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芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (3)

仏頂和尚について

今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。
仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。
芭蕉より2歳年上です。

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(仏頂和尚像:根本寺蔵)                (大儀寺の仏頂和尚石像)

白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり)の里」の遺称地とされています。
現在の北浦に架かる鹿行大橋を行方側から鹿島へ渡った先(東側)になります。
生まれた場所は札村の「明蔵寺」(後の普門寺)の近くだったようで、現在白鳥観音堂があり、その奥が「普門寺」となっています。

仏頂和尚が仏門に入るきっかけとなったというエピソードが残されていました。

「近所の明蔵寺の柿の木に登って果実を採っていると、その寺の老僧が来て見つけた。これが父に知れると叱られるがなどと当惑していると、老僧は「今年は数が少なくなった、来年また早く来て採れよ」と慈愛に満ちた言葉をかけて頭を撫でてくれた。幼い彼はこれに深く感動して、仏道に入る決心をしたという。」(高木蒼梧箸『俳諧人名辞典』より)

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(太陽郵便局横の細い道を上に上ったところにある「白鳥観音堂」)

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(観音堂の裏手から振り返った写真:左手が普門寺と思われる建物:その前は広場と畑?)

以前訪れた時の記事 ⇒ こちら

仏頂和尚(河南)は8歳で(鹿島)根本寺の冷山和尚のもとに入り禅の世界に入り、修行を続け、14歳の時に全国修行の旅に出ました。
その後各地を旅し、33歳で根本寺の住職(21世)を冷山和尚から引き継ぎます(1674年)。
その後根本寺の寺領50石を鹿島神宮との間で争いがあり、仏頂和尚は江戸深川の「臨川(りんせん)院」に行き(1975年?)、寺社奉行に訴えました。この裁判に勝利したのは天和2年(1682)です。その後は鹿島の方に戻り、根本寺の住職を弟子に譲り、根本寺敷地内にある「長興庵」という隠居所に移ったとされています。

仏頂和尚と芭蕉との交流は1680年~1682年は頻繁に往来していたようです。
仏頂和尚が鹿島に戻った後も、臨川院の寺籍の訴えなどもあり、度々深川に来ていたのかもしれません。

記録では北浦の少し上流の阿玉という地区にある「大儀(おおぎ)寺」での縁起では、
「慶長年間(1596~1615)華蔵曇下(けぞうどんげ)和尚が草庵を開き,その後,元和2年(1616)阿玉村の領主,荒野右京進が梅易陽禅師を迎えて法花山大儀庵にし、その後六代を経て廃庵となった。
一方、近くの札村出身の仏頂阿南禅師が、延宝8年(1680)に鹿島の根本寺を辞して、貞享元年(1684)に荒廃していたこの大儀庵に入り,復興に努力し,寺名も宝光山大儀寺と改めた」とあります。

このため、鹿島紀行(1687年8月)で仏頂和尚と会った場所には2案あります。
一つは根本寺の隠居所「長興庵」、もう一つがこの「大儀(おおぎ)寺」です。
現在の雰囲気としては「大儀寺」の方がイメージは近いのですが、舟で鹿島近くの大船津に着けば根本寺は比較的近いので、この「長興庵」説が有力と云われているようですが、大儀寺は結構北にありますが当時の舟運を考えると、舟なら比較的近く、大船津からも北浦の「札」あたりには簡単に行くことが出来たと思われます。
私としては両方訪ねてみたけれど大儀寺の方に一票と云ったところでしょうか?


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(鹿島 根本寺)

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(根本寺の芭蕉句碑)
「月はやし梢は雨を持ながら」 この歌碑が本堂の入口の右手に置かれている。

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(宝光山大儀寺)

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(大儀寺の芭蕉句碑)

「寺に寝て まこと顔なる月見哉」 芭蕉(桃青)


根本寺:
 ・根本寺(鹿嶋)-芭蕉句碑 ⇒(こちら
 ・常陸国における源平合戦(20) 鹿島氏終焉の地(記事の後ろの方) ⇒(こちら
 (鹿島根本寺は鹿島氏歴代の墓所でもあり、「鹿島前惣大行事」の碑が置かれています)

大儀寺:
 ・大儀寺ー芭蕉月見の寺 ⇒(こちら
 ・大儀寺(2)-仏頂禅師 ⇒(こちら
 ・大儀寺(3)-句碑 ⇒(こちら

仏頂和尚は、芭蕉たちの月見の後に、黒羽の雲厳(岩)寺に行き、裏山で草庵を結び修行しました。
月見の2年後の1689年に芭蕉たちは「奥の細道」に旅立ちますが、芭蕉はこの仏頂和尚(禅師)が修行した草庵を訪ねています。
ただ雲厳寺に当時仏頂和尚は居なかったようです。
また草庵も以前修行していた場所となっているので、全国行脚したときに修行していたのかもしれません。
仏頂和尚はこの雲厳寺で正徳5年(1715)12月28日、73歳で没しました。

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(栃木県大田原市に雲厳寺(雲岩寺))

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(雲厳寺境内にある仏頂和尚と芭蕉の句碑)

竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば (仏頂和尚)

木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立 (芭蕉)

雲厳寺:
 ・雲厳寺(1) ⇒ (こちら
 ・雲厳寺(2) ⇒ (こちら


鹿島舟ルート

芭蕉の 布佐 ~ 鹿島 のルートを推察してみよう。
布佐から夜船で利根川を下り、佐原から 横利根川 を通って牛堀に出て、常陸利根川を 潮来へ
潮来から 前川を通って 大船津へ

  1) 大船津で下りて 根本寺へ
  2) 大船津から北浦を経由して札村へ徒歩で大儀寺へ

帰りは 鹿島神宮~大船津(舟)~前川~潮来の本間家自準亭(泊)(数日) ~元に戻って利根川経由関宿経由荒川~江戸へ

大雑把にこのように推論。

この鹿島紀行(鹿島詣)は、潮来の自準亭で書いたと推察されます。
書かれたのは「8/25日」であるので10日余りも本間家に滞在したのか??

          (続く)

鹿島紀行を巡る最初から読むには ⇒ こちらから




鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/02 13:38
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