石岡の街並み(15)
昨日の香丸通りの浜総業さんの立派な土蔵(店舗)から少し駅の方に戻ります。
酒の「冷水」さんがあります。

この横にやはり大きな土蔵があります。この酒屋さんは昭和10年の地図では「角蔵酒造」となっています。

立派な土蔵ですよね。ここで酒作りが行われていたようです。

昨年撮った写真です。この時にはまだレンガ造りの煙突が立っていました。
酒造りの煙突は、酒造りで出た抽出の残りカスを燃やしたものらしいです。
今の酒造りは、これらのカスも別な用途に還元するので煙突はいらなくなっています。

石岡市内には300年ほど前からいくつもの酒造所がありました。
関東の灘といわれる酒処でした。
この小さな酒造会社は昭和34年に合同で「石岡銘醸株式会社」を設立しました。
そして、これが昭和47年に、今の「筑波」などの名酒を製造している「石岡酒造株式会社」(石岡市東大橋)になったのです。
この写真のところの信号は「柿岡街道入口」だったと思います。今はその曲がった通りから振り返って撮った写真です。
この柿岡街道は正面突き当りに「若宮八幡宮」があり、「八幡通り」ともいうようです。
途中のバス停に名前が残っています。こちらはまた後で紹介したいと思います。

そのまま駅の方に少しもどると、通り沿いにギンザ美容室と松倉書店の看板があります。
この書店は営業していません。
でもこの2軒の店の場所に昔「石岡銀行」がありました。
そして隣が「灰吹屋山口薬局」さんがあります。
このお店の看板に「創業慶安元年」と書かれています。
慶安元年は1648年です。徳川家光の時代なんです。
ほかの県にも灰吹屋さんという名前の薬屋さんがありますが、ここが本家なのでしょうか?
漢方薬を取り扱っています。
ここは昔「紫金草」(花大根、諸喝菜)として一度紹介しました(こちら)

灰吹屋さんのとなりは「ホテル橋本楼」さんです。こちらも古くからやっています。
昔は「橋本旅館」さんです。
そのとなりは日本蕎麦屋さんです。

通りの反対側には「浜近商店」さんがあります。
この建物も土蔵作りです。今回の震災で一部補修して直したようです。
お米などを取り扱っています。

昭和10年の思い出の地図には
(A)が昔の橋本旅館さんと、この浜近商店さんの隣にあったという(C)のえびすや呉服店さんの姿を描いた絵の写真を下記に示します。
時代の流れで、道路も拡張したので、店も壊してしまったりしたのも多かったのかもしれませんがもったいなかったですね。
一部は別な場所に移築したりもしたのかもしれません。


酒の「冷水」さんがあります。

この横にやはり大きな土蔵があります。この酒屋さんは昭和10年の地図では「角蔵酒造」となっています。

立派な土蔵ですよね。ここで酒作りが行われていたようです。

昨年撮った写真です。この時にはまだレンガ造りの煙突が立っていました。
酒造りの煙突は、酒造りで出た抽出の残りカスを燃やしたものらしいです。
今の酒造りは、これらのカスも別な用途に還元するので煙突はいらなくなっています。

石岡市内には300年ほど前からいくつもの酒造所がありました。
関東の灘といわれる酒処でした。
この小さな酒造会社は昭和34年に合同で「石岡銘醸株式会社」を設立しました。
そして、これが昭和47年に、今の「筑波」などの名酒を製造している「石岡酒造株式会社」(石岡市東大橋)になったのです。
この写真のところの信号は「柿岡街道入口」だったと思います。今はその曲がった通りから振り返って撮った写真です。
この柿岡街道は正面突き当りに「若宮八幡宮」があり、「八幡通り」ともいうようです。
途中のバス停に名前が残っています。こちらはまた後で紹介したいと思います。

そのまま駅の方に少しもどると、通り沿いにギンザ美容室と松倉書店の看板があります。
この書店は営業していません。
でもこの2軒の店の場所に昔「石岡銀行」がありました。
そして隣が「灰吹屋山口薬局」さんがあります。
このお店の看板に「創業慶安元年」と書かれています。
慶安元年は1648年です。徳川家光の時代なんです。
ほかの県にも灰吹屋さんという名前の薬屋さんがありますが、ここが本家なのでしょうか?
漢方薬を取り扱っています。
ここは昔「紫金草」(花大根、諸喝菜)として一度紹介しました(こちら)

灰吹屋さんのとなりは「ホテル橋本楼」さんです。こちらも古くからやっています。
昔は「橋本旅館」さんです。
そのとなりは日本蕎麦屋さんです。

通りの反対側には「浜近商店」さんがあります。
この建物も土蔵作りです。今回の震災で一部補修して直したようです。
お米などを取り扱っています。

昭和10年の思い出の地図には
(A)が昔の橋本旅館さんと、この浜近商店さんの隣にあったという(C)のえびすや呉服店さんの姿を描いた絵の写真を下記に示します。
時代の流れで、道路も拡張したので、店も壊してしまったりしたのも多かったのかもしれませんがもったいなかったですね。
一部は別な場所に移築したりもしたのかもしれません。


ゑびす屋は高喜と双璧を成す石岡の呉服屋でした。ともに洋品店に変身して生き残りを図ったのち消えてゆきました。
そんな中、橋本旅館がいまも営業を続けているのは予想外という感じです。柏原工業団地が盛んなころは利用が多かったようですが、いまはどうでしょう。盛んだったものが消え、地味だったものが不思議と残っている感じです。
お返事遅くなりました。
> 交差点のカドにクラがある酒屋だからカドクラというあだ名のようなものかなと、子供の時思ってましたが、屋号だとやがて知りました。
でも名前の由来はこんなところだったのだと思います。
この説明を聞いて納得してしまいました。名前は冷水さんですから何故「角蔵」なのかと思っていました。
> ゑびす屋は高喜と双璧を成す石岡の呉服屋でした。ともに洋品店に変身して生き残りを図ったのち消えてゆきました。
一時期は呉服屋さんが大きくなった時代もあったようですね。土浦も同じ。
業容をデパート風に変更したところもありましたが、一時良くても今は大手のデパートも厳しいですね。
> そんな中、橋本旅館がいまも営業を続けているのは予想外という感じです。柏原工業団地が盛んなころは利用が多かったようですが、いまはどうでしょう。
橋本旅館は明治の半ばにはあったのですからもっと昔からあったはずです。
江戸時代かもしれません。そこそこホテル風にして生き残っているようです。
駅近くの旅館ホテルも今はダメそうです。今後どのように生き残っていくのか。
借地でなければそこそこやっていけていたのかもしれません。都会とちがって何とかなっているのでしょう。
> 盛んだったものが消え、地味だったものが不思議と残っている感じです。
これは何か人間世界も同じようなものとも言えます。
地道に泥臭いのが生き延びる??
節制して元に戻しつつありますが、以前のように、安酒をぐびぐびというのはやめました。やや辛口のものを少々。ところで『筑波』は美味しいお酒ですか?
酒の話ばかりで恐縮です。
> 石岡は関東の灘ですか。知りませんでした。水が良かったんでしょうかね。
「親は諸白子は清水」という話も残るのですが、こればかりは身内主義的な土地柄であまり販路が広がらないですね。
この石岡酒造さんの大衆酒である「白鹿」は灘の白鹿から名前差し止め訴訟が出されましたが、こちらのほうが古くからあったようで、灘は「黒松」と頭につけることになってしまいました。
> 中年になり、フォアグラ状態になり、突然酒が美味しく飲めなくなりました。
これはこれは私と同じようですね。おいしい酒が飲みたいですね。
> ところで『筑波』は美味しいお酒ですか?
とても美味しい酒であることは間違いありません。
但し酒米は山田錦(兵庫)で、これを表面を半分位まで削り取った中心部を使います。
美味しいお酒は皆そうです。削る量で値段が大きく変わります。
石岡にはその他 府中酒造さんの「渡舟」という美味しい酒があります。
山田錦の親米にあたる幻の米と言われた「渡船」を復活して地元(八郷地区)で栽培されたものを使っています。
こちらも削り取る量で価格は倍半分違います。
あまり一般には売られていないと思います。
一度探して飲んでみてください。