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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(7)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は7回目です。

<7> 小幡~長岡~水戸

(現代語訳)
この辺の街道は松繩手(松並木)にあらずして路の両側に桜の木が植えられている。
木の様は皆のびのびとして高さ十間(約18m)余もあり 東京の向島あたりで見なれた横に広がったものとは肥えた越人と痩せた秦人ほどの差があり、惜むらくはまだ蕾(つぼみ)さえふかず、気候の遅きこと想いやるべし。 

長岡に至る頃は、まだ正午の頃であったが、足が疲れてニッチもサッチも行かず、この上、膝栗毛をやつて足がすり切れてはと心配し、前言をくんでまた人力車二挺を雇った。

ここより水戸上市(うわいち)まで二里半である、その間はほぼ大方は林の中を通って行くが、標識を見ると一等官林とあった。
松の木が目がくらむ程にひしひしと並んでおり、一時過ぎに上市の入り口にある常盤(ときわ)神社のもとについた。

この日は晴れたれども風が吹いて寒かったが、人力車に乗っているとなおさら冷ややかに感じた。
仙波沼にそってやって来たが、それもふりすてて坂を上れば上市(うわいち)である。
町幅は広く店も立派であり、(故郷)松山などの比ではない。

こうして両側をながめながら、歩いて(石岡の)萬屋にて名指しくれたる宿屋についた。構えも広く、家も新しいので喜んで、案内について二階への階段上り、案内された室に入ると、そこは客部屋ではなく、三畳程のほの暗い納戸ともいえる程の処であった。
外に部屋はないのかというと「なし」という。

腹だゝしきこと一方ならず されど腹が減っては立ってもいられず 先づ午飯(ひるめし)を持て来よと命ずれば、やうやうにして飯櫃(ひつ)と膳が運ばれて来た。

これを食べて、さすがは水戸だけあって美味いけれども行燈(あんどん)部屋で食うのでは八珍の膳も気持ちがよくない。 
食い終ってから下女に

野暮「これから少し歩いてくるから夕方帰るまでにはきつと座敷を替えておけと命じてここを出て、四五町(約500m)行って菊池仙湖の家についた。

案内をこうと、(歳の頃)五十ばかりの翁が出で来た。
容貌が似ているので仙湖(菊池謙次郎)の親であろうと察し仙湖の在否を問うと、今、この下を通った汽車で出京してしまったと言う。
あなたはどちらからと問はれ、東京よりきました ここ六年ほど御交際している何がしであり、同伴のものは同郷の友の誰なりと引き合せれば

翁「それはようこそおいでになりました 謙次郎が居たら喜ぶ事で御座いましように………誠に殘念で………モー少し早いと間にあいますのでございましたに………どうも殘念でござ………マアそこでは何です こちらへお上り………サアむさくろしい内ですがサアどうぞ」
と促(うなが)されるのについて家に上がった

いかにもかたぎの翁と見えこれが水戸の士の風なるべしとむかしゆかしく思はれた。
座敷へ通ると、あまり広い間ではないがこッちりとして床には本箱が三ッ四ッ重ねてあり、そのふたに経書軍書などが書かれていた。

また柱には(藤田)東湖の書を彫りたる竹の柱隱(かく)しがあり、一方は庭につづいていて、庭のつくる処はきりぎし(絶壁)をなし、その下に仙波沼(千波湖)が低くきらきらとかがやいていた。

座について後、翁はあらためて初対面の挨拶をした。

余は語をつぎて
「実は少し前にこつちへ着いたのですが、宿屋へいて昼飯をくつてからここへ来たもんですから………誠に殘念しました 実はおととい千住で端書(ハガキ)を出しておいたのですが届きませんでしたか」

翁「オヤさうですか 一向届きません樣に心得ます 一昨日おだしになつたのならば遅くも今日は早くくる筈ですが ヘヽーどういふ間違ひでしたろふか………エー御飯は如何ですか まだおすみになりませねば御遠慮には及びませんから」

野「イエ モー宿屋でくつてきまして、それが爲に後れた位ですから」

翁「おすみになりましたか それでは………一昨日でしたか矢張り高等中学の石井さんがおいでになりまして私方へお泊りになりましたが昨日の朝寒水石の出る山を見に行くとおつしやつて………これは少し北の方にありまするがそれへおいでになりました」

野「アヽさうですか」

と話の中に母親も出て来られて挨拶あり

翁「それでは何ですか お宿をお取りなすつて………ハア、なんにも御遠慮はございません 私の内へおとまりなすつて イエ決して御遠慮には、きたない内ですが………謙次郎はいなくても ナニさうなさい お宿は少し外に知り合いの者があつて宿をきめたからといつて断ればようございます 書生さんのうちは矢張………会計の方が………マア成るたけ金のいらぬ樣に………何ですから」

この質朴淳良(しつぼくじゅんりょう)の風、思いやられてなつかし 明庵ならば「卿等(けいら)窮措大(きゅうそだい)、思フニ多額ノ長物ヲ有セザルベシ」などゝ書くべき処なり 四方山(よもやま)の話のついでに水戸勝景の地理などを聞き慇懃(いんぎん)に礼をのべてこの家を立ち出た。


(注釈)

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(小幡~水戸)

1) 小幡の桜並木
小幡宿を過ぎたあたりで、街道沿いに杉並木ではなく背の高い立派な桜の並木があったと書かれています。
それは「千貫桜(せんがんざくら)」と呼ばれた桜並木だと思われます。
江戸時代初期に徳川光圀(黄門)がこの近くにあった山桜が見事で「千貫」の価値があると言われてその名前がついたと言われますが、その山桜も木が衰え、それを嘆いて、今度は徳川斉昭が山桜を街道沿いに植えたとされ、子規が通ったときはこの斉昭の植樹した桜の木の並木のことだと思われます。

現在6号国道沿いの小幡信号を少し水戸方面に進んだ右側に茨城東高校があり、その反対側の道路の左側に「千貫桜の記念碑」があります。そこをスタート地点として曲がった道沿いに桜並木が残されています。

この桜並木もかつてはかなり立派な並木が続いていたようですが、今では数も減り、段々と樹勢も衰えてきていて、歯抜け状態と云えるでしょうか。

今、6号国道沿いはこの手前の片倉宿の手前「大曲」地区に1kmほどに亘って片側だけですが、みごとなソメイヨシノの桜並木が続いています。
今が盛りの見事な桜の景色が見られます。ここは旧水戸街道沿いで、以前松並木だったそうですが、これが枯れ、昭和53年(1978)に桜の木を植えたのだそうです。
今はこの並木が途絶えた場所辺りから左に少し斜めに入った先に堅倉(片倉)宿があります。

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(千貫桜の碑)

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(千貫桜並木:2024年3月5日撮影)

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(大曲の桜並木:観光茨城ホームページより)

2) 肥えた越人と痩せた秦人
小幡の桜と東京向島の桜の形状をこの中国の故事に例えて表現しています。これは中国の「韓愈-諍臣論」の中にあります。
「越(えつ)人の秦(しん)人の肥瘠(ヒセキ)を視るが如し」とあり、正確には「視政之得失、若越人視秦人之肥瘠、勿焉不加喜戚於其心」
(政の得失を視ること、越人の秦人の肥瘠(ひせき)を視るが若く、勿焉(ぶつえん)として喜戚(きせき)をその心に加えず)
... 東の越の人は、遠く離れている西の秦の人の肥瘠を見ても何とも思わないことから自分に関係のないものは何とも思わない喩えだといいます。
子規もこの水戸紀行の中にいくつかこのような知識を入れ込んでいますが、読む人の知識を試しているように感じるのは子規がまだ若かりし日に詩作活動の一つの挑戦なのかもしれません。

3) 長岡宿から常盤神社へ
子規たちは長岡宿(水戸の一つ手前の宿場)から水戸の上市へ向かうために水戸街道から現在の県道50号線を千波湖(仙波沼)方面に常盤神社下入口まで2里半(約10km)を人力車に乗りました。千住から10kmほど前に乗っていますので、この旅の途中で2度人力車に乗ったことになります(合計で約20km)。
(注釈の最初に載せた地図の赤い破線のルート)
この道は新しい茨城県庁の西側を通る街道で、道路の両サイドにはほとんど街路樹はありません。しかし、子規が通ったときはこの間はほとんど林の中の道を行くようであって、標識を見ると一等官林と書かれていたとあります。
これはこの現在の茨城県庁の建物がある笠原町の敷地には「関東林木育種場」などの国の林業関係の施設があったそうです。県庁移転に伴い随分周りが開けて来て大分イメージが変わってきてしまったようです。

4) 水戸の上市(うわいち)と下市(しもいち)
水戸が市制となったのは明治22年4月1日だそうです。これは子規が訪れる数日前ですね。元々水戸は徳川の城下町でした。旧県庁があった二の丸~三の丸の水戸城(台地)の西側、千波湖の北側の台地側は城関係の上級藩士などの住むところで上市(うわいち)と呼ばれていました。これに対し東側に後から下級武士や町人たちの住む下市(しもいち)を造りました。こちらは上市よりも一段低い場所です。
また千波湖は今よりもっと東に長く伸びた広い沼でした。昭和の中頃までは水戸駅の近くまで沼や田圃などが広がっていたそうです。また上市と下市との行き来も仙波沼があり簡単に行けなかったようです。石岡で聞いてきた水戸の宿はこの上市の常盤神社から上がった現在の泉町辺りにあったようです。

5) 一等官林
子規たちは長岡宿から旧水戸街道と別れて、水戸の上市方面に(北上して)進みますが、長岡から常盤神社下まで人力車に乗りました。2里半(約10km)木々の茂った林のような道を北上していますが、これは現在県道50号線と重なっており、千波湖の手前で県道は少し左にカーブして千波山信号などを通りますが、恐らく昔はそのまま「少年の森」公園沿いに千波湖畔の光圀像辺りを通って常盤神社下まで進んだと思われます。

千波湖
千波湖畔も白鳥ボートなどで遊ぶこともでき、写真のように白鳥、黒鳥や鴨たちがたくさんいます。のんびりと鳥とふれあうのもいいですね。


6) 大雑把なルート予想図

菊池宅
上記の赤の点線経路は、子規たちの通った道を大雑把に地図で予想したものです。
(ただし細かな道は不明であり当時に地図などを検討する必要があるが、未検討)

長岡⇒常盤神社下 :人力車(約10km)
常盤神社下 ⇒ 常盤神社 ⇒ 西の谷 ⇒ 泉町一丁目(旅館)⇒(約500m) 菊池謙二郎実家

7) 謙二郎の実家
菊池謙二郎(子規は謙次郎と表記)実家:学友の菊池謙二郎の実家は現在の水戸市梅香一丁目にありました。現在ここにはマンション「Gコート梅香」が建っています。ここで対応した謙二郎の父は慎七郎といい、旧水戸藩の藩士で、石岡(府中)藩の付家老職を務めた人です。謙二郎はその次男。
後に旧制水戸中学(現水戸一校)の校長を務め、教育者として有名で学生にも人気があったそうです。しかし大正10年(1921)に起きた「舌禍(ぜっか)事件」は守屋知事による自由を抑圧された学生たちが同盟休校(ストライキ)を起し、それに理解を示した校長謙二郎が責任を取り学校をやめることになった事件。その後謙二郎は1924年に衆議院議員となり4年間務めた。藤田東湖などの歴史研究者で知られる。

8) 句碑
菊池宅で部屋のなかなどの様子が水戸紀行の中に記載されていますが、このときのことを思い出して数年後に子規は次の句を残しました。
    梅の花柱かくしは東湖なり

    この家も鴨ものぞくや仙波沼


703.png 梅香2  

この下の句の句碑は菊池宅の跡地であるマンションの玄関前に2005年に建てられました。

9) 寒水石
子規の前に菊池宅に来ていた石井さんが寒水石を探しに北の山へ行ったとあります。
この寒水石は大理石のことで、茨城県久慈郡,多賀郡で産する古生層に挟まれた結晶質石灰岩(大理石)のことだそうです。特に幕末頃からは茨城県産の”白色大理石”を「寒水石」と呼んで重宝されたようです。偕楽園にある吐玉泉の白い石はこの寒水石だそうです。


水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/07 09:53
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