蚕養神社(日立市豊浦)
誰が何時頃から言いだしたのか「常陸国の三蚕神社」というものがあるそうだ。
今日紹介する日立市の「蚕養神社(こがいじんじゃ)」、以前紹介したつくば市の「蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)」(記事はこちらの金色姫伝説)、もう一つは神栖市の「蚕霊神社(さんれいじんじゃ)」を常陸国の三蚕神社と紹介されている。
どれもそれ程大きな神社ではない。しかし、皆古くからある神社で、創建などはよくわからない。
しかし三ヶ所すべてに、地名として豊浦と呼ばれる場所に有り、金色姫伝説の説明看板が掲げられている。
その中で、もっとも豊浦という地名が広範囲に使われ、小学校・中学校までその名前があるのはこの日立市北部の蚕養神社だけである。
どう説明して良いかわからずにいたが、訪れてみたが少しは感じるかと思ったが、なお更わからなくなってきた。
では少しずつ、写真を見ながら考えてみたい。

6号国道の左右に神社があり、道路で分断されたように見える。
そして右が蚕養神社で、左側は館山神社をはじめいくつかの古い神社の祠が連なる。
この左右の神社の氏子は共通であるようだ。

こちらが西側の館山神社と書かれた神社。上に登る石段が続く。

東側(海側)の神社が「蚕養神社」である。
入口の石柱には「蚕養浜道」と彫られていた。いまこのあたりを小貝浜といっているが、昔は蚕養浜と書いていたのだろう。
奥に見えるのは神社の拝殿ではなく、社務所だ。

社務所の脇に立てられていた看板。少し薄くなっているが、写真をクリックして拡大して頂ければ読むことができると思います。
タイトルは「日本最初 蚕養神社」となっています。
内容もどこまで理解してよいうのか全く不明。
この小貝浜の手前に「日高」という地名があり、このあたりも昔は日高見国と呼ばれていたのではないだろうか?
養蚕に関する神社は日本にたくさんあるが、ここ常陸国の神社がそれらの総本山になっているのはのは確かで、かなり古くから信仰されてきたことは間違いないだろう。

神社へはこの脇の階段を上って行く。

登ったところに、ここにも「金色姫伝説」が書かれていた。
つくば市の蚕影山神社に書かれていたものと内容も少し異なっているがインド(天竺)から船に乗ってやってくるのは皆同一である。
後から神栖市の蚕霊神社にも行ってみたが、同じ伝説の看板が掲げられていた。
調べたところこの話の出処は享和2年(1802)の「養蚕秘録(全三巻)」のなかに書かれている話が元になっているような気がする。
この書物は今の兵庫県(但馬の国)養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が18歳の時に、奥州(今の福島)で蚕種を買い求めて、研究し、蚕の起源から種類、伝説、飼育法等を絵入りで解説したもので、この伝説が載っているというのです。
上垣守国の偉業を記念して兵庫県養父郡大屋町に「上垣守国 養蚕記念館」が建てられています。
また海外でも早くから注目され、オランドやフランス、ドイツ語などに翻訳されて古くからヨーロッパに広まっていたといいます。
どうも私にはこの三ヶ所が、上垣守国が奥州に来て伝説を聞いて書物に表した金色姫のたどり着いたという「豊浦」は自分のところだと行っているように見えます。
真実はどうなのでしょうか?

蚕養神社の拝殿です。この蚕養神社は「日本最初」、つくば市神郡の蚕影山神社は「日本一社」、神栖市の蚕霊神社は「日本養蚕事始」とそれぞれにうたっています。

こちらが本殿です。少し痛みが激しくなっています。
この神社を調べていたら、ここは明治時代のはじめまでは「於岐都説(おきつせ)明神」と言われていたとありました。
常陸国風土記に出てくる於岐都説(おきつせ)神は三大実録では鹿島神宮・香取神宮と並んで東国三社の一つ「息栖神社」のことだとされています。(息栖神社はこちらを参照ください → その1、その2、その3)
この日立の蚕養神社は昔、この息栖神社から分社され於岐都説明神と言われたというのです。
実は息栖神社は大同二年(807)に神栖市日川地区から、鹿島・香取とちょうど直角三角形になるような現在の息栖の地に移されています。
そして、その日川の地にもう一つの常陸三蚕神社である「蚕霊神社」があるんです。
この日立の蚕養神社を「於岐都説明神」と呼んでいたということなら、それはもうきっと1200~1300年以上前かもしれません。
また根拠はありませんがこの常陸の三蚕神社は皆、息栖神社に関係しているのかもしれません。
特につくば市神郡の蚕影(山)神社はどのようにつながるのかはわかりません。
しかし、全国に広まっている蚕影神社の総本山であり、群馬県などには40箇所以上の蚕影神社があるといいます。
常陸国には水戸の静神社や常陸太田の長幡部神社などの機織りの神を祀る古社がありますが、それらは機織りの機械や、布を織る人たちの信仰を集めていますが、こちらの三蚕神社は織物のもととなる蚕(かいこ)育て、繭を作る人々の信仰を集めています。
そして、全国の農家で繭が作られるようになるとそこに、この三蚕神社から分霊して、養蚕の守り神としての神社が作られていったようです。
それが証拠に、全国にこの三蚕神社と同じ名前、似た名前の養蚕神社がたくさんありますがそのほとんどが、常陸国のこれらの神社から分霊されているようです。
(詳しくは調べていませんので、違っているかもしれません。)
東京都立川市の五日市街道沿いに阿豆佐味天神社の境内に「蚕影神社(こかげじんじゃ)」があります。
この神社は猫の像が飾られており、猫返し神社とも言われています。
ここにお参りすると、いなくなったペットの猫が戻ってくると言われています。
養蚕農家にとっては天敵のねずみを捕まえてくれる猫を大切にしていたのです。
しかし、この立川の蚕影神社は名前からして、恐らくつくば市の蚕影山神社から江戸時代初期に分霊されたと思いますが、常陸国の三蚕神社はどこにも猫の像などは見当たらなかったと思います。

祭神の椎産霊命(わくむすびのみこと)は穀物の生育を司る神であり、宇気母智命(うけもちのみこと)も食物全般の神で、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子で「事を知る」神様だという。
これでは息栖神社との関係は推察することはできない。
こうなると息栖神社の境内にある芭蕉の句碑
「この里は 気吹戸主の 風寒し」
の気吹戸主(いぶきとぬし)が気になってきました。
気吹戸主はいざなぎの命が黄泉の国から戻る時に、汚いものなどを洗い流して綺麗に蘇らせてくれた神様です。

神社の裏手から豊浦、川尻、日高の方面が一望できる。
← よろしければクリックお願いします。
今日紹介する日立市の「蚕養神社(こがいじんじゃ)」、以前紹介したつくば市の「蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)」(記事はこちらの金色姫伝説)、もう一つは神栖市の「蚕霊神社(さんれいじんじゃ)」を常陸国の三蚕神社と紹介されている。
どれもそれ程大きな神社ではない。しかし、皆古くからある神社で、創建などはよくわからない。
しかし三ヶ所すべてに、地名として豊浦と呼ばれる場所に有り、金色姫伝説の説明看板が掲げられている。
その中で、もっとも豊浦という地名が広範囲に使われ、小学校・中学校までその名前があるのはこの日立市北部の蚕養神社だけである。
どう説明して良いかわからずにいたが、訪れてみたが少しは感じるかと思ったが、なお更わからなくなってきた。
では少しずつ、写真を見ながら考えてみたい。

6号国道の左右に神社があり、道路で分断されたように見える。
そして右が蚕養神社で、左側は館山神社をはじめいくつかの古い神社の祠が連なる。
この左右の神社の氏子は共通であるようだ。

こちらが西側の館山神社と書かれた神社。上に登る石段が続く。

東側(海側)の神社が「蚕養神社」である。
入口の石柱には「蚕養浜道」と彫られていた。いまこのあたりを小貝浜といっているが、昔は蚕養浜と書いていたのだろう。
奥に見えるのは神社の拝殿ではなく、社務所だ。

社務所の脇に立てられていた看板。少し薄くなっているが、写真をクリックして拡大して頂ければ読むことができると思います。
タイトルは「日本最初 蚕養神社」となっています。
内容もどこまで理解してよいうのか全く不明。
この小貝浜の手前に「日高」という地名があり、このあたりも昔は日高見国と呼ばれていたのではないだろうか?
養蚕に関する神社は日本にたくさんあるが、ここ常陸国の神社がそれらの総本山になっているのはのは確かで、かなり古くから信仰されてきたことは間違いないだろう。

神社へはこの脇の階段を上って行く。

登ったところに、ここにも「金色姫伝説」が書かれていた。
つくば市の蚕影山神社に書かれていたものと内容も少し異なっているがインド(天竺)から船に乗ってやってくるのは皆同一である。
後から神栖市の蚕霊神社にも行ってみたが、同じ伝説の看板が掲げられていた。
調べたところこの話の出処は享和2年(1802)の「養蚕秘録(全三巻)」のなかに書かれている話が元になっているような気がする。
この書物は今の兵庫県(但馬の国)養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が18歳の時に、奥州(今の福島)で蚕種を買い求めて、研究し、蚕の起源から種類、伝説、飼育法等を絵入りで解説したもので、この伝説が載っているというのです。
上垣守国の偉業を記念して兵庫県養父郡大屋町に「上垣守国 養蚕記念館」が建てられています。
また海外でも早くから注目され、オランドやフランス、ドイツ語などに翻訳されて古くからヨーロッパに広まっていたといいます。
どうも私にはこの三ヶ所が、上垣守国が奥州に来て伝説を聞いて書物に表した金色姫のたどり着いたという「豊浦」は自分のところだと行っているように見えます。
真実はどうなのでしょうか?

蚕養神社の拝殿です。この蚕養神社は「日本最初」、つくば市神郡の蚕影山神社は「日本一社」、神栖市の蚕霊神社は「日本養蚕事始」とそれぞれにうたっています。

こちらが本殿です。少し痛みが激しくなっています。
この神社を調べていたら、ここは明治時代のはじめまでは「於岐都説(おきつせ)明神」と言われていたとありました。
常陸国風土記に出てくる於岐都説(おきつせ)神は三大実録では鹿島神宮・香取神宮と並んで東国三社の一つ「息栖神社」のことだとされています。(息栖神社はこちらを参照ください → その1、その2、その3)
この日立の蚕養神社は昔、この息栖神社から分社され於岐都説明神と言われたというのです。
実は息栖神社は大同二年(807)に神栖市日川地区から、鹿島・香取とちょうど直角三角形になるような現在の息栖の地に移されています。
そして、その日川の地にもう一つの常陸三蚕神社である「蚕霊神社」があるんです。
この日立の蚕養神社を「於岐都説明神」と呼んでいたということなら、それはもうきっと1200~1300年以上前かもしれません。
また根拠はありませんがこの常陸の三蚕神社は皆、息栖神社に関係しているのかもしれません。
特につくば市神郡の蚕影(山)神社はどのようにつながるのかはわかりません。
しかし、全国に広まっている蚕影神社の総本山であり、群馬県などには40箇所以上の蚕影神社があるといいます。
常陸国には水戸の静神社や常陸太田の長幡部神社などの機織りの神を祀る古社がありますが、それらは機織りの機械や、布を織る人たちの信仰を集めていますが、こちらの三蚕神社は織物のもととなる蚕(かいこ)育て、繭を作る人々の信仰を集めています。
そして、全国の農家で繭が作られるようになるとそこに、この三蚕神社から分霊して、養蚕の守り神としての神社が作られていったようです。
それが証拠に、全国にこの三蚕神社と同じ名前、似た名前の養蚕神社がたくさんありますがそのほとんどが、常陸国のこれらの神社から分霊されているようです。
(詳しくは調べていませんので、違っているかもしれません。)
東京都立川市の五日市街道沿いに阿豆佐味天神社の境内に「蚕影神社(こかげじんじゃ)」があります。
この神社は猫の像が飾られており、猫返し神社とも言われています。
ここにお参りすると、いなくなったペットの猫が戻ってくると言われています。
養蚕農家にとっては天敵のねずみを捕まえてくれる猫を大切にしていたのです。
しかし、この立川の蚕影神社は名前からして、恐らくつくば市の蚕影山神社から江戸時代初期に分霊されたと思いますが、常陸国の三蚕神社はどこにも猫の像などは見当たらなかったと思います。

祭神の椎産霊命(わくむすびのみこと)は穀物の生育を司る神であり、宇気母智命(うけもちのみこと)も食物全般の神で、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子で「事を知る」神様だという。
これでは息栖神社との関係は推察することはできない。
こうなると息栖神社の境内にある芭蕉の句碑
「この里は 気吹戸主の 風寒し」
の気吹戸主(いぶきとぬし)が気になってきました。
気吹戸主はいざなぎの命が黄泉の国から戻る時に、汚いものなどを洗い流して綺麗に蘇らせてくれた神様です。

神社の裏手から豊浦、川尻、日高の方面が一望できる。


プロフィールの写真は「長楽寺」というお寺です。
篤姫などや座頭市などテレビ、映画の撮影などで何度も使われています。
場所は石岡市龍明(旧狢内)です。
あまり地図などに載っていないので比較的わかりにくい場所です。
またお越し下さい。