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蒼泉寺

 昨日の長倉宿(常陸大宮市)の記事の続きになります。

この御前山の那珂川を挟んだ対岸側の山に「長倉城」があった。

鎌倉時代末期の1317年頃に佐竹氏7代佐竹行義の次男である佐竹義綱(義継?)がこの地を得て、この山に築城し長倉氏を名乗ったのに始まるとされる。

長倉3代の長倉義景(常陸介)の代に本家佐竹氏に男児がなく、このため室町時代の守護大名(関東管領)であった山内上杉家(上野・伊豆守護)から養子を迎えようとしたことにこの長倉氏は山入氏とともに反発し1407年、長倉城に立て籠もり交戦したが、城を囲まれて、1408年に城を開けて降伏した。(山入一揆)

その後も、上杉禅秀の乱などが起こりが起こり、鎌倉公方(足利持家)と室町幕府側の争いでは、幕府側について公方側により城を囲まれ(約6000名が城を囲って攻めたともいわれる)大合戦となった。
しかし、この城はたいそう堅固で、そこに籠った長倉義景の子義成を攻め落とすことができなかったという。
最後は1435年に城の包囲を一部解き、長倉義成も城を開放して軍門に下ったとされています。
この顛末を記した「長倉追罰記」にはこの時に集まった諸州の軍旗が120以上書かれていて、軍旗の資料として大変重要だといいます。

長倉城

上の写真の「長倉城跡」は北側と東側が大沢川からの崖となっており、こちら側からは攻めることができなかったようです。

その麓にここに長倉氏がいたときには「蒼泉寺」ではなく「善慶寺」があったようです。
この善慶寺は長倉氏が石岡市柿岡に移った時に、一緒に柿岡に移動したようです。
柿岡の善慶寺は明日紹介します。

石岡に住んでいるので善慶寺を先に紹介すればいいのですが、流れを知らないと今の柿岡もよくわからないのです。

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蒼泉寺(そうせんじ)入口の総門です。

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(写真はサムネルです)

このお寺も紅葉が綺麗なお寺です。

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奥に続く寺の入口にもう一つ門(山門)があります。

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寺の本堂です。
「曹洞宗 南嶽山 蒼泉寺」禅寺です。
本尊は聖観世音菩薩坐像(寛文五年-西暦1665年)だといいます。
寺の説明書きには「長倉城主十四代佐竹義興公(長倉遠江守)が曹洞宗善慶寺(現在の石岡市柿岡)の跡地に、慶長元年(1596)に創建」と書かれています。

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(写真はサムネルです)

こちらは「薬師堂」です。
この寺も末寺を13持つ大きな寺院だったそうです。
1806年に火災で寺を消失し、1811年に再建したそうです。
現在残るのはこの時のものですので200年くらい前の建物です。

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寺本堂入口の真ん中の紋は佐竹氏の「扇に月」の家紋であう。

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本堂と薬師堂の屋根が重なってしまい、このような逃げがあります。

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本堂庫裏へはこのような唐門様式の入口が造られています。
いつごろ作られたものかはわかりません。

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この寺には栃木県喜連川に1775年に生まれた南画家「津村雨林」の絵画が数多く残されている。
板戸に書かれたもの22点、格天井の絵が122点ある。貴重なものだと思う。

(蒼泉寺と長倉城の位置は国土地理院の地図で → こちら

城里町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/11/30 19:02
コメント
No title
自分の故郷なのでちょっとコメントを!
現在は埋め立てられ道路もまっすぐになっていますが、長倉城の南側は、以前はU字型の深い谷になっていました。
西側も崖地だったので、城攻めをするには攻めにくい堅城だったと思われます。
Nishida様
> 現在は埋め立てられ道路もまっすぐになっていますが、長倉城の南側は、以前はU字型の深い谷になっていました。
> 西側も崖地だったので、城攻めをするには攻めにくい堅城だったと思われます。

そうですか。城としては結構攻めるのは大変そうですね。
御前山方面も最近はあまり行っていません。
また立ち寄って見たい気もします。
コメントありがとうございました。

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