小松寺-平重盛の墓(3)
平重盛の墓と言われる宝篋印塔がある小松寺の紹介の3回目です。
ここに重盛の遺骨を運んできたと言われる「平貞能(さだよし)」は伊賀国出身の平家家人で、重盛の次男資盛(すけもり)の補佐役を任されたという。
そして、筑前守・肥後守などを歴任し、九州にその勢力範囲を持っていたと思われるが、その後大宰府が襲われ貞能は、この鎮圧に出かけるが、食料調達にも苦労する有様で都に戻っている。
このため、都を追われて、平家が西に落ち延びる時に、この貞能(さだよし)は西に行っても頼れるものがいないことを知っており、たいそう嘆いたとも言う。
平家の仲間がみな西国に逃げ出したとき、貞能は高野山に登り、重盛の墓を掘り起こし、遺骨だけを取り出し、周りの土は鴨川に流したという。もうこの時に貞能は出家していたのかもしれません。
関東に逃げてきたのは1185年の壇ノ浦戦いのあとでしょうか。当時関東の常陸国は平氏の常陸大掾(だいじょう)氏が治めていました。
多気大掾氏はつくば市北条に拠点を持っていましたが、八田知家(小田氏)の換言で鎌倉に呼び出されて滅びたのは1193年のことです。
この間に約8年あることになります。
平貞能にしてみれば、平家は元々常陸国にやってきた高望王とその子平国香(くにか)から分かれて伊勢にいったものであるから、ここ常陸の平氏(大掾氏)を頼ってやってきたことは大いに考えられるのである。
源頼朝へのとりなしは宇都宮氏を介して行ったようなので、逃げてきた当初はこのあたりに匿われていたものというのは信ぴょう性がありそうです。
もしそうなら、この寺も墓もあまり知られていないが何故なのだろう?
墓の説明は前回やりましたので、あまりくどくど書いてもしょうがないので、今日は境内にある立派な「観音堂」を中心に紹介します。

(サムネルです。クリックで大きな写真を表示します)
正面がその観音堂です。
これはかなり立派なものです。一見の価値はあります。
しだれ桜が屋根ととても調和して美しいです。
左手は本堂です。本道の正面に前に書いた唐門があります。(写真の右手前)

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観音堂です。城里町文化財に指定されています。 現地の説明看板の内容を下記します。
「建久5年(1194)に建立されたと伝えられている。
堂の面積は29.7m2、屋根は入母屋造りで銅板葺きであるが、創建当時は柿葺きである。
その尾垂小尻には龍が彫刻されている。
内陣の来迎柱には、登龍の彫刻がされていて壁画は唐獅子が描かれ、格天井の絵は草花で統一されている。
本尊は、十一面観音像(町指定文化財)が安置されている。 (城里町教育委員会)」
「柿葺き」は「こけらふき」です。柿とは関係なく薄い板を積み重ねた屋根の葺き方だそうです。

かなり立派ですね。ただ、1194年に建てられた時はどのような姿だったのかはわかりません。
きっともう少し後に建て直されたのではないかというように感じました。

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観音堂は本堂からこの渡り廊下を使って行き来できます。
この廊下のしたをくぐって重盛公の墓へ行くことができます。

毘沙門天がここにあるんですね。
佐竹七福神の一つのようです。
何故平家の寺に佐竹という源氏の血筋の名前と関係が?

境内です。左が本堂です。 正面は観音堂。
しだれ桜がありますが、この近くに水戸黄門(光圀)が寄進した桜があったようですが、枯れてしまったのでしょうか。
今度は春に一度来てみたいと思います。
平家滅亡後、源氏一辺倒になった時にこの重盛の墓などもこのような山里にひっそりとあったとしても不思議ではないのかもしれません。
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ここに重盛の遺骨を運んできたと言われる「平貞能(さだよし)」は伊賀国出身の平家家人で、重盛の次男資盛(すけもり)の補佐役を任されたという。
そして、筑前守・肥後守などを歴任し、九州にその勢力範囲を持っていたと思われるが、その後大宰府が襲われ貞能は、この鎮圧に出かけるが、食料調達にも苦労する有様で都に戻っている。
このため、都を追われて、平家が西に落ち延びる時に、この貞能(さだよし)は西に行っても頼れるものがいないことを知っており、たいそう嘆いたとも言う。
平家の仲間がみな西国に逃げ出したとき、貞能は高野山に登り、重盛の墓を掘り起こし、遺骨だけを取り出し、周りの土は鴨川に流したという。もうこの時に貞能は出家していたのかもしれません。
関東に逃げてきたのは1185年の壇ノ浦戦いのあとでしょうか。当時関東の常陸国は平氏の常陸大掾(だいじょう)氏が治めていました。
多気大掾氏はつくば市北条に拠点を持っていましたが、八田知家(小田氏)の換言で鎌倉に呼び出されて滅びたのは1193年のことです。
この間に約8年あることになります。
平貞能にしてみれば、平家は元々常陸国にやってきた高望王とその子平国香(くにか)から分かれて伊勢にいったものであるから、ここ常陸の平氏(大掾氏)を頼ってやってきたことは大いに考えられるのである。
源頼朝へのとりなしは宇都宮氏を介して行ったようなので、逃げてきた当初はこのあたりに匿われていたものというのは信ぴょう性がありそうです。
もしそうなら、この寺も墓もあまり知られていないが何故なのだろう?
墓の説明は前回やりましたので、あまりくどくど書いてもしょうがないので、今日は境内にある立派な「観音堂」を中心に紹介します。

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正面がその観音堂です。
これはかなり立派なものです。一見の価値はあります。
しだれ桜が屋根ととても調和して美しいです。
左手は本堂です。本道の正面に前に書いた唐門があります。(写真の右手前)

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観音堂です。城里町文化財に指定されています。 現地の説明看板の内容を下記します。
「建久5年(1194)に建立されたと伝えられている。
堂の面積は29.7m2、屋根は入母屋造りで銅板葺きであるが、創建当時は柿葺きである。
その尾垂小尻には龍が彫刻されている。
内陣の来迎柱には、登龍の彫刻がされていて壁画は唐獅子が描かれ、格天井の絵は草花で統一されている。
本尊は、十一面観音像(町指定文化財)が安置されている。 (城里町教育委員会)」
「柿葺き」は「こけらふき」です。柿とは関係なく薄い板を積み重ねた屋根の葺き方だそうです。

かなり立派ですね。ただ、1194年に建てられた時はどのような姿だったのかはわかりません。
きっともう少し後に建て直されたのではないかというように感じました。

(サムネルです。クリックで大きな写真を表示します)

(サムネルです。クリックで大きな写真を表示します)

観音堂は本堂からこの渡り廊下を使って行き来できます。
この廊下のしたをくぐって重盛公の墓へ行くことができます。

毘沙門天がここにあるんですね。
佐竹七福神の一つのようです。
何故平家の寺に佐竹という源氏の血筋の名前と関係が?

境内です。左が本堂です。 正面は観音堂。
しだれ桜がありますが、この近くに水戸黄門(光圀)が寄進した桜があったようですが、枯れてしまったのでしょうか。
今度は春に一度来てみたいと思います。
平家滅亡後、源氏一辺倒になった時にこの重盛の墓などもこのような山里にひっそりとあったとしても不思議ではないのかもしれません。


ありがとうございます!
実は父方の親戚が住んでおりまして(笑)
下の墓地には祖父母が眠っています。
って、関係ありませんね^^;
平重盛公が眠る由緒ある古刹でありながら、宣伝不足が災いしてか残念なことにあまり知られてはいません(>_<)枝垂れ桜の木をご覧になられたかと思いますが開花時期は本当に素晴らしいです(*^_^*)
是非、桜の咲く頃にもう一度いらしてみてくださいね!
平家滅亡後は、ここ・関東の一帯は源氏が支配したでしょうからそういった意味であまり公にされなかったのが、現代まで続いてしまったのかな?とも感じます
> こんばんは^^城里町の記事嬉しいです^^。
> ありがとうございます!
> 実は父方の親戚が住んでおりまして(笑)
> 下の墓地には祖父母が眠っています。
そうだったのですか。そうすると竹千代さんの先祖は平氏なのかな?
素敵なお寺ですね。
> 平重盛公が眠る由緒ある古刹でありながら、宣伝不足が災いしてか残念なことにあまり知られてはいません(>_<)枝垂れ桜の木をご覧になられたかと思いますが開花時期は本当に素晴らしいです(*^_^*)
> 是非、桜の咲く頃にもう一度いらしてみてくださいね!
入口の桜に境内の桜ともに素敵な趣でした。また春に是非行ってみたいと思います。
観音堂も含め写真の被写体としても素敵な場所です。
> 平家滅亡後は、ここ・関東の一帯は源氏が支配したでしょうからそういった意味であまり公にされなかったのが、現代まで続いてしまったのかな?とも感じます
鎌倉時代は日本中のほとんどが源氏を名乗りました。
歴史もいつでも勝者の論理で展開されています。
どこに真実があるのか考えさせられます。コメントありがとうございました。