FC2ブログ

小松寺-平重盛の墓(2)

 昨日書く予定でしたが、平重盛の墓の紹介をしたいと思います。

小松寺は思ったより立派なお寺でした。
本堂は新しい感じでしたが、境内に立派な観音堂があり、古い垂れ桜が境内にもあり、桜の時期に来てみたいと思いました。
こちらの様子はまた明日にでも写真を紹介します。

今日は平重盛の墓の紹介です。

IMG_4722s.jpg

寺の本堂と観音堂を継なぐ渡り廊下の下から裏山への道があります。

IMG_4728s.jpg

本堂脇の苔むした道を進むところに「宝篋印塔」のような塔があります。
基本的にはこれもお墓なのだと思いますが。何かはわかりません。

IMG_4729s.jpg

今来たところを振り返りました。やはり雰囲気は感じます。

IMG_4731s.jpg

ここから苔むして少し歩きにくいのですが急な階段があり、山の方に登っていきます。
右手には寺の墓地があります。入口に「高野山智積院 参拝記念」の碑が建てられていました。
最初の階段上に大きな石碑が置かれていましたが、内容はよく読めませんでした。

IMG_4734s.jpg

さらに少し次の階段を登るとそこにいくつかの梵字塔やお墓などいくつかの石の塔が並んでいました。

IMG_4736s.jpg

小松殿(平重盛)の墓(宝篋印塔)はその右側の山の斜面にありました。
手前に柵があり、直接墓の前には行くことができませんでしたが、下からお参りするようになっています。

IMG_4737s.jpg

ここに書かれているように、平家の滅亡時に平貞能(さだよし)が、高野山の重盛の墓を掘り出して、遺骨を持って重盛婦人を連れて、この常陸国を治めていた大掾(平)義幹(よしもと)をたよってこの地に逃げてきたという。
そしてここに重盛の墓を建て、婦人は尼(得律禅尼)となって重盛公の供養をして過ごしたと言われているのです。

そして、婦人は69歳で没し、貞能は89歳でなくなってともにこの場所に葬られたとなっています。

実際のところはどうなっているのでしょうか?
私は意外にこの話は信ぴょう性があるような気がしています。

この話はいろいろと他にもあります。
逃げてきた時は貞能は重盛婦人と妹を連れて逃れてきたといいます。

実は、平貞能は、関東に逃れた時、宇都宮朝綱をたよりとしてやってきたようです。
そして源氏方に投降し、朝綱により鎌倉の頼朝に対して助命嘆願がなされたと吾妻鏡に書かれているといいます。

そして、この嘆願が認められ貞能はこの宇都宮氏の計らいで、那須塩原に妙運寺に重盛の妹の草庵を建て、ここで妹は妙雲禅尼として暮らしたといいます。
これがその後「妙運寺」という寺として、この妹の霊を祀っていると言われます。

そして重盛婦人はこの場所で暮らしたのでしょう。そして小松寺として祀られているようです。

さて貞能自身ですが、ここに墓があるのですが、よくわかりません。栃木県益子にある浄土宗の「案善寺」はこの平貞能が建立したと伝えられています。

その他、東北地方に落ち延びていったという説が強く残っており、仙台にある「定義(じょうげ)如来西方寺」に平貞能公御廟と言われるものがあります。
この寺には平貞能が安置したという阿弥陀如来を祀っているそうです。

IMG_4738s.jpg

周りは山で日差しが遮られてしまい、かなり薄暗いので、写真は手ブレしてアップに耐えられないですがご勘弁ください。

IMG_4741s.jpg

現地の説明によれば、一番高いところにある右側の宝篋印塔が重盛の墓。 
その左側の写真真ん中あたりにくさに隠れた宝篋印塔が重盛婦人得律禅尼の墓。そ
の左側の頭部が丸い墓が平貞能の墓ということになるのでしょうか。

IMG_4743s.jpg

この平貞能の平家物語で「都落ち(東国に)」として物語に登場します。
しかし、重盛の遺骨は高野山に納めたとの話もありますが、遺骨を首にかけて東国に逃げてきたというのは信ぴょう性があるように思います。

この寺については明日もう少し続きます。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

城里町 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/11/11 18:30
コメント

管理者のみに表示
トラックバック
 昨日書く予定でしたが、平重盛の墓の紹介をしたいと思います。小松寺は思ったより立派なお寺でした。本