大生神社(2)
昨日書いた元鹿島といわれる「大生(おおう)神社」について、記事を続けます。
この神社を理解するためには常陸国風土記の内容を少し紐解いておかねばならないようです。
奈良時代初期713年頃にまとめられたと言われる常陸国風土記の行方郡の項に「建借間命(たけかしまのみこと)」(=鹿島神宮の祭神=タケミカヅチ)について書かれた記述がある。
「天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間(たけかしま)命を遣はされた。
建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆(あ ば)の島に宿を設けたとき、海の東の浦を遥かに望むと、煙が見えた。軍人たちはこもごも賊軍ではないかと疑った。建借間の命は、天を仰いで誓(うけひ)して、「もし天人の煙ならば、立ち来たって我が上を覆へ。もし荒ぶる賊の煙ならば、遠ざかって海へ靡け」といふと、煙は、海へ向かって遠く流れて行った。かうして賊であることがわかったので、軍兵みなに命じて朝飯を早く済ませて、軍は海を渡った。一方、二人の国栖(く ず)、夜尺斯(や さかし)、夜筑斯(や つくし)は、賊の長となり、穴を掘り、小城を造って、そこに住んでゐた。官軍を見るとこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴(とりごと)・天の鳥笛(とりぶえ)は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島(き しま)ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり、ふつに斬ると言った所が、布都奈(ふ つ な)の村であり、安く斬ると言った所が安伐(やすきり)の里であり、吉(よ)く斬ると言った所が、吉前(え さき)の邑である。
板来の南の海に、周囲三四里ほどの洲がある。春には香島や行方方面から男女が挙ってやって来て、蛤、うば貝その他いろいろの貝を拾ふ。
・・・・(一部略)
田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おほふ)の里がある。昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、相鹿の丘前(をかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど の)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。」
(口訳・常陸国風土記より抜粋)
これによると、タケミカヅチはまず今の霞ヶ浦の南岸にある阿波(アバ)(大杉神社のあたり)に滞在し、流れ海(霞ヶ浦)の北側で暮らす人の煙を眺めていた。そしてそれが敵(蝦夷人)か味方(大和人)かを探っていた。
そして、それが敵(蝦夷人)であることを知り、制圧のために流れ海(霞ヶ浦)を舟で軍を進めます。
対岸で、そこの住民を従わせようとしますが、その住民たちは素早く自分たちのすみかである穴などに潜り込んで出てこなくなります。
こまったタケミカヅチは、天岩戸の話よろしく、7日7夜の間、火を焚き・歌い踊り・笛を吹いてどんちゃん騒ぎをしたのです。
最初は穴ぐらに潜ってしまっていた地元の原住民たちは、その様子を伺いながら皆出てきて、その宴に参加してきたのです。
するとどうでしょう。彼らの住居としていた穴を塞いで、そこに出てきた原住民を皆捉えて、火を放ち皆殺しにしてしまったのです。
(これは茨城の名前の起こりとなった黒坂命が土蜘蛛の棲家を茨で塞いで殺したのと同じです)
その原住民を痛く殺したために、この地が「伊多久(板来)」になり、今の潮来という名前になったというのです。

この地を制圧したタケミカヅチの一族(=多氏)はこの大生の地に自分たちの棲家を建て、自分たちの大和にあった氏神をこの地にも持ってきたのが、この大生神社の始まりではないかと思います。

そして、この神社にタケミカヅチが祀られ、その後鹿島神宮に祀られるようになった。
でもこの神社の創建はこのあたりの古いたくさんの神社と同じ大同元年(806)であると言われている。
元鹿島というには少し時代が後のような気がする。
この大生神社がもっと古くからある神社としても、では鹿島神宮の方が新しい?
そんなことはありません。
そんな鹿島神宮は安易なものではないと思います。
これは私の勝手な解釈ですが、鹿島神宮は大昔は原住民(蝦夷人)たちの神聖な神を祀る場所だったのではないでしょうか。
この地を制した大和朝廷の人々は、この地の住民を治めるのに、鹿島(香島)に強大な力を感じてここを原住民たちや自分たちの共存共栄をはかるシンボルとしたのではないでしょうか。
ですから最初は大生神社に祭られたタメミカヅチを鹿島神宮に移したのかもしれません。

大生神社の参道はこのように長くのびています。
鹿島神宮の神官?であったと言われる中臣氏と中臣鎌足(藤原釜足)とのつながりはあるはずですが、鎌足が常陸国で生まれたのか、大和国で生まれたのかは定かではありません。
常陸国出身という説はかなり確率は高いと思っています。
奈良の御蓋山(みかさやま)に藤原氏の象徴として建てられた「春日大社」は鎌足の子「藤原不比等」が710年に建立したものです。
この神社は常陸国中臣氏の祭神「タケミカヅチ」が白鹿に乗って山に降り立ったとされています。
この藤原不比等の子供(三男)が常陸国風土記を編纂したとも言われている常陸国守であった藤原宇合(うまかい)ですので何かつながりが感じられます。

大生神社の本殿の現地説明板です。

この神社に伝わる祭りに「巫女舞」があります。13歳までの少女が毎年選ばれます。
石岡染谷地区に伝わる十二座神楽の巫女舞も小学生が選ばれます。(2名)
この神事も同じようなものとも言えます。
さて、この大生地区には5世紀頃の築造といわれる古墳がたくさん(百十余基)残されています。
この神社の西側に分布していて、県内でも屈指のものです。
この古墳の埋葬者は多氏一族であると言われています。
これまでタケミカヅチについて書いてきましたが、この地にヤマトタケルがやはり上陸し、ここから西側の行方方面を進んだという伝承が残されています。
東京湾(走水)を渡るときに妻である弟橘媛が入水して死に別れたのに、この近くの相鹿(あうか)で天から降りてきて再会したとも言われているのです。(常陸国風土記)
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この神社を理解するためには常陸国風土記の内容を少し紐解いておかねばならないようです。
奈良時代初期713年頃にまとめられたと言われる常陸国風土記の行方郡の項に「建借間命(たけかしまのみこと)」(=鹿島神宮の祭神=タケミカヅチ)について書かれた記述がある。
「天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間(たけかしま)命を遣はされた。
建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆(あ ば)の島に宿を設けたとき、海の東の浦を遥かに望むと、煙が見えた。軍人たちはこもごも賊軍ではないかと疑った。建借間の命は、天を仰いで誓(うけひ)して、「もし天人の煙ならば、立ち来たって我が上を覆へ。もし荒ぶる賊の煙ならば、遠ざかって海へ靡け」といふと、煙は、海へ向かって遠く流れて行った。かうして賊であることがわかったので、軍兵みなに命じて朝飯を早く済ませて、軍は海を渡った。一方、二人の国栖(く ず)、夜尺斯(や さかし)、夜筑斯(や つくし)は、賊の長となり、穴を掘り、小城を造って、そこに住んでゐた。官軍を見るとこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴(とりごと)・天の鳥笛(とりぶえ)は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島(き しま)ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり、ふつに斬ると言った所が、布都奈(ふ つ な)の村であり、安く斬ると言った所が安伐(やすきり)の里であり、吉(よ)く斬ると言った所が、吉前(え さき)の邑である。
板来の南の海に、周囲三四里ほどの洲がある。春には香島や行方方面から男女が挙ってやって来て、蛤、うば貝その他いろいろの貝を拾ふ。
・・・・(一部略)
田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おほふ)の里がある。昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、相鹿の丘前(をかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど の)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。」
(口訳・常陸国風土記より抜粋)
これによると、タケミカヅチはまず今の霞ヶ浦の南岸にある阿波(アバ)(大杉神社のあたり)に滞在し、流れ海(霞ヶ浦)の北側で暮らす人の煙を眺めていた。そしてそれが敵(蝦夷人)か味方(大和人)かを探っていた。
そして、それが敵(蝦夷人)であることを知り、制圧のために流れ海(霞ヶ浦)を舟で軍を進めます。
対岸で、そこの住民を従わせようとしますが、その住民たちは素早く自分たちのすみかである穴などに潜り込んで出てこなくなります。
こまったタケミカヅチは、天岩戸の話よろしく、7日7夜の間、火を焚き・歌い踊り・笛を吹いてどんちゃん騒ぎをしたのです。
最初は穴ぐらに潜ってしまっていた地元の原住民たちは、その様子を伺いながら皆出てきて、その宴に参加してきたのです。
するとどうでしょう。彼らの住居としていた穴を塞いで、そこに出てきた原住民を皆捉えて、火を放ち皆殺しにしてしまったのです。
(これは茨城の名前の起こりとなった黒坂命が土蜘蛛の棲家を茨で塞いで殺したのと同じです)
その原住民を痛く殺したために、この地が「伊多久(板来)」になり、今の潮来という名前になったというのです。

この地を制圧したタケミカヅチの一族(=多氏)はこの大生の地に自分たちの棲家を建て、自分たちの大和にあった氏神をこの地にも持ってきたのが、この大生神社の始まりではないかと思います。

そして、この神社にタケミカヅチが祀られ、その後鹿島神宮に祀られるようになった。
でもこの神社の創建はこのあたりの古いたくさんの神社と同じ大同元年(806)であると言われている。
元鹿島というには少し時代が後のような気がする。
この大生神社がもっと古くからある神社としても、では鹿島神宮の方が新しい?
そんなことはありません。
そんな鹿島神宮は安易なものではないと思います。
これは私の勝手な解釈ですが、鹿島神宮は大昔は原住民(蝦夷人)たちの神聖な神を祀る場所だったのではないでしょうか。
この地を制した大和朝廷の人々は、この地の住民を治めるのに、鹿島(香島)に強大な力を感じてここを原住民たちや自分たちの共存共栄をはかるシンボルとしたのではないでしょうか。
ですから最初は大生神社に祭られたタメミカヅチを鹿島神宮に移したのかもしれません。

大生神社の参道はこのように長くのびています。
鹿島神宮の神官?であったと言われる中臣氏と中臣鎌足(藤原釜足)とのつながりはあるはずですが、鎌足が常陸国で生まれたのか、大和国で生まれたのかは定かではありません。
常陸国出身という説はかなり確率は高いと思っています。
奈良の御蓋山(みかさやま)に藤原氏の象徴として建てられた「春日大社」は鎌足の子「藤原不比等」が710年に建立したものです。
この神社は常陸国中臣氏の祭神「タケミカヅチ」が白鹿に乗って山に降り立ったとされています。
この藤原不比等の子供(三男)が常陸国風土記を編纂したとも言われている常陸国守であった藤原宇合(うまかい)ですので何かつながりが感じられます。

大生神社の本殿の現地説明板です。

この神社に伝わる祭りに「巫女舞」があります。13歳までの少女が毎年選ばれます。
石岡染谷地区に伝わる十二座神楽の巫女舞も小学生が選ばれます。(2名)
この神事も同じようなものとも言えます。
さて、この大生地区には5世紀頃の築造といわれる古墳がたくさん(百十余基)残されています。
この神社の西側に分布していて、県内でも屈指のものです。
この古墳の埋葬者は多氏一族であると言われています。
これまでタケミカヅチについて書いてきましたが、この地にヤマトタケルがやはり上陸し、ここから西側の行方方面を進んだという伝承が残されています。
東京湾(走水)を渡るときに妻である弟橘媛が入水して死に別れたのに、この近くの相鹿(あうか)で天から降りてきて再会したとも言われているのです。(常陸国風土記)


歴史の裏側と言うものがあるのですね~
長野の諏訪大社も弥生人が縄文人を追い払ったと聞きました
古事記や日本書紀も都合よく作られたと言う方もいますね~
僕には真実は判りませんが、何かが隠ぺいされてる気がします
興味深く読ませて頂きました
貴重なお話をありがとうございます
潮来の名前の由来は厳しく・悲しい出来事が
語り継がれていたのですね。
江戸周辺に住んでいると、お寺にしても
古くても太田道灌という室町時代が
多いのですが、茨城方面は、
更に古くからの歴史を刻んできているのですね。
寺社は平安・それ以前
民家は江戸・明治そんな感じなのでしょうか。
えーと、石岡を改めて調べさせて
頂きましたら、柏から特急で40分位
でしょうか。俄かに近いと改めて
思いました。でも一泊した方が
楽しめそうですね。
それぐらい凄そうです。
またお邪魔します。
今の歴史はかなりごまかしがありますね。
でもそれでもいいのかもしれませんが、隠されたことも知りたい思いがいつもしています。
> 長野の諏訪大社も弥生人が縄文人を追い払ったと聞きました
諏訪大社も出雲の国譲りで出雲人が逃げ込んだ場所とも言いますね。
この出雲族も常陸の筑波山西から北にたくさんやってきています。
> 興味深く読ませて頂きました
> 貴重なお話をありがとうございます
最初に書きましたが、いい加減な話かもしれませんので「こんな話もある」
という程度に読み流しておいてくださいね。
かるがもさんのいつも神社参りの神聖な気持ちはとても大切だと思います。
僕はいつも斜めから見てしまい、肝心なお参りがおろそかになっています。
> 潮来の名前の由来は厳しく・悲しい出来事が語り継がれていたのですね。
これも、どこまで本当なのかとも思っていますが、風土記に書かれているので
ある程度信憑性がありそうです。
> 江戸周辺に住んでいると、お寺にしても 古くても太田道灌という室町時代が
> 多いのですが、茨城方面は、更に古くからの歴史を刻んできているのですね。
江戸は後から開拓されていますので、太古の時代は南部一面は湿地帯でしたね。
> 寺社は平安・それ以前 民家は江戸・明治そんな感じなのでしょうか。
そうですよね。それでも川越なども小江戸で人が集まります。
こちらの歴史は古すぎて今日もを持たれません。
奈良京都みたいに綺麗ではありませんので。
> えーと、石岡を改めて調べさせて頂きましたら、柏から特急で40分位
> でしょうか。俄かに近いと改めて思いました。でも一泊した方が
> でも一泊した方が楽しめそうですね。
意外に近いのですが、こちらに来て回るのに足が不便です。駅横の観光案内所
でもレンタサイクルなどをしていますが・・・
まずは駅周辺(普通の人は何もないと思うでしょう)を歩いて見てもいいかもしれません。
駅の下りホームの東京寄りの壁にきれいな国分寺鐘伝説のモザイク絵があります。
この駅に来て見ていない人がほとんどですので降りたら改札を出る前にご覧下さい。
2月半ば~3月3日に市内で雛めぐりをやっています。
知られていませんが少しだけ雰囲気が違っています。
来れれるときは一声かけてください。
妻と初詣を兼ねて鹿島神宮に行った後、大生古墳群を見学していて偶然、大生神社に辿り着きました。
神社周辺の石造物の数や長い参道脇の荘厳な木立、規模の大きい古墳群を見ていて、大生氏という人々は一体どんな人たちだったのだろう、と興味を持ち、調べていたらRomanさんの「まほら」に辿り着きました。
征服する側・される側の伝説は凄惨なものが多いですがそれにしても「潮来」の由来は恐いですね。
いろいろ行かれていますね。
大生古墳群はまた別な日に私も行きました。
常陸風土記の伝説の残る行方のちも探して行ったりしました。
確かに潮来の名前は「いたく殺した」から来ているようですが、今の潮来の字にしたのは黄門さん(光圀)だといわれていますね。
古墳もいろいろあるんでしょうね。
行方の三昧塚古墳は通り沿いで公園になっていて興味はおありではないかもしれませんが、ここの馬の飾りのついた冠はとても興味深いと思いました。またかすみがうら市の富士見塚古墳からみた夕日(昨年)はきれいでした。
最近ブログの更新間隔があいてしまいましたが、またそのうち始めたいと思います。
ご訪問コメントありがとうございました。
最近、私もブログの更新ができず、妻が気を遣って応援してくれます。(いい妻を持ったものです。)
石岡の舟塚山や府中愛宕山古墳もそうですが、三昧塚も富士見塚古墳も、いずれもカメラを忘れてしまい、あまりに立派だったので妻を連れて再訪したのですが、今度は天候(とカメラの腕)が悪く、残念ながらブログにできずにいます。
確かに夕陽が綺麗に見えそうですね。
霞ヶ浦は春先の春霞も何とも言えず情緒があると思いますので、温かくなったらまた行こうと思います。
ブログの更新、楽しみにしています。