そばたか神社(1)-側高神
側高神社(そばたかじんじゃ)という変わった名前の神社が香取神宮の北東(鬼門)の位置にある。
場所は国道356号(利根水郷ライン)が東関東自動車道が上を通る場所(佐原サービスエリア)の近くである。
ここが香取神宮の第一摂社であり、香取神宮と密接なつながりはあるはずであるが、どうも我には神宮の鬼門の位置にあるにもかかわらずそっぽを向いているように感じるのは考えすぎなのか?
この神社のことは1月号の会報「ふるさと風」に書いた。写真を載せていないので改めてこちらにも書かせていただくことにした。
「そばたか」という名前の神社は、調べただけで千葉県14ヶ所、茨城県3ヶ所、埼玉県2ヶ所のみだ。
その他の県には見当たらない。
漢字は「側高」「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」などまちまちである。それらの中心となっているのが香取市大倉にあるこの側高神社である。
私が興味を持ったのは、この神社の神様は昔は長いあいだ名前が秘匿とされていたというのだ。
今では「側高大神」となっている。

神社の入口に「國土浄化の祖神」という大きな看板が掲げられています。
創建は神武天皇18年。これは香取神宮と同じ年である。
日本の歴史もこの年代は紀元前になるが、これをまともに信じる人も今では少ないでしょう。
ここを訪れたのは昨年12月のはじめです。写真が古くなってしまい季節感がありません。

鬱蒼とした森の中に神社へ上り階段があります。

階段を上ったところに手水舎、鳥居、古木の先に神社の拝殿が見えます。

拝殿は中に明かりが灯されており、神聖な気持ちになります。

幕につけられている紋は皇室の「桐紋」です。
これは私の中高校の時の校紋にも使われていましたので、学生帽にいつも付いていました。
今は近くの筑波大がこのマークです。

こちらが本殿です。


本殿は慶長年間(1596~1614)に造られたと考えられていますが、この説明で気になる記述があります。
この神社が香取神宮の第一摂社であるのは良いとして、建てられた場所が昔の「香取郡」と「海上郡」の境界にあると書かれています。
海上(かいじょう)郡の名前は2005年に消滅するまで使われていた郡名で、飯岡町と海上(うみかみ)町が属していました。
古代においては下海上国(しもつうなかみのくに)という大きな領域で、一部(鹿島郡の領域も入っていた)あったものが、6世紀前半に物部小事(もののべ の おごと)の活躍で、この地域に「匝瑳(そうさ)郡」が造られ、鹿島神宮・香取神宮の神域を分離したことのようだ。
香取神宮が物部氏の権力の中心として祭られたと考えると、この下総の地で少し前からいたかもしれない多氏(おおし)の一族が、この側高(そばたか)神社を建てて、香取大神の下に入る形で、全体を治める形にしたのか?
でも、多氏の一族は自分たちの神を別に祀って、その名前を秘匿として敢えて表示しなかったのではないのか。
現在残っているその他の「そばたか神社」を見るとその多くが、中世に千葉氏が自分の城内の鬼門にこの「そばたか神社」を祀ってきた経緯が読み取れるのです。
(次回に続きます)
場所は国道356号(利根水郷ライン)が東関東自動車道が上を通る場所(佐原サービスエリア)の近くである。
ここが香取神宮の第一摂社であり、香取神宮と密接なつながりはあるはずであるが、どうも我には神宮の鬼門の位置にあるにもかかわらずそっぽを向いているように感じるのは考えすぎなのか?
この神社のことは1月号の会報「ふるさと風」に書いた。写真を載せていないので改めてこちらにも書かせていただくことにした。
「そばたか」という名前の神社は、調べただけで千葉県14ヶ所、茨城県3ヶ所、埼玉県2ヶ所のみだ。
その他の県には見当たらない。
漢字は「側高」「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」などまちまちである。それらの中心となっているのが香取市大倉にあるこの側高神社である。
私が興味を持ったのは、この神社の神様は昔は長いあいだ名前が秘匿とされていたというのだ。
今では「側高大神」となっている。

神社の入口に「國土浄化の祖神」という大きな看板が掲げられています。
創建は神武天皇18年。これは香取神宮と同じ年である。
日本の歴史もこの年代は紀元前になるが、これをまともに信じる人も今では少ないでしょう。
ここを訪れたのは昨年12月のはじめです。写真が古くなってしまい季節感がありません。

鬱蒼とした森の中に神社へ上り階段があります。

階段を上ったところに手水舎、鳥居、古木の先に神社の拝殿が見えます。

拝殿は中に明かりが灯されており、神聖な気持ちになります。

幕につけられている紋は皇室の「桐紋」です。
これは私の中高校の時の校紋にも使われていましたので、学生帽にいつも付いていました。
今は近くの筑波大がこのマークです。

こちらが本殿です。


本殿は慶長年間(1596~1614)に造られたと考えられていますが、この説明で気になる記述があります。
この神社が香取神宮の第一摂社であるのは良いとして、建てられた場所が昔の「香取郡」と「海上郡」の境界にあると書かれています。
海上(かいじょう)郡の名前は2005年に消滅するまで使われていた郡名で、飯岡町と海上(うみかみ)町が属していました。
古代においては下海上国(しもつうなかみのくに)という大きな領域で、一部(鹿島郡の領域も入っていた)あったものが、6世紀前半に物部小事(もののべ の おごと)の活躍で、この地域に「匝瑳(そうさ)郡」が造られ、鹿島神宮・香取神宮の神域を分離したことのようだ。
香取神宮が物部氏の権力の中心として祭られたと考えると、この下総の地で少し前からいたかもしれない多氏(おおし)の一族が、この側高(そばたか)神社を建てて、香取大神の下に入る形で、全体を治める形にしたのか?
でも、多氏の一族は自分たちの神を別に祀って、その名前を秘匿として敢えて表示しなかったのではないのか。
現在残っているその他の「そばたか神社」を見るとその多くが、中世に千葉氏が自分の城内の鬼門にこの「そばたか神社」を祀ってきた経緯が読み取れるのです。
(次回に続きます)
茨城には由緒ある神社が多くありますね。日本の朝廷側の勢力が及ぶ辺境の地だったからなんでしょうか?
福島に行くと全然違ってきますから。
Romanさんの母校は、ひょっとして桐蔭学園ですか?
> 側高神社とは本当に変わった名前ですね。
> 茨城には由緒ある神社が多くありますね。日本の朝廷側の勢力が及ぶ辺境の地だったからなんでしょうか?
> 福島に行くと全然違ってきますから。
この神社は千葉県なんです。また茨城とは違った感じがします。
きっと福島は福島で違うのでしょうね。
> Romanさんの母校は、ひょっとして桐蔭学園ですか?
残念でした。違います。
"桐とも"なんて言われている学校で、国立(くにたち)にありますが私立です。
千葉県香取市でしたね。大ボケをかましました。m(_ _)m
> "桐とも"なんて言われている学校で、国立(くにたち)にありますが私立です。
桐朋さんの方でしたか。進学実績も抜群。桐蔭に負けず劣らず名門のご出身で。いまは、中高一貫でないと、十分な進学実績が残せないようですね。
よくご存知ですね。でもこの6年間男だけでしたよ。それは残念でした。(笑)