若宮八幡宮
この若宮八幡宮は自宅の近所にある神社で、歴史のある神社には違いないのだが・・・。
どうにもよくわからないのだ。そのためホームページなどにも載せてはいるが通り一遍の説明しかしてこなかった。

昔は香丸町の方からこの神社にまっすぐ続く通りが参道のようになっていたものと思う。
神社の敷地はあまり広くはなく、一見なんの変哲もない神社のようにも見える。
でも鳥居の先に仁王門のような四足の門がある。
境内には左手に桜の木、右て奥に大きな木(けやき?)が聳えている。その先は崖のような窪地なので
突き当たりだ。

写真集「いしおか昭和の肖像」より昔のこの神社の写真をお借りしました。
この写真には右手に大きな松の木があります。
この木を地元では「鞍掛の松」と呼んでいました。
八幡太郎義家が奥州征伐の時にここで戦勝を祈ったとされ、この時にこの松の木に乗っていた馬から鞍を外して枝に掛けたと言われています。
石岡には三村地区でも鞍掛の松と呼ばれる松が残っていたそうですが、松の木はやはりどこかで枯れてしまうのでしょう。残っているところは少ないようです。

詳しい説明は上の説明板を読んで頂ければいいと思います。
特に太田道灌がここに参拝したという記録があるとか。
常陸総社宮にはこの後に奥州から戻って戦勝を感謝して奉納したとされる道灌の軍配扇が残されています。
また短冊に歌を書いて収めたと言われ、残されている歌が
「曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月」
というものです。(総社宮)

神社の拝殿には立派な彫刻が施されています。
説明文によれば、一般の神社のような拝殿、後ろに本殿という様式ではなく、拝殿と本殿が一体になったものです。
これは少し変わった造りと言えるのかもしれません。





入口に建っている四足門は左右に風神・雷神を祀ってあります。
総社宮など大きな神社では、この門の様式は随神門と呼ばれ、左大臣、右大臣などの武士の神様を祀るものが多いのですが、ここのように風神雷神を祀るところもあります。違いはよくわかりません。
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どうにもよくわからないのだ。そのためホームページなどにも載せてはいるが通り一遍の説明しかしてこなかった。

昔は香丸町の方からこの神社にまっすぐ続く通りが参道のようになっていたものと思う。
神社の敷地はあまり広くはなく、一見なんの変哲もない神社のようにも見える。
でも鳥居の先に仁王門のような四足の門がある。
境内には左手に桜の木、右て奥に大きな木(けやき?)が聳えている。その先は崖のような窪地なので
突き当たりだ。

写真集「いしおか昭和の肖像」より昔のこの神社の写真をお借りしました。
この写真には右手に大きな松の木があります。
この木を地元では「鞍掛の松」と呼んでいました。
八幡太郎義家が奥州征伐の時にここで戦勝を祈ったとされ、この時にこの松の木に乗っていた馬から鞍を外して枝に掛けたと言われています。
石岡には三村地区でも鞍掛の松と呼ばれる松が残っていたそうですが、松の木はやはりどこかで枯れてしまうのでしょう。残っているところは少ないようです。

詳しい説明は上の説明板を読んで頂ければいいと思います。
特に太田道灌がここに参拝したという記録があるとか。
常陸総社宮にはこの後に奥州から戻って戦勝を感謝して奉納したとされる道灌の軍配扇が残されています。
また短冊に歌を書いて収めたと言われ、残されている歌が
「曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月」
というものです。(総社宮)

神社の拝殿には立派な彫刻が施されています。
説明文によれば、一般の神社のような拝殿、後ろに本殿という様式ではなく、拝殿と本殿が一体になったものです。
これは少し変わった造りと言えるのかもしれません。






入口に建っている四足門は左右に風神・雷神を祀ってあります。
総社宮など大きな神社では、この門の様式は随神門と呼ばれ、左大臣、右大臣などの武士の神様を祀るものが多いのですが、ここのように風神雷神を祀るところもあります。違いはよくわかりません。


八幡さまは石岡旧市街(こういう洒落た呼称が許されるならですが)の北西のはずれ、という意識。ここから右に進めばすぐに石岡小学校の学区ではなくなるため子供には境界という感覚でした。
徳川氏の氏神とのことで江戸期には保護されたのかも知れませんが、大掾氏滅亡とともに焼失したものが再建された意図はわかりませんね。
> 夕方この通りへ香丸町から入って行くと、夕焼け空をバックに400m先の八幡さまの杜(というほど木はないですが)が見え、筑波山の美しいシルエットも見られますね!?(定かでなく)
八幡様と呼んでいるのですね。この先につくば山が見える? 少しずれているのかあまり意識したことはないが、すぐ上には見えないと思います。
国分寺に横の弁天池の通りからは筑波山はよく見えます。
> 八幡さまは石岡旧市街(こういう洒落た呼称が許されるならですが)の北西のはずれ、という意識。ここから右に進めばすぐに石岡小学校の学区ではなくなるため子供には境界という感覚でした。
昔は長法寺があって、そこが柿岡街道からの入口だったと思います。
学区でいえば石岡小学校ならここが境界なのでしょうね。あんまり意識していませんが今でも街中の人は意識にあるのでしょうね。困ったものですが・・・。
> 徳川氏の氏神とのことで江戸期には保護されたのかも知れませんが、大掾氏滅亡とともに焼失したものが再建された意図はわかりませんね。
この神社横から池袋に抜ける道があり、その坂道に「残念坂」という名前が残っていると言いますがどこだかわかりません。
城中山と奥の小山を読んでいたそうですから、城の本丸は石岡小学校より奥だったと思います。
これも皆なくなり、どこがどうなっているかよくわからないですね。
何を大切に守るべきものなのでしょう。
興味がおありでしたら、下記URLにアクセスしてみてください。
http://aztkhs.blog.fc2.com/blog-date-20120506.html
> 若宮八幡神社は、八幡神応神天皇の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀るもののようですね。
そうですよね。「八幡大菩薩」というと源氏の崇拝した神ですね。私の自分のHPで紹介記事も書いています。
鶴岡八幡宮などに代表されるように武士(特に源氏)の神様だと思っています。
でも何か変なのですよね。奈良時代に建立されて、太田道灌も源義家(八幡太郎)も源頼朝もきっと参拝したであろうこの八幡宮がなぜか疎んじられている。
そんな気がするのです。もっとも石岡は平家の話になると熱心になりますが、源氏はからっきし人気がない。
世間一般とは全く逆です。
> 私の出身地、いわき市の飯野八幡宮には国指定の重文になっているものがあります。同じ系統のものだと思います。
記事拝見させていただきました。神楽なども演じられているのですね。
紹介ありがとうございました。大変参考になりました。