龍蔵院-虚空蔵尊
茨城県の大洗海岸と大竹海岸の間の鹿島灘は太平洋の波が押し寄せるため、海岸線は比較的幅の狭い砂浜が続いています。
そして、そこに傘を広げたような防砂壁がいくつも設けられています。
この地には今は無き常陸国分寺の二つの鐘がこの付近(子生=こなじ)の浜より運ばれてきたとという伝説が伝わっています。
前に書いた海岸のすぐ近くに地図に「龍蔵院」という寺がかかれています。
ネットで調べてみてもほとんど内容がわかりません。
そこで、この寺を見てみたくなり立ち寄ることにしました。
海岸の崖の上に広がる玉田地区の住宅の台地の一番海岸寄りの脇道を少し入ったところに赤い板壁のお堂が見えました。

お堂の横に、昭和47年にこの龍蔵院本堂を改築した時の記念碑が建てられています。
内容の一部を少し省いたりしていますが下記に記します。
「明和4年に当地に建立され、一説に常陸国村松山虚空蔵尊の分室と伝えられる家内安全五穀豊穣を守護とする御仏として信仰される。明治42年10月火災により類焼したが、御本尊のみは災火から守られた。
・・・・・・
ここに於て往時不毛の地として価値なき海辺砂丘地帯を所有する玉田部落29名の共有地山林を売却し、代金の一部を削って龍蔵院本堂及び寺各所の建設を完成する。」
明和4年というと1767年で、江戸時代中期です。
また村松山虚空蔵堂というのは、東海村にある寺で、虚空蔵尊は、虚空菩薩像の中でも日本三体の一つに数えられ、十三詣りとして厄払いでも有名だそうです。
村松山虚空蔵堂は、807年に弘法大師により建立されたと書かれており、戦国時代の戦火で堂は焼けてしまったが、虚空蔵菩薩は無事で、後の1487年に頭白上人によって堂は再建されたとあります。
そう、頭白上人っていうのは頭が白かったので頭白だそうですが、先日北条地区を回った帰り道でみた大きな五輪塔(記事はこちら)で、この名前を見つけた僧です。

赤い壁の虚空堂本堂の中を覗くと、真ん中に色彩豊かな厨子が置かれています。
この中に虚空菩薩が安置されているものと思います。

その厨の横には、何やらとても古そうな仏像が置かれていました。
少し気味が悪いようにも思います。
この虚空蔵堂は「龍蔵院」と地図にも載っていますが、この玉田、子生地区には「厳島神社」という古社があります。
今回この地区に来た一番の目的はこの厳島神社の本殿を見たかったです。
国分寺の鐘伝説の現地調査はその次の目的でした。
こちらの厳島神社については明日以降に書きたいと思います。

この地区にひっそりと見物客なども訪れることはないような、このような社寺などを偶然訪れてみると、ハッとすることがあります。
もしかしたら、気がつかないことが眠っているのではないかとも思ってしまいます。
例えば、この龍蔵院は江戸中期の創建ではなく、もっと昔からあったのではないかということを・・・。
赤いお堂に曼珠沙華というのも絵になります。

花の写真を単独にアップして(マクロ?)撮るのはあまり趣味ではありません。
周り全体の中の花として風景などと一緒に花を見ないと落ち着かないのです。
赤の花を見るのでも「万緑叢中紅一点」の言葉どうり、一面の緑の草原に赤い花が一つあるから感じるものがあるように思っています。
これは、これらの社寺や道端のお地蔵さんなどでも同じです。
風景に溶け込んで初めて、そこに吹く風や土の匂いがするような気がしています。
これも個人の好みの問題なのでしょうがないですね。
これは石岡の史跡などを見るときも同じです。
常陸国分寺史跡を見るときも、単に石岡の史跡というのではなく、この史跡が置かれている環境を考えたり、常陸国(茨城)の史跡としてどう見るか、とか日本の史跡としてはどうなのか、という見方になります。
私も石岡に住んでいるので、ここに国分寺史跡があることは嬉しいのですが、石岡市民などという小さな枠で捉えることはどうしても好きになれないのです。
これは、もしかしたら私が生まれ育った場所ではないからかもしれませんね。
他所とのつながりを考えるのも好きですね。
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そして、そこに傘を広げたような防砂壁がいくつも設けられています。
この地には今は無き常陸国分寺の二つの鐘がこの付近(子生=こなじ)の浜より運ばれてきたとという伝説が伝わっています。
前に書いた海岸のすぐ近くに地図に「龍蔵院」という寺がかかれています。
ネットで調べてみてもほとんど内容がわかりません。
そこで、この寺を見てみたくなり立ち寄ることにしました。
海岸の崖の上に広がる玉田地区の住宅の台地の一番海岸寄りの脇道を少し入ったところに赤い板壁のお堂が見えました。

お堂の横に、昭和47年にこの龍蔵院本堂を改築した時の記念碑が建てられています。
内容の一部を少し省いたりしていますが下記に記します。
「明和4年に当地に建立され、一説に常陸国村松山虚空蔵尊の分室と伝えられる家内安全五穀豊穣を守護とする御仏として信仰される。明治42年10月火災により類焼したが、御本尊のみは災火から守られた。
・・・・・・
ここに於て往時不毛の地として価値なき海辺砂丘地帯を所有する玉田部落29名の共有地山林を売却し、代金の一部を削って龍蔵院本堂及び寺各所の建設を完成する。」
明和4年というと1767年で、江戸時代中期です。
また村松山虚空蔵堂というのは、東海村にある寺で、虚空蔵尊は、虚空菩薩像の中でも日本三体の一つに数えられ、十三詣りとして厄払いでも有名だそうです。
村松山虚空蔵堂は、807年に弘法大師により建立されたと書かれており、戦国時代の戦火で堂は焼けてしまったが、虚空蔵菩薩は無事で、後の1487年に頭白上人によって堂は再建されたとあります。
そう、頭白上人っていうのは頭が白かったので頭白だそうですが、先日北条地区を回った帰り道でみた大きな五輪塔(記事はこちら)で、この名前を見つけた僧です。

赤い壁の虚空堂本堂の中を覗くと、真ん中に色彩豊かな厨子が置かれています。
この中に虚空菩薩が安置されているものと思います。

その厨の横には、何やらとても古そうな仏像が置かれていました。
少し気味が悪いようにも思います。
この虚空蔵堂は「龍蔵院」と地図にも載っていますが、この玉田、子生地区には「厳島神社」という古社があります。
今回この地区に来た一番の目的はこの厳島神社の本殿を見たかったです。
国分寺の鐘伝説の現地調査はその次の目的でした。
こちらの厳島神社については明日以降に書きたいと思います。

この地区にひっそりと見物客なども訪れることはないような、このような社寺などを偶然訪れてみると、ハッとすることがあります。
もしかしたら、気がつかないことが眠っているのではないかとも思ってしまいます。
例えば、この龍蔵院は江戸中期の創建ではなく、もっと昔からあったのではないかということを・・・。
赤いお堂に曼珠沙華というのも絵になります。

花の写真を単独にアップして(マクロ?)撮るのはあまり趣味ではありません。
周り全体の中の花として風景などと一緒に花を見ないと落ち着かないのです。
赤の花を見るのでも「万緑叢中紅一点」の言葉どうり、一面の緑の草原に赤い花が一つあるから感じるものがあるように思っています。
これは、これらの社寺や道端のお地蔵さんなどでも同じです。
風景に溶け込んで初めて、そこに吹く風や土の匂いがするような気がしています。
これも個人の好みの問題なのでしょうがないですね。
これは石岡の史跡などを見るときも同じです。
常陸国分寺史跡を見るときも、単に石岡の史跡というのではなく、この史跡が置かれている環境を考えたり、常陸国(茨城)の史跡としてどう見るか、とか日本の史跡としてはどうなのか、という見方になります。
私も石岡に住んでいるので、ここに国分寺史跡があることは嬉しいのですが、石岡市民などという小さな枠で捉えることはどうしても好きになれないのです。
これは、もしかしたら私が生まれ育った場所ではないからかもしれませんね。
他所とのつながりを考えるのも好きですね。


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