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歴史に埋もれた悲劇(香勢堂)

 お盆明けの16日に代田のダイダラボッチを見に行った帰り道に偶然探していた場所を発見しました。私が歴史の里石岡ロマン紀行の中で「三村城秘話」で紹介して、その時に見つけられなかった「香勢堂」と六地蔵です。いつも近くは通っていたのにあまり立派な墓地となっていたので気がつかなかったようです。そこは高浜駅から石岡へ向かう上の道ではなく崖に沿った下の道です。昭和36年発行の「図説 石岡市史」に記載されていたので北根本を探したのにわからなかったものです。三村城は1573年に落城し、城主常春も落ち延びようとして城の近くで落馬し切腹し果てました。「南城実録・三村記」によれば三村城の危急を聞きつけ、府中城より軍勢300余が駆けつけたが、近くの中津川台に到着して三村城を望めばすでに城は真赤な炎をあげて燃えていました。義を重んじる軍兵206人はその場で切腹して果てたといいます。後にここに一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれて今に残ると記されています。その後、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に建てられた六地蔵が残るとなっています。高野勢堂は香勢堂とも書かれているが本来は「国府(こう)勢堂」であろうと紹介されていました。
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六地蔵(昔は一部倒れたりしていたのを地元の組合できれいにしたとのこと。
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上記の文献では206名となっていましたが、地蔵に人数が刻まれており、197名とのことです。
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昔は個人所有の墓地であったが、現在は共同墓地として地元で管理されています。
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この墓には地元の方で代々受け継がれているが、30代以上続いている墓もあり、少なくても500年は経っているようである。この場所は常磐線の恋瀬川にかかる橋の1本石岡よりの新しい橋のすぐ石岡側です。昔はここに橋(1本橋)がかかっていたとのこと。その橋をまっすぐ中津川方向に向かった突き当りあたりです。昔はこの辺で川を渡ったのでしょう。真っ直ぐ対岸の三村城が良く見える場所です。じもとの組合長さんにお話を聞くことができました。昔はこのあたりは何回も洪水で被害を受けたが、いまは堤防ができ被害はなくなったと。またこの墓も代々続いているが、手入れをするのも大変で、東京に出て行った人でもこちらの墓に入れてほしいと何人かがきているとのことです。お一人で暑い中手入れをされていました。脱帽で~す。頑張ってください。

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/20 21:47
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