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手塚良運の墓(清涼寺)

 今年の春にNHKのBS時代劇で手塚治虫の「陽ひだまりの樹」が4月から6月にかけて放送された。
この話にはこの常陸府中藩(石岡)の無骨な下級藩士「伊武谷万次郎」と江戸の小石川にあった常陸府中(播磨守)の藩邸の漢方医師「手塚良庵」が出てくる。

手塚良庵は大坂の適塾で西洋医学を学ぶが、この学生だった時の様子が、一緒に適塾で学んでいた先輩であった福沢諭吉の「福翁自伝」に出てくる。

手塚治虫はこの福翁自伝を読んで自分の先祖の姿を知り、調査してこのマンガを書いたのだろう。

江戸時代には、常陸は水戸学が盛んになった土地柄でもあり、江戸幕府の腐った体質を憂いてはいても日本国のため、徳川幕府のために最後まで義を重んじた万次郎という人物の設定を思いついたのだとも思う。

 さて、石岡市内の中町通りの少し先の奥まったところに曹洞宗の禅寺「清涼寺」がある。
ここに手塚治虫の先祖と最近話題になった墓がある。

これは手塚良運という人の墓で、手塚治虫が書いた「ひだまりの樹」のモデルになった常陸府中藩の藩医手塚良庵のいとこに当たる。

どうも石岡の人は手塚治虫の先祖の墓がここ石岡に有り、常陸府中藩というのがこの石岡だと信じている人が多い。
しかし、調べてみると実際の関係はかなり違っている。

江戸小石川の常陸府中藩の藩邸は播磨守を任じられていたので「播磨坂」の名前が残るように藩主松平氏は江戸では播磨様と呼ばれていたのだろう。

その殿様の侍医である手塚良庵もまた小石川(水戸藩邸のあった後楽園球場の近く)に住んでいたと思われる。
そのため、ここ常陸府中(常府=石岡)には藩主も来ないし、侍医も来ない。
ここにあったのは陣屋とそれを守る藩の武士などであった。

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「陽だまりの樹」の医師手塚良庵は手塚治虫の曽祖父(ひいじいさん)にあたる。
常陸府中藩の江戸小石川の藩邸の医師(侍医)であった。

この良庵の二代前から代々手塚良仙という名を継いできている府中藩の藩医を継承する家柄だった。
そのため家系は医者が多く、良庵の父(二代目良仙)の弟も小石川で医者を開業(分家)していた。
その子供が手塚良運で、やはり医者を継いでいく。手塚良庵とは従兄弟(いとこ)に当たる。

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この手塚良運は明治の廃藩置県(1871年)で江戸を引き払って、ここ石岡の鹿の子にあった武家屋敷に移住した。
しかし、1873年に45歳で死んでしまった。その手塚良運の墓である。

鹿の子は地下の正倉院ともいわれる「鹿の子C遺跡」が常磐高速建設時に発見された地域であるが、江戸時代には常陸府中藩の武家屋敷が建ち並んでいたそうだ。
今は面影もない。

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この墓のある「清涼寺」は開山500年を記念して本堂を建て直し綺麗になった。
ガラス戸には佐竹氏の家紋「月丸扇」が付けられている。

天正18年(1590年)に大掾氏が佐竹氏に攻められ、市内の寺もほとんどが消失した。
清涼寺は1330年に大掾高幹が尼寺が原に建立した寺で1480年頃に現在地に移されていたという。

1590年に消失したあと、佐竹義尚(南家)が1592年に佐竹南家の菩提寺として再建したものである。
しかしご存知のように佐竹氏は秋田(出羽)に移転となり、この佐竹義尚(南家)は秋田の湯沢に移された。

そして湯沢に清凉寺(揚沢山清涼寺)は移された。(秋田の清凉寺は → こちら
秋田の佐竹南家の菩提寺として現在まで続いている。

しかし、この地の清涼寺がなくなったわけではなく、文亀元年(1501)曹洞宗に改宗され、大本山永平寺開山道元禅師十六世法孫寒室永旭大和尚を請して清凉寺開山とした曹洞宗の禅寺として残っていった。

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寺の裏手には今回の立て直しの時に整理されたと思われる無縁仏の墓碑と思われる墓石が置かれていた。その先に見えるのは地元のスーパー「タイヨー」である。
ここも昔のけやきの大木を残している。



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石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/12/26 19:25
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