦の町は街道の一筋道ではなく、あっちへ曲がり、こっちへ曲がりなどして、家の数もかなりありそうに見える。
丁度正午となり昼食を取りたい家を探しながら歩いたが、丁度良いと思われる店がなく、そのまま歩いて四五丁(4~500m)も行き過ぎてしまった。

この先もおぼつかなそうであったので、ある宿屋らしき処へ入り、昼の食事を食べさせてくれるかどうか聞くが、すぐには準備できないという。しょうがないので、そこを出て先に進むと町はずれに出てしまった。
仕方がなく近くの小さな汚げな旅籠に入って昼飯を食わせてくれるか聞くと、とても簡単に引き受けてくれた。
足が汚れているので腰かけて食うと言うと、床に上がれという。ではと足の汚れをすすいで畳の上にすわった。
しかし、なお寒くて心よくない。

飯を待つ間に例の(部屋の内部まわりの)観察を始めると、内部は客間も一間(ま)か二間(ま)くらいしかなく、しかもむさくるしく、家族は三人いて、夫婦に娘一人と見える。
家婦の愛嬌は良くて客を丁寧にもてなす処から、娘の皃(かお)も垢抜けして一通りでない処を思へば、この家は「曖昧屋」ということが分った。

飯はうまくない上に、かの雄弁な妻君が人をあしらひながらのお給事役であるので、何だか不気味で飯も腹にたまらず早速そこを飛び出さうとしたところ、疲れた足を一度休めたためか疲れが出て一寸には引っ込まず、不体裁ながら針の山を踏むような足つきでそろりそろりとやっと門をにじり出た。

ああ天は人を苦しめないものだ。丁度その向かい側に車屋があった。
そこへ行って車(人力車)を頼むと、車夫は傲然(ごうぜん)として中々動かず、また途方もない程の高直(かうぢき)なことを言い散らすゆえ、それではここまでと、生きるとも死ぬとも、そこは運しだいであり、足の先がすりきれるまで、こぶらが木に化石するまで歩かずにはおかんと動かない足を引っ立て、また歩き出した。

 余等が失望したことは、この話の他にもう一つあった。
それは、地図を見て調べていたので、この土浦は霞ケ浦に臨んでいることを知っており、土浦へ行けばきっと霞ヶ浦は一目の中にあって、飯を食うのもその見晴らしの良い家を選んで食べようなどと空想して来てみれば霞が浦はどこにも見えず、ハテ困ったと思っているうちに土浦を出てしまい、そこから一町ばかり行くと左側に絶壁になった処があり、石の階段があった。
もしかしたら、ここを登れば霞ヶ浦が見えるかもしれないと石の階段を数十段上れば、そこは数百坪もある広い平地であり、所々茶屋とでもいうような家があり、そこに「總宜園」という額が掛かっていた。

思うに土浦の公園であろう。
この断崖に立って南の方を見ると、果して広い湖が見えた。
向う岸などは雨のため見えなかったが、すぐに霞ヶ浦だと分かった。

    霞みながら春雨ふるや湖の上

こゝを下りてまた芋を求め北に向って進むと、筑波へ行く道は左へ曲れと石の(標識が)立ちたるを見過して、筑波へは行かずにくたびれてはいたが中貫、稲吉を経て感心にも石岡までたどり着き、萬屋に宿を定む。


(注釈)

● 土浦は江戸時代は土浦藩(土屋氏)9万5千石の城下町であり、亀城公園を中心に街道もくねくね曲がっている。街並みもどこからどこまでが土浦宿の街並みかはよくわからない。
ただ土浦市では旧水戸街道の案内には力を入れていて、説明版なども整備されています。

「土浦宿には、大町・田宿町・中城町からなる中城分の町と、本町・中町・田町・横町からなる東﨑分の町があり、それぞれに名主が置かれていました。大名などが宿泊する本陣は、本町の大塚家(現土浦商工会議所)と、大田家(1742年まで)・山口家(まちかど蔵大徳の道奥1744年以降)が務め、この二つの本陣を中心に旅館、問屋、商人宿、船宿、茶屋、商家などが軒を連ねていました。」(フィールド博物館・土浦)

またまちかど蔵・大徳の前には
「中城通りぞいに天明五(1785)年創業された呉服の老舗。蔵は天保十三(1842)年建築の元蔵をはじめ、江戸時代末期に建築された見世蔵や袖蔵、向蔵などの四棟があります。」との看板があります。

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水戸紀行に書かれている最初に入ったがすぐに用意が出来ないと不愛想にいわれた宿はまだ街中のようだが、街並みがいったん途切れて少し行くと「真鍋宿」がある。ここは正規の宿場ではないが土浦の中心から1kmほどしか離れておらず、恐らく子規が食事をし、曖昧屋と知ったという宿はこの真鍋の宿場ではないかと思われます。

「曖昧屋(あいまいや)」は表向きは料理屋・茶屋などをしていますが、こっそりと売春などをしていた店のことです。現在上の地図の上側真壁町の辺りですが、6号国道を北側から東京方面へ来ると、左手に土浦一校の建屋があり、その先を左に降る脇道があります。この脇道周りに昔の街並みを感じられる建物が残されています。

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この坂を下りた左手に「善応寺」というお寺がありますが、ここに幕末の土浦藩の英才大久保要と石岡生まれの「佐久良東雄(さくらあずまお)」の墓が並んで置かれています。このあたりにも人力車の車屋があったのでしょうか。まあ子規たちも学生であり、あまり格好は良くなかったので金もあまり持っていないとみられたのでしょうね。
土浦もここ頃は鉄道も通っていませんが霞ケ浦を経由した船の便は結構頻繁に出ており、東京へも簡単に出れたようです。徒歩でやってくる弥次喜多道中などをする人はめったにいなかったのでしょう。

● さて、子規たちが高台に登って広い公園から霞ケ浦を眺めたとありますが、昔、土浦一高近くに「真鍋公園(総宜園)」という高台の公園がありました。ここで「見えた見えた。」ととても喜んで歌を残しました。

 霞みながら 春雨ふるや 湖の上

少し雨が降るあいにくの天気でした。
子規がながめた霞ケ浦と土浦の街はこんな感じだったのでしょう。
絵葉書が残されていました。

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[よろずや商会絵葉書ギャラリー]より(明治40年頃の真鍋公園)

実は、この真鍋公園は6号国道ができる時に削られてなくなってしまいました。
この場所が良くわからなかったのですが、公園の半分の場所が残っていました。
「愛宕神社」がある場所です。6号国道(現125号)側から神社へ登る階段がついています。

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しかし、この階段は途中で崩れて登れません。
柳生四郎氏が水戸紀行の道筋を昭和24年頃自ら訪ねて歩き、解説本を出版しています。この昭和24年頃にはまだ公園はあったようです。
しかし、「この公園地も、六号国道ができるときけずり取られて、現在は石段も崩れたままで、容易には上れないままに、町の一角に忘れ去られたようになっている」と書かれています。
 
さて、この公園は愛宕神社の隣にあったそうで、今の神社は国道側からはいけませんが、隣にある「真延寺」(無宗派)側から裏を回って行くことができます。

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(真延寺の入口階段: 国道側から)

神社には祠と子規の碑の木の看板が置かれていました。

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(愛宕神社)

しかし、ここからは木々が邪魔して霞ケ浦を見渡すことができません。

隣りの真延寺の境内から霞ケ浦を見渡せることから、平成21年に、ここに子規の碑を建立しました。
真延寺は七福神を祀る無宗派の寺です。

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● さて、この土浦から石岡(府中)までの道のりは14kmほどですが、街道の記述はあまり書かれていません。しかし、旧水戸街道の松並木や宿場跡らしき雰囲気は今も所々に見て取れます。もし子規の歩いた道を辿ってみたい方がいましたら参考にして下さい。

1) 板谷の松並木
江戸日本橋から水戸までの旧水戸街道に唯一残っている松並木が土浦市の板谷にあります。
土浦・真鍋宿からその先の中貫宿までの中間くらいになります。
旧日立電線の工場(今はなし)入口付近から松並木は始まります。

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この松並木の途中に「板谷の一里塚」あります。
通りの両側に塚が残されています。

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この一里(約4km)毎に置かれた一里塚ですが、この先は「千代田.石岡インター」出口にあり、その次が「石岡の一里塚」です。

2) 千代田の一里塚
 旧水戸街道の一里塚は石岡市並木の一里塚の一つ手前が千代田の一里塚であり、この一里塚は6号国道と常磐高速道路の「千代田石岡インター」の交差する場所に残されています。
ただ車だと近くに駐車スペースがありませんので、どこか近くで止めて見に行くなどする必要があります。

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高速道路下り出口から6号国道に出て、この高速道路の下をくぐったところにあります。
道路をくぐってすぐ左に登ります。
塚には石段を上ります。その上に山道のような道路が細く続きます。

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上まで上って初めてこの石碑が見えます。

3) 中貫宿
 昔の街道をいくつか調べたり探してみたりしていますが、江戸時代のメイン街道は紹介される方も多く、ある程度知られていますので、敢えて取り上げるのは避けてきました。
しかし、近くは少し紹介しておきたいとも思い、出かけてきました。
まずは常陸府中宿の2つ江戸寄りの「中貫(なかぬき)宿」です。
宿場の大名などが宿泊した宿(普通の旅籠ではなく、特別の家があてられた)を「本陣」といいますが、現在旧水戸街道で本陣が残っているところは「取手」「中貫」「稲吉」の3か所しかない。

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現在の6号国道の中貫交差点から、一つ山側に平行に走る裏街道が旧水戸街道です。
古い町並みが少し残っていますが、手前の土浦・真鍋宿からの距離も近く、宿泊はしなかったようです。

この中貫本陣の本橋さんが今もここで暮らしています。
天狗党に焼かれてしまい、その後の再建だといいます。

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依然私が伺った時は、東日本大震災の地震のすぐ後であったため、屋根瓦が一部壊れていました。


中貫宿の入口、出口あたりにそれぞれ下記のような標識が置かれている。

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この場所は土浦市のはずれであり、かすみがうら市の入口に近い。  
この標識には「フィールド博物館・土浦」となっています。

土浦市の商工観光課の事業の中にありました。
「物語性のある観光モデルコースや散策コースの設定など,来訪者が楽しんで歩ける歴史散策ルートづくりを行います。」
現在QRコードなども追加して、情報がすぐに得られるようにする計画のようです。
 
4) 稲吉宿(旧水戸街道)
石岡の一つ手前の「稲吉宿」。6号国道に並行に昔の道が走っている。
この道を石岡側に来ると「かすみがうら市役所」がある。
思いたって出かけに朝写真を撮ったが、生憎の小雨。少し暗くなってしまった。

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旧水戸街道で本陣が残っているのは数少なくなってしまった。

この稲吉宿には水戸街道で唯一現存する皆川屋という旅籠(木村家住宅)が残されており、天狗党の残した柱の刀傷などが見られるといいます。

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水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/02 13:41
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