小松寺-平重盛の墓(1)
今日はニュースで日本直販の破綻の話をしていた。
儲かっていると思っていたが、違ったのですね。
今日昼間、久しぶりに家にいたら、理由のわからないテレビ局という人から電話があった。
このブログで本を出しているのを見て、それをテレビショッピングで紹介したいというのだ。
本ではなくDVDだと思っていたようだが、よく聞いてみれば出すのは有料らしい。
たくさん売れるわけのないこんな本やDVDなどを見つけて電話してくるのだから、こんな話に飛びつく人もいるのかもしれない。
もちろんお断りしました。「出すだけの広告料を取られて終わり」で終わるのは目に見えている。
やはり日本全体に思ったより景気が悪いのかもしれない。
借金してお金をばら撒いて、一時的に数値を上げ、ごまかしている。
新たな仕事を生み出さずこのままなら何時になっても浮上しない。
田中大臣の言うことも一理あるが、やることの順番がまったく違う。本末転倒だと思う。
現在の大学で中学生程度の復讐をしないと大学の学問に全くついていけない生徒がたくさんいるそうだ。
これなど卒業させても資格が価値がないものだから、就職もできない。
世の中にそんな若者があふれてくる。
しかし、これは大学の数を減らすことで対応するのはおかしなことだ。
基準を決めて、補助金を出さなくすれば済むことだと思う。
全くおかしなことである。
さて、愚痴やため息は命を削るカンナ(鉋)と言うようなのでいつもの話題に入ります。
先日御前山から袋田の方に行く途中の城里町に平重盛の墓があると聞いていたので、立ち寄った。
場所は朝房山(常陸風土記に出てくるクレフシ山と言われる)の裏側、藤井川ダムの少し北側に当たる。
平重盛は清盛の長男で跡を継ぐはずであったが、先に死んでしまった。
もし生きていれば平家は滅びなかったかもしれないなどと言われてもいる。
各地に平家の落人伝説はあるが、ここもそのひとつに過ぎないのかもと思っていた。
しかし、ここに残されている話を聞いてみると、もしかしたら本当ではないかとも思えてくる。
小松寺の名前は重盛が六波羅小松第に住んでいて「小松殿」とか「小松内大臣」と呼ばれていたことに由来するそうだ。
この寺のある地域は「小松」と呼ばれている。

県道52号線を水戸方面から北上すると最近できた「水戸サテライト」を過ぎて少しいったところが「小松」の信号がある。
その信号を左(西)に曲がって少し行くと大きなしだれ桜が2本見えてくる。

ここが小松寺である。

寺へはこの入口から石段を登ると、両側に木々が聳える長い参道が続く。

参道を進むと先に立派な唐門が見える。

唐門はこのように屋根が兜のような姿で格好が良い。
しかし、唐門(からもん)は鎌倉のお寺でよく見るようなので、鎌倉時代からあるのかと思っていたが、どうやら室町後期頃から造られ始めたようだ。

(現地の説明板より)
唐門(両唐破風中爵門)
京都小松谷にあった平重盛邸の勅使門を模造した建造物で、常陸大掾(だいじょう)義幹(よしもと)が建久二(1191)年に寄進したと伝える(寺伝)
特徴としては本柱が円柱、控柱が角柱で、柱の下に礎盤がある。柱の上部には精巧な籠彫が施されており、扉は桟唐戸である。建築様式上からは「向う唐門」という。
昭和47年12月27日 町指定建造物に指定された。 城里町教育委員会
どうもこの説明はしっくりしない。
唐門は安土桃山時代から江戸時代に多く作られているようで、日光の東照宮も唐門である。それも中国の唐のことではなく日本で考え出されたという。
きっと1191年に出来た時とは形が変わってきているのかもしれない。
問題は常陸大掾義幹(よしもと)だ。
彼は多気大掾最後の人物で、石岡ではなく屋敷は多気(つくば市北条)にあった。
前に多気太郎として大きな五輪塔を紹介した。(こちら)


ここに平重盛の墓がある理由は上の説明を読んでください。
信じる信じないはそれぞれの思いのままに!
重盛は清盛の死ぬ前に病でこの世を去った。42才だったという。
墓などは裏山にあったのでこの続きで紹介します。
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儲かっていると思っていたが、違ったのですね。
今日昼間、久しぶりに家にいたら、理由のわからないテレビ局という人から電話があった。
このブログで本を出しているのを見て、それをテレビショッピングで紹介したいというのだ。
本ではなくDVDだと思っていたようだが、よく聞いてみれば出すのは有料らしい。
たくさん売れるわけのないこんな本やDVDなどを見つけて電話してくるのだから、こんな話に飛びつく人もいるのかもしれない。
もちろんお断りしました。「出すだけの広告料を取られて終わり」で終わるのは目に見えている。
やはり日本全体に思ったより景気が悪いのかもしれない。
借金してお金をばら撒いて、一時的に数値を上げ、ごまかしている。
新たな仕事を生み出さずこのままなら何時になっても浮上しない。
田中大臣の言うことも一理あるが、やることの順番がまったく違う。本末転倒だと思う。
現在の大学で中学生程度の復讐をしないと大学の学問に全くついていけない生徒がたくさんいるそうだ。
これなど卒業させても資格が価値がないものだから、就職もできない。
世の中にそんな若者があふれてくる。
しかし、これは大学の数を減らすことで対応するのはおかしなことだ。
基準を決めて、補助金を出さなくすれば済むことだと思う。
全くおかしなことである。
さて、愚痴やため息は命を削るカンナ(鉋)と言うようなのでいつもの話題に入ります。
先日御前山から袋田の方に行く途中の城里町に平重盛の墓があると聞いていたので、立ち寄った。
場所は朝房山(常陸風土記に出てくるクレフシ山と言われる)の裏側、藤井川ダムの少し北側に当たる。
平重盛は清盛の長男で跡を継ぐはずであったが、先に死んでしまった。
もし生きていれば平家は滅びなかったかもしれないなどと言われてもいる。
各地に平家の落人伝説はあるが、ここもそのひとつに過ぎないのかもと思っていた。
しかし、ここに残されている話を聞いてみると、もしかしたら本当ではないかとも思えてくる。
小松寺の名前は重盛が六波羅小松第に住んでいて「小松殿」とか「小松内大臣」と呼ばれていたことに由来するそうだ。
この寺のある地域は「小松」と呼ばれている。

県道52号線を水戸方面から北上すると最近できた「水戸サテライト」を過ぎて少しいったところが「小松」の信号がある。
その信号を左(西)に曲がって少し行くと大きなしだれ桜が2本見えてくる。

ここが小松寺である。

寺へはこの入口から石段を登ると、両側に木々が聳える長い参道が続く。

参道を進むと先に立派な唐門が見える。

唐門はこのように屋根が兜のような姿で格好が良い。
しかし、唐門(からもん)は鎌倉のお寺でよく見るようなので、鎌倉時代からあるのかと思っていたが、どうやら室町後期頃から造られ始めたようだ。

(現地の説明板より)
唐門(両唐破風中爵門)
京都小松谷にあった平重盛邸の勅使門を模造した建造物で、常陸大掾(だいじょう)義幹(よしもと)が建久二(1191)年に寄進したと伝える(寺伝)
特徴としては本柱が円柱、控柱が角柱で、柱の下に礎盤がある。柱の上部には精巧な籠彫が施されており、扉は桟唐戸である。建築様式上からは「向う唐門」という。
昭和47年12月27日 町指定建造物に指定された。 城里町教育委員会
どうもこの説明はしっくりしない。
唐門は安土桃山時代から江戸時代に多く作られているようで、日光の東照宮も唐門である。それも中国の唐のことではなく日本で考え出されたという。
きっと1191年に出来た時とは形が変わってきているのかもしれない。
問題は常陸大掾義幹(よしもと)だ。
彼は多気大掾最後の人物で、石岡ではなく屋敷は多気(つくば市北条)にあった。
前に多気太郎として大きな五輪塔を紹介した。(こちら)


ここに平重盛の墓がある理由は上の説明を読んでください。
信じる信じないはそれぞれの思いのままに!
重盛は清盛の死ぬ前に病でこの世を去った。42才だったという。
墓などは裏山にあったのでこの続きで紹介します。


一読して、わかりやすく且つ読みごたえのある
「まほらにふく風に乗って」のファンになりました!
私は、ついつい歴史に勝手な妄想に入れてしまうので
信じる信じないは思いのままに...というスタンスが
好きです。
今後も貴ブログの更新を楽しみにしています(^^)
PS.代田のダイダラボッチ...の写真を見て
「あ!これがガラモンやピグモンのルーツになったのかな?」と
ウルトラQ&ウルトラマン世代の私は、また妄想を広げてしまいました(笑)
> 本日メールを送らせて頂いた「たすけ」です。
メールもいただきました。こちらは改めてまたお返事させていただきます。
> 一読して、わかりやすく且つ読みごたえのある
> 「まほらにふく風に乗って」のファンになりました!
とてもうれしいですね。
こんな読者がいてくれたら勇気百倍、意欲もりもり(笑)
> 私は、ついつい歴史に勝手な妄想に入れてしまうので
> 信じる信じないは思いのままに...というスタンスが
> 好きです。
歴史は本当のところがわからないことが多いですね。
教科書や権威学者の行っていることが信じられないこともたくさんありますが
信じられるとおもう事柄だけを自分の嗅覚で勝手に好きなように理解している
わがままものです。
> 今後も貴ブログの更新を楽しみにしています(^^)
更新の意欲も湧いてきますね。これからもよろしくお願いします。
> PS.代田のダイダラボッチ...の写真を見て
> 「あ!これがガラモンやピグモンのルーツになったのかな?」と
> ウルトラQ&ウルトラマン世代の私は、また妄想を広げてしまいました(笑)
こんなのも見てくれたのですね。 私より少し年代がお若いようですね。
名前を聞いてもよく姿が浮かびませんが、ウルトラ怪獣でしょうか。(苦笑)
同時代に創業(?)して現存する日本最古の酒蔵が、近くの笠間にありますね---ブランドは『郷の誉』。左党のことを思い出してしまいました;;
> 市町村合併で城里という地名になりましたが、むかし常北町といったあたりでしょうか。山の中という印象で、私が知っている歴史は天狗党騒乱に関係した人が集まった寺がある、ぐらいでしたが、平安時代からの由緒がある寺があるんですね。
合併前は常北町だと思います。
笠間や友部の北側というイメージでしょうが、かなり昔を見ると面白いところでもあります。
出雲神話に似た話も残るところです。ただし山の中ですよね。蛇の信仰があるのかもしれません。
この寺は正直あまり紹介されていないせいかつい最近まで知りませんでした。
かなり由緒ありそうな寺でした。
> 同時代に創業(?)して現存する日本最古の酒蔵が、近くの笠間にありますね---ブランドは『郷の誉』。左党のことを思い出してしまいました;;
この「郷の誉」の蔵元は昔の友部の小原にあるはずですね。
小原神社を紹介した時に近くにあるのを地図では見ました。この家は昔の小原城のすぐ近くです。
伝統のある酒元であるとは知っていますが、飲んだことはありません。
ネットや世界にも売りこんでいますね。
でも酒米は山田錦です。多分兵庫産だと思います。
笠間には笠間神社近くに古い酒屋さんがありますね。
高浜から移った酒蔵もあったと思います。