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地方、地区名(3)

 奥州三関のもう一つ「勿来関(なこそのせき)」について少し考えてみました。

古東海道の延長線上に設けられた「勿来関(なこそのせき)」はいつごろ出来たのでしょうか。
最初に作られた古東海道は各国の国府をつないでいました。

この東海道の最後が常陸国(茨城県)ですから、この国府が石岡に有り、ここが街道としては終点です。

「常陸」の名前の由来についてはいくつもの説が唱えられています。
もっとも有力とされているのが「直道(ひたみち)」説です。

常陸国に来るには海・山を越えやってきます。するとこの常陸国は平らな平野が広がっています。
どこまでも続くまっすぐな道(陸)の国だというので「ひたみち」となり「ひたち」となったというものです。

これにはある程度根拠もあります。常陸国風土記にも同じような話が書かれています。
東北地方は最初道の奥にある地域という意味で「道奥(みちのく)」と呼ばれ、それが次第に平地の奥という意味で「陸奥(むつ)」と呼ばれるように変わっていったのです。
常陸(ひたち)も直道 → 常道 → 常陸 になっていったというものです。

しかし、これもひとつの解釈で、「日高見国」が「ひたち」の起源という考え方もあります。

日本全国の「日高」の地名を追っていくと面白いことが分かってきます。

古くから歌舞伎にも安珍・清姫伝説として取り入れられている「道成寺」があるのが「和歌山県日高郡日高川町」です。

ですからここが大和に東進してくる前の「日高見国」と言えそうです。

その後、大和王朝が成立した頃にはこの常陸国あたりにあったのです。

 『日本書紀』には、景行天皇の二七年二月条で東国事情を調査して帰った武内宿祢が東夷の中に日高見国があって土地が肥えていて広いから討って取るべしと天皇に進言しています。

この奪い取る地(日高見国)は明らかに蝦夷地ですが、ここ常陸国(茨城)がその地と考えてもいいと思います。

ですから黒坂命(くろさかのみこと)が原住民(蝦夷)たちを制圧しながら霞ヶ浦の入口(美浦村)から兵を進めて、日立市の少し北(高萩市の西)竪破山(たつわれさん)まで進行してそこで死んだと言われているのです。

そして、フツヌシ(香取神)とタケミカズチ(鹿島神)をこの地の平定につかわしたのではないでしょうか。
この二神は出雲の平定の国譲りでも活躍しています。

時代の前後はよくわかりませんが、まだ常陸国が蝦夷地であった時に、ここ常陸は「日高見国」と呼ばれていたのです。
このため「日高見」が「常陸」となったというように考えることも自然なのです。

伊勢などからみて、最も日が高くなる夏至の頃に日が昇る方向は東よりも地軸の傾き(23.5度)ほど北方向から太陽が上りますので、東北方向と言えないこともないと思います。

鬼門(=良いも悪いも最も大きな力がやってくる方向)が丑寅(=艮うしとら)の方向と鬼門が一致してくるのかもしれません。

日高見

常陸が「日高見の国」といわれていたと書きましたが、これは先に述べた日本書紀の記述の他に、常陸国風土記にも見られます。

「黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のためここで亡くなった。このとき角枯を黒前山と改めた。黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたやうで、野や道を輝かせた。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国といふ」

黒坂命は地図にある「竪割山」で病に倒れたとなっています。
この地まで蝦夷を追っていったのでしょう。

そしてその亡骸を「日高見の国」へ運んで埋葬したというのです。この場所は信太(しだ)の国ということですので、霞ヶ浦の入口にある「美浦村」と考えられます。

この表現からすると「日高見の国」というのは当時の蝦夷地というのではなく、蝦夷地と接する大和朝廷の勢力が及ぶ地域の境界あたりを指しているように思います。
日が高く昇る地ということもできそうです。

さて「勿来関」はこの竪割山より北にあります。古東海道の終点都市「石岡」から道は延長されていました。
水戸市の那珂川沿いの「渡里町」の那珂川を挟んで両側に駅屋(うまや)がありました。
そこから道はいくつかに分かれたようです。

一つは那珂川をさかのぼり、城里町を通り、もう一つは久慈川をさかのぼって今の水郡線に沿って北上します。
これは、その後の八幡太郎(源義家)らが征夷大将軍として進軍した時にこちらを通ったと私は考えています。

そして現在の田村市(坂上田村麻呂から名前をつけた)(旧船引町など)あたりで東山道に合流したようです。

海寄りの道はこの竪割山の方から北上して「いわき」の手前の「勿来」に来ます。
「な・・・そ」というのは、学生時代に古文で習った「・・・するな」という構文と考えられるといいます。

すなわち「な来そ」=「来るな」という意味ではないかと言われています。

ここからこっちには来るなというのは「蝦夷の人たちが来ないでくれ」と言っていると解釈するのが普通です。

ただ、はっきりした場所も特定されていないし、設置された時期も明確ではありません。
でも状況から考えて、黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなった後ですよね。

さて、ここまで考えてきて、「茨城」の名前の由来をもう一度考えてみたいと思います。

常陸国風土記には次のように書かれています。

「昔、山の佐伯(さへき)、野の佐伯といふ国巣(くず)(俗に「つちくも」または「やつかはぎ」)がゐた。普段は穴を掘ってそこに住み、人が来れば穴に隠れ、去った後でまた野に出て遊んでゐた。まるで狼か梟ででもあるかのやうに、あちこちに潜んでゐては、物を盗み、祭に招かれても様子がをかしく、風習がまったく異なってゐた。あるとき、大(おほ)の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、あらかじめ彼らの住む穴に茨(うばら)の刺を施し、突然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。佐伯たちは、あわてて穴に逃げ帰ったが、仕掛けられた茨の刺がからだ中に突き刺さり、あへなく皆死んでしまった。このときの茨から、茨城の名となった。 諺に「水泳(みづくぐ)る茨城の国」といふ。
別の話では、山の佐伯、野の佐伯は、山野の賊を率ゐて自ら長となり、国中を盗みや殺しをして廻ってゐた。彼らと戦ふために、黒坂命は、茨をもって城を造った。その土地の名を茨城といふやうになった。」(口訳・常陸国風土記より)

この黒坂命が大の一族であることがわかります。
一般には多氏(おおし)と言われる皇室の一番古いとされる一族です。

このように考えていけば、この地にいた蝦夷人(縄文人)たちがどのように扱われ、制圧されていったかを見てとれるのではないでしょうか。

ですから茨城という地名の名前はあまり好きになれません。
ましてやバラの花が咲いている野原が広がっていた場所だなんて解釈することなどできるはずもないのです。

潮来(いたこ)は昔「板来」と書きました。これを「潮来」に改めたのは水戸光圀だと言われています。
この地方では潮宮をイタミヤと読むように潮は「いた」という読み方をしていたのです。

むかし、この地に進出した大和朝廷の武人(タカミカヅチなど)はこの潮来の地に原住民を大量に集めました。
そして、皆殺しにしたというのです。
「いたく殺した」が「板来(いたこ)」になったと言われているのです。

このような内容を不快と思う方もおられるでしょう。

でも真実を見極めるためには、歴史の記述に隠れている裏も見ていかないと、その後の歴史観を左右するのです。

真実かどうかはあまりはっきりしていませんが、ヤマトタケルが鏡をかざすとその地にいた人々はひれ伏して皆その後ろに従ったと本当に思うのでしょうか?

次回に続きます。

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地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/06 10:32
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