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富田北向観音(石岡)

 石岡の昔の街立てをどのように作ったのか?
この北向観音を見て考えてみるとわかりやすいように思います。

石岡市街地といわれる旧町内の通りは比較的碁盤の目を意識した作りがされていたようです。
もっとも人や荷馬車が通ることを考えていたくらいだから通りの幅はかなり狭かったのかもしれない。

 北向観音は長野善光寺の南向きに対の形で上田にある北向観音が有名だ、極楽浄土を願う寺に向かい合う向きにある全国の北向観音は拝む人が南(天竺)を向くようになる。
現世の福を願うというが、ここは十一面観音を祭っている。

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歴史を紐解いてみると、意外に面白いことがわかる。
この北向観音は今の位置の50m、ほど手前にあったものをここに動かしたのそうだ。
何時頃のことだろうか? よくわからない。

この観音堂は今の常陸国総社の境内に神社の神宮寺として建立されたものだそうだ。
それが元禄年間(1688-1703)に、その神宮寺を今の50mほど北側の富田町の中に移したという。

しかし、その後、寺も現在地に移された。
下の地図が書かれたのが、天保(1830-1843年)年間というのでこの時には既に現在地にあった。
従って、この間のことになる。観音堂のみが残ったという。

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この北向観音のとなりは府中酒造さんがあり、登録文化財の建物がいくつか残されています。
反対側は平福寺(常陸大掾氏の歴代の五輪塔がある)の入口である。

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境内にある地蔵堂。

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北向観音は府中(石岡)の街を南端から北を向いて見守っているようである。

 この北向観音堂には、市指定文化財「鰐口(わにぐち)」が残されている。
この鰐口には天仁年間(1108~1110)の銘があったとも伝えられているというが現在は確認できない。

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この北向観音が府中の南端で北を向いているのに対し、北側にあったのは現在国分寺の境内に山門だけがのこる「千手院」である。

千手院は大きなお寺で、旧355号(中町通り、香丸通り)の先、泉町の交差点の少し先に、通りの突き当たりのようにあったのである。

これは明らかに意図的にこの石岡の街立てを意識して作られたものだろう。
江戸時代になってからのことだろうか?

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江戸時代の石岡の古地図を載せておきます。(クリックで拡大します)

石岡古地図s2

この富田北向観音は地図の真ん中下のあたりに「トミタ」と書かれているところです。
この1本左の道が355号線の旧水戸街道ですが、町の北(地図の上側)に「千手院」があります。



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石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/08 19:37
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