赤レンガ(6)-富士色醤油跡
明治から昭和の始め頃まで、石岡の街中にはたくさんの醤油醸造工場がありました。
酒の醸造とともに石岡のシンボルともなっていた煙突がたくさん並んでいたといいます。

今はこの醤油工場の面影を残すものは、この赤レンガの塀の一部のみとなりました。
石岡が野田(キッコーマン)や銚子(ヤマサ)などに匹敵する醤油醸造の街であったなどということを今では想像すらできなくなっています。
江戸時代には土浦の方が先に醤油生産を始めています。しかし明治時代になると石岡の生産量は土浦を遥かに凌ぐまでに発展していきました。
でも身内主義体質から脱却できなかったため今ではこんな時代があったことすら忘れられてしまいました。
開かれた街に生まれ変わらなければ、衰退の波はこれからも続くでしょう。
(前に書いたブログ記事 → 石岡の醤油産業は何故廃れたのか?
このようにブログで紹介しているのもこの街が真の良さを認識し、自己満足に溺れることなく発展を望むようになって欲しいと願ってのことです。
茨城県の他の町の方や、日本中の人々の知名度UPとなることに少しでも貢献できれば嬉しいことです。

ここは守木町郵便局のすぐそばです。
でも意識して見ていないとこの赤レンガも見ることはないでしょう。

この守木町に「富士色醤油」さんという工場があったそうです。

昭和10年の地図に載っています。
フジイロ醤油(一色宗十郎)
屋号は富士色(フジイロ)となっていますが、一色さんという方がやっていました。
この屋号の絵を見ると、なんとなく一色の「一」の字を富士山で表してこの屋号となったことがわかります。
昔は「一色醤油」となっていました。

(昭和10年の地図にも載っています。地図の中の(E)の場所です)
昭和6年の石岡町内の醤油醸造元は、富士色(守木)、廣屋(国分)、石塚(泉町)、小川屋浜本店(香丸)、久保倉(木之地)、岡清(香丸)、金源(泉町)、浜藤(青木)、西ノ宮(守木)、久松(幸町)とたくさんあったのです。
今あるのは泉町の石塚醤油さんのみです。
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酒の醸造とともに石岡のシンボルともなっていた煙突がたくさん並んでいたといいます。

今はこの醤油工場の面影を残すものは、この赤レンガの塀の一部のみとなりました。
石岡が野田(キッコーマン)や銚子(ヤマサ)などに匹敵する醤油醸造の街であったなどということを今では想像すらできなくなっています。
江戸時代には土浦の方が先に醤油生産を始めています。しかし明治時代になると石岡の生産量は土浦を遥かに凌ぐまでに発展していきました。
でも身内主義体質から脱却できなかったため今ではこんな時代があったことすら忘れられてしまいました。
開かれた街に生まれ変わらなければ、衰退の波はこれからも続くでしょう。
(前に書いたブログ記事 → 石岡の醤油産業は何故廃れたのか?
このようにブログで紹介しているのもこの街が真の良さを認識し、自己満足に溺れることなく発展を望むようになって欲しいと願ってのことです。
茨城県の他の町の方や、日本中の人々の知名度UPとなることに少しでも貢献できれば嬉しいことです。

ここは守木町郵便局のすぐそばです。
でも意識して見ていないとこの赤レンガも見ることはないでしょう。

この守木町に「富士色醤油」さんという工場があったそうです。

昭和10年の地図に載っています。

屋号は富士色(フジイロ)となっていますが、一色さんという方がやっていました。
この屋号の絵を見ると、なんとなく一色の「一」の字を富士山で表してこの屋号となったことがわかります。
昔は「一色醤油」となっていました。

(昭和10年の地図にも載っています。地図の中の(E)の場所です)
昭和6年の石岡町内の醤油醸造元は、富士色(守木)、廣屋(国分)、石塚(泉町)、小川屋浜本店(香丸)、久保倉(木之地)、岡清(香丸)、金源(泉町)、浜藤(青木)、西ノ宮(守木)、久松(幸町)とたくさんあったのです。
今あるのは泉町の石塚醤油さんのみです。


石岡が土浦を凌ぐほど醤油の製造が盛んだったということは知りませんでした。醸造酒の工場はあっても何故醤油は廃れたのか、本当に不思議ですね
>真の良さを認識し、自己満足に溺れることなく発展を望むようになって欲しい・・・
果たして私はこれまで、その気持ちを持ってブログを書いてきただろうか?と振り返ってみました
Romanさんのブログで、たくさんの事を学ばせていただきました!一年間ありがとうございました(*^_^*)
こんばんは。今年も残りわずかですね。慌ただしいです。
> 石岡の街を歩いていると何気に謎(?)の煉瓦塀に出くわすことがしばしばですが、あれは醤油工場の跡だったのですね
醤油も酒造工場も似ていますので煙突やレンガ塀などどちらかの区別ができません。
昔の地図などを見たりしないとわからないことが多いです。
> 石岡が土浦を凌ぐほど醤油の製造が盛んだったということは知りませんでした。醸造酒の工場はあっても何故醤油は廃れたのか、本当に不思議ですね
日本の醤油は大豆が輸入になってからまったくダメになりましたが、これだけあったものがほとんどダメになったのは石岡の場合はそればかりではないと思っています。
>真の良さを認識し、自己満足に溺れることなく発展を望むようになって欲しい・・・
果たして私はこれまで、その気持ちを持ってブログを書いてきただろうか?と振り返ってみました私はまだまだですね(笑)
わはは! こんなところを読まれてしまいましたね。そっと書いておいたつもりでしたが・・・。
書いていると時々こんな衝動に駆られます。でも書く事は出来ても行動が伴わない。
これではやはり本物ではないですよね。
> Romanさんのブログで、たくさんの事を学ばせていただきました!一年間ありがとうございました(*^_^*)
こちらこそお世話になりました。これからもどんどん茨城の記事を書いてくださいね。
そして石岡もお忘れない様にお願いします。
お互いに来年も頑張っていきましょう。
この富士色醤油さんは今は守木町郵便局になっていますので、詳しいことは恐らくそちらでお分かりだと思います。
また一色さんというお名前も珍しいのですが、土浦にも多くの有名な方がおられます。
恐らく関係がある方だと思います。
私の記事がそちらの記事の参考になったのでしたら嬉しいことです。
むかし、石岡の醤油産業が盛んなときに野田の醤油業の方から提携の話があったそうです。
しかし、その当時の石岡の人たちは鼻息も荒くすぐ断ってしまったと聞いています。
ご調査のお役に立つ話かどうかはわかりませんが、噂話を聞いたものですからお伝えします。
調査の進展と町のご発展をご祈願いたします。