つくば市北条(10)-北条氏
茨城県は3年間続いた魅力度ランキングの最下位を今年は脱出しました。
でも下から2番目。最下位は群馬県だそうです。
群馬県は温泉もあってとても好きなのですが、共にこんな順位ではダメですね。
もっと頑張っていきましょう。
さて、10回目を迎える「つくば市北条」地区の記事です。
ひとまずこれで北条地区は終わりです。
この地区を調べていくと、石岡と同じように昔から面々と続く歴史が眠っているように感じました。
しかし、ここもどこかに忘れらてしまった歴史があるように感じてしまいました。
その一つが、この地名ともなっている北条氏です。
北条という名前は桜川の北側になるので北条と言われるよううになったと思う。
そこに城を構えたので「北条氏」と言われるようだ。
鎌倉では北条氏が大きな力を持っていた時代であるが、そちらとは直接の関係はないかもしれない。
北条地区を歴史散歩の案内板に従って歩いていくと道がないような北条小学校の脇道を歩かされた。
しかし、こんな感じの道はきっと昔はお城があった場所ではないかと感じた。
しかし、学校のHPにも出てこないし、北条散歩の案内にも何にも書かれていない。

この小学校はこの地区では比較的高台で、こんな場所を中世の人がほっておくわけがないと思い、更に見ていくとここに「北条城」という城があり、北条氏の居城であったという記事を見つけた。
前に述べた多気城はもっと高い場所で、こことは向かい合った場所となっている。
そして、多気大掾が滅びたのは鎌倉幕府が出来た翌年の富士の裾野での曽我兄弟の仇討ち事件のあとだから1193年頃。
その後に、この北条に来たのは宇都宮氏の系列の八田知家(多気大掾はこの八田氏の換言により滅びた)の7男である時家で、この北条小学校がある場所に城を築き、北条氏(北条時家)を名乗ったようだ。
また、八田知家はこのつくばから土浦に勢力を張った「小田氏」の始祖と言われている。
この北条氏はそれから300~400年間この地を領地として居を構えていたはずである。
しかし、これほどの長さなのにあまりその歴史を感じさせるものが少ない。
何故なのだろうか?
やはり多気太郎が今でも慕われているのと関係しているのかもしれない。
さて、この北条氏だが、小田氏とは同じ仲間であるはずだが、南北朝時代などを経て、敵も味方も入り乱れてしまったようだ。
石岡市片野に城を構えた佐竹氏側の太田三楽斎(資正)と手を結んで、小田氏を攻めたりもしている。(三楽斎についてはこちらに記事を書いています)
天正10年(1582)に下妻の多賀谷政経に攻められ北条城は落城したという。
石岡の大掾氏が滅びた8年前である。

北条小学校の前から筑波山を見る。
多気城山はこの左手の家屋の裏手の方に見えますが、写真は撮っていません。
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でも下から2番目。最下位は群馬県だそうです。
群馬県は温泉もあってとても好きなのですが、共にこんな順位ではダメですね。
もっと頑張っていきましょう。
さて、10回目を迎える「つくば市北条」地区の記事です。
ひとまずこれで北条地区は終わりです。
この地区を調べていくと、石岡と同じように昔から面々と続く歴史が眠っているように感じました。
しかし、ここもどこかに忘れらてしまった歴史があるように感じてしまいました。
その一つが、この地名ともなっている北条氏です。
北条という名前は桜川の北側になるので北条と言われるよううになったと思う。
そこに城を構えたので「北条氏」と言われるようだ。
鎌倉では北条氏が大きな力を持っていた時代であるが、そちらとは直接の関係はないかもしれない。
北条地区を歴史散歩の案内板に従って歩いていくと道がないような北条小学校の脇道を歩かされた。
しかし、こんな感じの道はきっと昔はお城があった場所ではないかと感じた。
しかし、学校のHPにも出てこないし、北条散歩の案内にも何にも書かれていない。

この小学校はこの地区では比較的高台で、こんな場所を中世の人がほっておくわけがないと思い、更に見ていくとここに「北条城」という城があり、北条氏の居城であったという記事を見つけた。
前に述べた多気城はもっと高い場所で、こことは向かい合った場所となっている。
そして、多気大掾が滅びたのは鎌倉幕府が出来た翌年の富士の裾野での曽我兄弟の仇討ち事件のあとだから1193年頃。
その後に、この北条に来たのは宇都宮氏の系列の八田知家(多気大掾はこの八田氏の換言により滅びた)の7男である時家で、この北条小学校がある場所に城を築き、北条氏(北条時家)を名乗ったようだ。
また、八田知家はこのつくばから土浦に勢力を張った「小田氏」の始祖と言われている。
この北条氏はそれから300~400年間この地を領地として居を構えていたはずである。
しかし、これほどの長さなのにあまりその歴史を感じさせるものが少ない。
何故なのだろうか?
やはり多気太郎が今でも慕われているのと関係しているのかもしれない。
さて、この北条氏だが、小田氏とは同じ仲間であるはずだが、南北朝時代などを経て、敵も味方も入り乱れてしまったようだ。
石岡市片野に城を構えた佐竹氏側の太田三楽斎(資正)と手を結んで、小田氏を攻めたりもしている。(三楽斎についてはこちらに記事を書いています)
天正10年(1582)に下妻の多賀谷政経に攻められ北条城は落城したという。
石岡の大掾氏が滅びた8年前である。

北条小学校の前から筑波山を見る。
多気城山はこの左手の家屋の裏手の方に見えますが、写真は撮っていません。


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