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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(9)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は9回目です。


<9> 水戸散策(2)偕楽園周辺

(現代語訳)
ふりかへり見ながら通り過ぎて行くと、一株の枝垂桜(しだれざくら)があった。
やや唇を開いて今まさに笑おうとしている。

その下に竹垣や柴の戸などがあり、その内側に色々の木々が美しく積み重なっており、大層淸らかなる中に、二階づくりの家が一棟二棟ある。
富貴なる人の別荘と見受けられる構えであるが、何かわからないので、つかつかと進み入りて見れば好文亭であった。

番人の許しを得て、好文亭の部屋に上って、部屋の中を見まわすと、額、襖、掛物などの類は、皆当藩(水戸藩)の諸名家の筆(ふで)であった。

二階に上って外を見ると、仙波沼が脚下に横たわり、向い岸は岡が打ち続いて樹などが茂っている。
すぐ目の下を見れば崖には梅の樹が斜めにわだかまりて、花はまだ散りつくしてはおらず、この崖と沼の間に細い道が続いているのは汽車の通る処である。

この楼の景色は山あり水あり奥如(おくじょ:奥まった様)と曠如(こうじょ:広々している様)を兼ねて天然の絶景と人造の庭園が打つづき、常盤木(常緑広葉樹)、花さく木が混じり合って何一つ欠けたるものがない。

余はいまだこのような婉麗幽遠(えんれいゆうえん:しとやかで美しく、奥深くてはるかなこと)なる公園を見たることがない。景勝は常に噂よりは悪いものであるが、ここばかりは想像していたものよりはるかに良いものだ。
好文亭と名づけしは梅を多く植えたためであろう。
眺めは飽きないが、楼を下りて後の方に行けば見渡す限り皆梅の樹が果てしもなく続いており、見えない花もまだ大方は散りはじめていない程である。

奥へは行ってみれば仙境もあるであろうと思われたが、寒く、日が傾むいてきたので、梅と袂を別ちて、我宿へもどった頃はもう燈をつける時間であった。
大方善い部屋が空いているのではないかと、階子段を上ってみるが矢張り元の狭苦しい部屋であった。

腹立つことおびただしく、下女をさんざんに叱り亭主を呼んで来るように言うと、下女は慌てて下に行ったが、待てども待てども亭主も来ず、番頭も出てこない。手を打つ音、はげしく、パチパチパチパチパチ、下にて「ハーイ」といつたことはたしかにいつたが浜の松風にて姿を見せず ますますいらついて(手を)拍(う)つとやっと下女が来た

 野「貴樣じやァ分らない、早く亭主を呼んでこい 早く早く」

といそがせると、下女は又トントントンと楷子(はしご)を下りたが人音なし 腹が立つて腹が立つて裂けさうなるをかかえてようやく癇癪玉の破裂を防いでいた頃に、障子をあけてやってきたのは五十許りの老嫗(ろうう:老女)なり 

 嫗「何御用ですか」
といへば今迄こらえこらえし癇癪が一度にこみあげて面には朱をそそぎ口に泡を吹きて

 野「オイ 人を何だと思つている、ナゼこんなに人を馬鹿にするのだ、馬鹿にするのも程があるじやァないか、この部屋は何だ 人間のはいれる部屋じやあるまい、行燈部屋へ人を納れるといふのは………石岡で萬屋で折角いつてくれたからわざわざここを尋ねて來たのだ、宿屋はこゝばかりじやァあるまいし、さつき出る時にもあれほどいつておいたに………失敬千萬じやァないか、納戸へ押しこまれてたまるものか、なんだと 外に部屋がないと、なにいやがるのだい、ないならないで始めからなぜ断らぬのだ、なんだと 左樣なら外(ほか)の宿へいつてくれと、人を馬鹿にしやァがるな、いけといわなくつてもこつちでいかァ、だれがこんな処でぐづぐづしているものか、昼飯の勘定もつてこい、早く早く」

と繰り返しまき返ししやべる言葉もあとやさき 老下女は驚きもせず返事しながら下り行きしが暫くして来り

嫗「お宿は私方から御案内致しますからどうぞお出なすつて………御飯代はもう宜しうございます」

野「なにを言やがるんだい、飯代はいくらだといふに、なぜ貴樣はそんなに人を馬鹿にする、飯代を払わずに………どう どうすると思つているのだ………早く勘定してこい」

終に勘定をすまして二階を下り何か亭主のわび言をいうのを耳にもかけず草履(ぞうり)をひつかけ、草臥(くたびれ)たのも忘れて、いとあらあらしく門を出づれば、小僧が提灯(ちょうちん)をつけて待っていたがまだ腹は癒えないが、これ(提灯)について歩み行きたり 道々思ふのだが、水戸街道は鉄道が通じ始めてよりたちまち寂しくなり石岡などにてはそれが為に我々でもよくもてなしくれたる者であろう。
されど水戸は鉄道のために益々繁昌し、殊に県庁さえあれば、我々がうさんくさい風をしては侮(あなど)るのももっともである
彼の旅店はあがり口に靴が沢山あったのを見れば県官などの止宿しているものとの卜筮(ぼくぜい:うらない)は中(あた)らずといえども遠からざるべし
かかる処にては書生などを取りあわないのは普通のことであろう
されど我々の考えでは書生は天下第一等のお客なり 錢はなくとも丁寧に取り扱ふべきものなりやと考えているために、立腹もしたるなり、こんどは少し善き処であろうと思いながら歩む内に、小僧はとある門にはいり、何か亭主にささやいて出できて、余らを引き入れた。
そこは余り美しくはない宿屋であったが、案内につれて上りて見れば、矢張り下等なる店であった。けれど小僧の通知にて、下女などの応接等からその他のもてなしに至るまで、別仕立の丁寧なる言葉であった。
部屋がきたないので立つた腹はまだ横にならないが、我慢して笑顔をつくり「腹へつたのでまず早く飯を持って来てくれと命じた。
それを待つ間に湯に入り足をのばし、隣近所の客を見ると皆書生であった。
扨(さて)は下宿屋であったとは、これは謀(はか)られたり 殘念なり あくまで憎きは、かの宿屋の亭主なりと齒ぎしりするが、どうすることもできない。

ここを出ようと思うが、怖味(こわみ)をおびて手にすえる樣にあしらう故、気の毒でそうも出来ず、もはやこの上はここにて堪忍しようと多駄八にも相談し、飯を食ったが、飯は下宿屋ものであるから、旨いはずもなく、飯が終ればすぐに表へ出で、二三町行ったところに一軒の大きそうな蕎麦屋があった。これは屈竟(くっきょう:ちょうど都合がよい)の処なり さあ一攻めしてやろうと中に入れば、余りきれいではないが間(部屋)はいくつもあって、別々にしきられている。ここで天ぷらと何とかと二杯を喫し、腹をいやして宿に帰り寝るたり。

自分は心から腹立たしいけれど、これを読む人や聞く人はおかしいに違いない。
こうもあろうか

 おこつてはふくれるふぐの腹の皮よりて聞き人は笑ふなるらん

(注釈)
子規たちは健脚にも旧水戸城址から今の水戸駅近くまで下って、最初に訪れた常盤神社の側から偕楽園へ行った。おそらくすでに夕方近くなっていたであろう。

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● 偕楽園:
偕楽園の良さは子規も書いていますが梅ばかりではありませんね。枝垂桜の下に、竹垣や柴の戸などがあり・・・と書かれています。
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シーズンの夜には、キャンドルで道を照らすイベントも行われています。
竹林や熊笹などの佇まいは独特の侘びの世界観を表しています。

<好文亭>

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名前の由来:「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」という晋の武帝の故事が由来で、子規もこの名前の由来を「梅」からすぐに推察して書いています。
金閣寺のような派手な建物を嫌った水戸藩主烈公(9代藩主徳川斉昭:慶喜の父)が建てたこの公園の中の建て物は質素を旨とした考えがにじんでいます。

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さて、子規はこの偕楽園では句を残していません。しかし、梅の木が崖に植えられ、天に向かって真っすぐに伸びているさまを書いています。
そして、後に句を詠んでいます。
現在その句碑が偕楽園の庭に立てられています。

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 ○ 崖(がけ)急に 梅ことごとく 斜めなり

この崖は好文亭のすぐ南の下側にあります。

偕楽園を子規はとても気に入ったようで、「天下に名園は幾つもあるが、行って聞いているより良いと思ったところはほとんどない。されどこの庭園は名は知れていないがとても素晴らしいところだ」と絶賛でした。
現在の偕楽園は、作られた当時よりも敷地は大分せまくなっているようですが、「偕楽園」の名前には、領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと願った斉昭の想いが込められていますので子規もその思いを感じたことでしょう。

さて、偕楽園から宿に戻って、部屋が用意されていると思っていた子規たちに、宿は全く相手にもせず、子規たちは怒り心頭して、散々にわめき散らしています。藤代、石岡では宿の名前は書かれていますが、水戸での宿の名前はどこにも書かれていません。悪口を言っているために書くのをやめたと思われます。
ではなぜこのようなことが起こったのでしょうか。
これについては子規も指摘している通り、当時常磐線はまだ開通していませんでしたが、水戸はすでに(明治20年)小山経由で東京方面からも鉄道が開通していました。
このため、子規たち書生はまったく宿から見れば相手にもしないといった風が見られたのでしょう。石岡の萬屋はまだこのときに、この水戸の宿は前から知っていたようですが、その当時からは変わってしまっていたことを知らなかったのだと思います。
これは、石岡での萬屋(旅籠)の当時の広告からも読み解くことが出来ます。
石岡では当時鉄道はまだ建設されていません(開通は明治28年~29年)でしたが、霞ケ浦や利根川を経由した蒸気船(通運丸:明治10年開設)は運行され、東京方面との足としてかなり頻繁に運行されていました。(焼き玉エンジン:ポンポン蒸気)
石岡の宿の所でも書きましたが、
明治34年に書かれた石岡繁昌記(平野松太郎著)から、当時の石岡の宿屋の宣伝文を見て見ましょう。当時同じように駅が開設した後に駅前にも支店を出した2つの宿屋の比較です。
まず1つ目は子規が泊まった萬屋です。

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旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」
もう一つは「香取屋」旅館です。

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ここには「陸海軍御官衛御用旅館」「商店銀行員御宿館」「糸繭商定宿」などと記されています。鉄道開通後は駅前に2つの支店を出し、一つには草津温泉のお湯で風呂を提供し、駅の待ち時間にひと風呂・・・などとうたっています。

このように子規が泊まった萬屋は子規のような一般の旅行者(徒歩旅も含む)なども丁寧に扱われた宿だったのでしょうが、水戸の上市の宿は県庁所在地でもありすっかり昔風の旅人などは丁寧な扱いがされなかったのもうなづけます。
これも時代が大きく変わっていた当時の時代の流れだったようです。


水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/09 08:03
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