太田善光寺(2)
昨日の善光寺楼門に続いてこの善光寺の紹介をしておきます。写真は10月中旬に撮ったものです。
写真を撮ってからだいぶ経ってしまいました。
前から何度かここを訪れていますが、どのように紹介して良いかわからずにおりました。
いろいろなサイトで壊れかけたお寺として写真などで紹介されたり、また仮面ライダー・・・などの撮影に使われたりしてきました。
でもこの寺をまともに紹介している物をあまり見かけません。
出来る範囲で少しでも紹介しておかないと、この寺はもうすぐなくなってしまうでしょう。
記録としても残す価値はありそうです。
場所は石岡八郷地区の西北にある恋瀬小学校の近くです。
善光寺楼門が室町時代中期の建造物として国の文化財に指定されていますので、ある程度の説明は載っています。

(サムネルです)
この中で、文化財の指定を受けているものは入口に立つ茅葺き屋根の仁王門「善光寺楼門」のみです。
このためか、門をくぐったところは広場があり遊具やお年寄りの遊び場(健康維持?)となっています。
この境内広場には「太田田園都市センター」という公民館のような建物が建っています。

この広場の先の小山の上に寺の堂宇があるのですが、現在ではこのように崩れかけています。
以前見たときより状態はかなり悪化しており、映画やテレビの忍者ものなどの撮影はもうできないでしょう。
寺の周囲にはロープが張られていて、中に入ることを制限しています。

入口の上には龍の彫物が彫られています。村上の佐志能神社の龍に似ているように思います。

こんな状態ですから、手の施しようがないように思えます。
なぜここまでほおっておいたのでしょうか?
理由はいろいろあるようですが、まだ一部が崩壊していた段階で修理して文化財に登録されていればてのつけようはあるのでしょうが、今はとても見るに絶えません。
このため、私のブログでも紹介をすることをためらってきました。

このお堂の屋根は大変立派で、いつ作られたものかを表しているものがよくわかりません。
しかし、この建物も江戸時代中期頃に屋根は藁葺きで建てられたのではないかと思います。

このように軒が長く出ています。
屋根を支えている「斗 栱(ときょう)」から更に先に支えるべき木組みが、楼門は昨日の写真のように「三手先(みてさき)」と三段に組まれていましたが、この構造を見ると「二手先(ふたてさき)」のように思います。
藁葺き屋根なら、この構造で持ったのかもしれませんが、瓦屋根にした時に重みに耐えることができなくなってしまったのかもしれません。
とても残念です。

この寺がどの地図も「善光寺」と載っています。
でも私は違うのではないかとずっと思ってきました。
それにはもう少し歴史を見てみなければなりません。
(明日に続きます。)
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写真を撮ってからだいぶ経ってしまいました。
前から何度かここを訪れていますが、どのように紹介して良いかわからずにおりました。
いろいろなサイトで壊れかけたお寺として写真などで紹介されたり、また仮面ライダー・・・などの撮影に使われたりしてきました。
でもこの寺をまともに紹介している物をあまり見かけません。
出来る範囲で少しでも紹介しておかないと、この寺はもうすぐなくなってしまうでしょう。
記録としても残す価値はありそうです。
場所は石岡八郷地区の西北にある恋瀬小学校の近くです。
善光寺楼門が室町時代中期の建造物として国の文化財に指定されていますので、ある程度の説明は載っています。

(サムネルです)
この中で、文化財の指定を受けているものは入口に立つ茅葺き屋根の仁王門「善光寺楼門」のみです。
このためか、門をくぐったところは広場があり遊具やお年寄りの遊び場(健康維持?)となっています。
この境内広場には「太田田園都市センター」という公民館のような建物が建っています。

この広場の先の小山の上に寺の堂宇があるのですが、現在ではこのように崩れかけています。
以前見たときより状態はかなり悪化しており、映画やテレビの忍者ものなどの撮影はもうできないでしょう。
寺の周囲にはロープが張られていて、中に入ることを制限しています。

入口の上には龍の彫物が彫られています。村上の佐志能神社の龍に似ているように思います。

こんな状態ですから、手の施しようがないように思えます。
なぜここまでほおっておいたのでしょうか?
理由はいろいろあるようですが、まだ一部が崩壊していた段階で修理して文化財に登録されていればてのつけようはあるのでしょうが、今はとても見るに絶えません。
このため、私のブログでも紹介をすることをためらってきました。

このお堂の屋根は大変立派で、いつ作られたものかを表しているものがよくわかりません。
しかし、この建物も江戸時代中期頃に屋根は藁葺きで建てられたのではないかと思います。

このように軒が長く出ています。
屋根を支えている「斗 栱(ときょう)」から更に先に支えるべき木組みが、楼門は昨日の写真のように「三手先(みてさき)」と三段に組まれていましたが、この構造を見ると「二手先(ふたてさき)」のように思います。
藁葺き屋根なら、この構造で持ったのかもしれませんが、瓦屋根にした時に重みに耐えることができなくなってしまったのかもしれません。
とても残念です。

この寺がどの地図も「善光寺」と載っています。
でも私は違うのではないかとずっと思ってきました。
それにはもう少し歴史を見てみなければなりません。
(明日に続きます。)


おっしゃる通り、あり得ない状態ですね。
江戸時代まで遡れそうな寺社を
半分崩壊まで放置しておくなんて、
驚きです。
というか見た感じでは歴史の重みが
強く感じられる建物ですね。
もったいないです。
その当時からいろいろ指摘されているのですが、文化財でもないし
何もできずにいたようです。
本当に残念ですね。
檀家のあり、住職でもいたら守る方法はあったかもしれません。
> というか見た感じでは歴史の重みが強く感じられる建物ですね。
> もったいないです。
200年以上経つと思いますが、建設の失敗作かもしれません。
または、屋根を瓦葺きに替えた失敗でしょう。
いまなら軽量瓦もあるのでしょうが・・・。