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佐原の大祭(秋祭り)(3)

千葉県の水郷佐原の街並みとお祭りの続きです。

小野川や昔の中心通り沿いの商店などの街並みは、確かに小江戸と言われるように江戸時代を思わせるものがあります。

江戸時代に利根川が銚子の方に流れをかえられて、霞ヶ浦水運が発達し、水戸からも石岡・土浦からも江戸への荷はすべて、ここ潮来や佐原などの場所を経て利根川、江戸川へ経由して運ばれていました。

そのため、酒、醤油などの産業や船荷の業者、木材などを扱う人々が行き交い、このためのたくさんの商人たちが行き来したのでしょう。

そして、祭りもこの人たちが盛り上げてきたように思います。

佐原の大祭は7月に小野川の東側にある昔からの本宿を中心として伝統の山車10台が街中で引き回しが行われます。また10月の秋祭りには西側地区の新宿を中心に14台の山車が引き回されます。

パンフレットによると「三百年伝統の山車祭り」「四百年続く佐原囃子」などの言葉が紙面を賑わせています。これはどこまで検証されているのでしょうか?

夏祭りは古くからの宿場である本宿にある「八坂神社」の祭典です。
元々は諏訪山天王台にあった牛頭天王社を江戸時代初期にこの本宿に移し、明治の廃仏毀釈の時に「八坂神社」に改名しています。

しかし、今のような祇園祭がいつの頃から始められたのかははっきりしません。
八坂神社の祭典としては、元禄15年(1702)までには6月10日(旧暦)に浜下りの神事及び6月12日に祇園の神事が行われていたと言われています。

そのため、現在のような山車がたくさん揃うようになったのはいつ頃なのか?
あまりはっきりしません。
江戸でも祭りに山車が使われていたが、明治になって廃止にとなったものもあります。
江戸の人形師などが活躍していたようですので、その流れを汲んでいるようです。

一方秋祭りの新宿の方は伊能家が酒業などの商売で財を成し、この新宿の発展を支えてきたと言われており、諏訪神社は伊能家の氏神を奉納する神社のようです(祭神は建御名方神)。
こちらの社殿は嘉永6年(1853)の造営だそうです。

秋祭りに使われる14台の山車を見てみると、江戸時代に製作されたとするものが2台、明治時代が8台、昭和が4台です。

神社に伝わっているお祭りというのはどこもあり、この祭りが大きくなったり、小さくなってしまったりはある程度時代背景もあり致し方ないのでしょう。

この祭りを見ると明らかにいわゆる祇園祭です。

私のいる石岡では江戸時代には中町にあったと言われる「牛頭天王社」で現在のスタイルに似たような祭りが行われていたとも言われています。

しかし、石岡では、天王社は仏教的な要素が大きく、明治の廃仏毀釈?でなくなってしまい、明治35年に今の祭りを新しい命を吹き込んで創設(復活)させたものだと理解しています。

この当時の人たちの祭り復活にかけた情熱をもっと大切にしていかなければならないと思います。
祭りが30年以上にわたって途絶えたことは残念ですが、それに新たな命を吹きかけて、盛大な祭りにしてきたのです。

佐原の大祭とは全く違った魅力があります。規模は石岡の方が大きいと思います。

小江戸とか小京都などとという言葉は魔法の呪文と同じですね。
この水郷佐原の街を、じっくりと見てみると、私には江戸後期から、明治にかけての産業の発展が見えてきました。

潮来などがアヤメの咲く小舟での遊覧などが観光客で賑わっていますが、江戸から明治時代に小唄や日本舞踊などの唄が潮来節として広まったことを思い浮かべて、この地をまたいつか調べても見たいと思います。

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佐原の街並みといってもそのエリアはとても狭いです。
街としての大きさもさほどではありませんが、小野川の趣がこの街の魅力の重要な要素ですね。

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忠敬橋の西側角にある「中村商店さん」ここでは各種土産物’キーホルダー、祭りかんざし、祭り人形などたくさん置いてありました。

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忠敬橋(伊能忠敬の名前からついた)から眺めた中村商店さんです。 この通りは普段は車が通行できますが、祭り期間は通行止めです。

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忠敬橋から東側の眺め、この秋祭りは西側の祭りなので、東側は少しひっそりしています。
この通りの先に見える丸いドーム屋根を持つ建物は「三菱銀行」の建物です。
石岡にも似たような建物が明治から昭和初期までありました。

またこの道をまっすぐ進むと香取神宮に行きます。

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前の写真の手前右側の忠敬橋そばに「植田屋荒物店」があります。
お店のホームページによると宝暦9年(1759)に創業したとあります。

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忠敬橋の少し南に伊能忠敬旧宅(国の史跡)と記念館があります。
伊能忠敬の生まれは九十九里町の方ですが、この佐原で千葉氏から出た伊能氏が江戸時代にはこの地で米の売買や酒業を営んでいましたが、男子が生まれなかったので親戚であった17歳の忠敬が婿養子に入ったのです。

そして、現在の新宿などの街を開き、稼業も成功して財を蓄えたのでしょう。
49歳で家督を譲って隠退し江戸に出て好きな学問であった天文学を学んだといいます。

そして55歳で蝦夷から東北の地図作りを任され、その後幕府の援助も得て日本全国の測量を行っています。
その正確さは驚くべきものがあります。

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この橋は「樋橋(とよはし)」と書かれていました。この橋を渡ると伊能忠敬記念館です。

現地の説明には
「江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東側から西側に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。 もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成四年に架け替えられたものです。」
と書かれていました。

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ジャージャー橋から忠敬橋を見ています。
祭りではない時に来た時には、この橋の下に観光用の小舟が来ていました。
この祭り期間は、もう少し下流側に船着場が設けられていて、ここまでは入れません。

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橋の西側に立派な「伊能忠敬記念館」があります。
今年7月頃に一度中を見ていますので、今回は入りませんでした。
ここには伊能忠敬が作った地図とその測量に使った道具がかなり詳しく集められて展示されています。
そして、この資料や道具をまとめてセット(2345点)で国に申請して2年前に国宝の指定を受けました。

この地にこられたらぜひ見てください。一見の価値はあります。

地図の作成は江戸幕府の依頼で行なっていますが、忠敬は江戸におりました。この佐原は家督を譲っていましたが、かなりの私財をこの初期の測量には費やしたように思います。

また、佐原の伊能家にどの程度の資料が残されていたのかはわかりませんが、現在その当時の膨大な資料や器具を集め、このような記念館にしたのには感心します。

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記念館が分からみた樋橋=ジャージャー橋です。

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こちらが伊能忠敬記念館です。裏手に駐車場(無料)があります。
通りからの入り口が狭いですが、駐車場は広いです。
祭り期間中は多分、ここに入る通りが通行止めですので駐車はできないと思います。
この裏手にきれいな蔵のような雰囲気の良いトイレがあります。

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記念館入口にある喫茶店ですが、記念館前の入口以外に横にもこのような入口があります。

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忠敬橋のメイン通りに戻ります。
この通りが祭りでもメイン会場となるようです。

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忠敬橋のバス停

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バス停の前に「わくわく休憩広場」があります。
ここで、いろいろなイベントが行われるようです。

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本来の私のブログの趣旨から言えば、もう少し街の歴史などを掘り起こしてみたいのですが、ここを掘り出すと千葉氏、里見氏などを調べていかなければなりません。

それも少し茨城中心のブログからはずれてきますので、また時間がある時にしたいと思います。

明日ももう少し、また祭りと街中の様子の紹介が続きます。

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佐原 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/10/14 17:05
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