幻に終わった加波山鉄道
玉里の湖畔から高浜駅に戻って、急に昔の加波山鉄道ができるはずだった跡を見てみたくなった。
この鉄道は高浜から柿岡までをまず鉄道を敷き、その後、水戸線の福原までをつなぐ計画でした。
そして、高浜-柿岡間の認可がおりたのが昭和2年で、用地買収もし、一部工事も始まったようですが、資金繰りで頓挫して鉄道は敷かれずに幻で終わりました。
詳細は私のホームページ(こちら)を見てください。
計画がスタートしたのは関東大震災(大正12年)で東京に建築用木材がたくさん必要になったからでした。
この木材を加波山や筑波山の麓から鉄道で高浜まで運び、そこから東京まで常磐線、または船で運ぶ計画だったようです。
なんでもそうですが、計画を始めた時はまだ石岡の製糸産業も景気が良かったのですが、昭和2年に金融恐慌が起こり、昭和4年に石岡中町を中心とした大火災が発生し、同じ年の10月に政界大恐慌がおこります。
この鉄道を支援する財力も計画を実行に移す時にはなくなってしまったというのが正しいのでしょう。

高浜駅の下りホームの裏側が広く空いています。
私はここに加波山鉄道のホームができるはずだったのではないかと思いました。
高浜駅は駅前にもほとんどお店も何もありません。
駅の名所案内も釣り場の案内くらいしか書いてありません。
でも霞ヶ浦の船運が発達していた時には、蒸気船も発着し、米相場も「高浜相場」などと言われて、ここで相場も決まったりしていたそうです。
そのため、加波山鉄道もここ高浜から発車させる計画だったのです。
これは今は廃止になった鹿島鉄道の前身「鹿島参宮鉄道」も石岡ではなく高浜を基点とする計画でした。

この駅の構内の裏手に数年前にできたまっすぐ筑波山の方に向かう道ができました。
周りは田んぼや畑ばかりですから低い低地を1本のまっすぐな道が続いています。
これがおそらくその鉄道が通るはずだった場所だと思っています。
この道を真っ直ぐいくと恋瀬橋のところで6号国道を横切ります。
そこから先は、今の恋瀬川沿いの土手の上を走るサイクリングロードとなっているところを通る計画だったと思います。そして、川を亘って志筑地区を通ってまた川を渡りなおし、根小屋のところをやはりまっすぐ走る道路が作られています。この道は通称「汽車道」と呼ばれたりしているようです。
この道路がきれいに整備されたのもまだ数年前のことです。
もちろん鉄道が出来ていたとしてもこのご時世ですのでいち早く廃止となった可能性が高いと思います。
でもこのような鉄道の道が出来ていたとしたら、今見る景色はおそらく違ったものになっていたと思います。
また何もない田舎駅と思える高浜の駅にもこのような歴史があったということも覚えていても良いことだと思います。
また、高浜からの上り電車はすぐに恋瀬川をわたります。
この川の上を差し掛かった電車の窓からみる筑波山の姿がとても美しいのです。

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この鉄道は高浜から柿岡までをまず鉄道を敷き、その後、水戸線の福原までをつなぐ計画でした。
そして、高浜-柿岡間の認可がおりたのが昭和2年で、用地買収もし、一部工事も始まったようですが、資金繰りで頓挫して鉄道は敷かれずに幻で終わりました。
詳細は私のホームページ(こちら)を見てください。
計画がスタートしたのは関東大震災(大正12年)で東京に建築用木材がたくさん必要になったからでした。
この木材を加波山や筑波山の麓から鉄道で高浜まで運び、そこから東京まで常磐線、または船で運ぶ計画だったようです。
なんでもそうですが、計画を始めた時はまだ石岡の製糸産業も景気が良かったのですが、昭和2年に金融恐慌が起こり、昭和4年に石岡中町を中心とした大火災が発生し、同じ年の10月に政界大恐慌がおこります。
この鉄道を支援する財力も計画を実行に移す時にはなくなってしまったというのが正しいのでしょう。

高浜駅の下りホームの裏側が広く空いています。
私はここに加波山鉄道のホームができるはずだったのではないかと思いました。
高浜駅は駅前にもほとんどお店も何もありません。
駅の名所案内も釣り場の案内くらいしか書いてありません。
でも霞ヶ浦の船運が発達していた時には、蒸気船も発着し、米相場も「高浜相場」などと言われて、ここで相場も決まったりしていたそうです。
そのため、加波山鉄道もここ高浜から発車させる計画だったのです。
これは今は廃止になった鹿島鉄道の前身「鹿島参宮鉄道」も石岡ではなく高浜を基点とする計画でした。

この駅の構内の裏手に数年前にできたまっすぐ筑波山の方に向かう道ができました。
周りは田んぼや畑ばかりですから低い低地を1本のまっすぐな道が続いています。
これがおそらくその鉄道が通るはずだった場所だと思っています。
この道を真っ直ぐいくと恋瀬橋のところで6号国道を横切ります。
そこから先は、今の恋瀬川沿いの土手の上を走るサイクリングロードとなっているところを通る計画だったと思います。そして、川を亘って志筑地区を通ってまた川を渡りなおし、根小屋のところをやはりまっすぐ走る道路が作られています。この道は通称「汽車道」と呼ばれたりしているようです。
この道路がきれいに整備されたのもまだ数年前のことです。
もちろん鉄道が出来ていたとしてもこのご時世ですのでいち早く廃止となった可能性が高いと思います。
でもこのような鉄道の道が出来ていたとしたら、今見る景色はおそらく違ったものになっていたと思います。
また何もない田舎駅と思える高浜の駅にもこのような歴史があったということも覚えていても良いことだと思います。
また、高浜からの上り電車はすぐに恋瀬川をわたります。
この川の上を差し掛かった電車の窓からみる筑波山の姿がとても美しいのです。



自転車仲間には、鉄男や鉄子もいて、昨秋の「やさと茅葺きサイクリング」で
この幻の加波山鉄道跡を見て、感激していた輪友がいました(笑)
そして今春の「やさと茅葺き自転車散歩」が3月9日(予備10日)となりました。
つきましては、お願いの懸案事項なのですが、追ってメールにてご連絡申し上げ
ますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
先日はありがとうございました。
また、石岡へのポタ計画のブログ記事素晴らしいですね。
短時間でよくやるものだと驚き呆れています。(笑)
> 自転車仲間には、鉄男や鉄子もいて、昨秋の「やさと茅葺きサイクリング」で
> この幻の加波山鉄道跡を見て、感激していた輪友がいました(笑)
柿岡に駅ができる計画だったので少し遺構が残っていますが、用地買収したところに
まっすぐな道路となっているのが印象的です。
> そして今春の「やさと茅葺き自転車散歩」が3月9日(予備10日)となりました。
こちらは、何かやることがありますか?
この後に高浜石岡の計画ですか。
> つきましては、お願いの懸案事項なのですが、追ってメールにてご連絡申し上げ
> ますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
まだなにも頭にないが、決まれば福島砂糖店や府中酒造さんに話しておきたいので
連絡ください。
昨日夜にゆりの郷に行き、温泉に入ってきました。しゃもなべはやってましたが食べずに別なものを食べました。
こんど「ひつじの郷」にでも行く機会があれば食べに行きたいと思っています。
こちらはひつじ肉ですが、美味しいと聞いています。
凄いことだと思います。
下を電車がくぐっているんですか、なお凄いです。
必要以上に頑丈に作られているようにも思えますし、
ただ、見に行ってこの目で拝んでみたい
そんな気持ちです。
お晩です、Romanさん。
またお邪魔します。
> レンガ建築物が、こうして残っているのですね。 凄いことだと思います。
レンガ作りのものも東京駅を始め東日本にもかなりあるようなのですが、まとまったものがなく
知らずにいるのでしょう。
気がついたときにまとめて探してみたいと思っています。
> 下を電車がくぐっているんですか、なお凄いです。
そうです。ここがいいでしょう。やはり列車が走っている時を狙いたかったですね。
今日もお越しくださりありがとうございました。
国土変遷アーカイブで、1948年の石岡市柿岡の部分を見てみましたが、見事に路盤と柿岡駅の敷地が写っています。
もし開業していたらですが、正直、今日まで残ったかどうか正直自信がありません・・・。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R1070&photono=51
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/search.html
1年ほど前の記事にコメント頂きありがとうございます。
加波山鉄道も幻で終わりました。
> 国土変遷アーカイブで、1948年の石岡市柿岡の部分を見てみましたが、見事に路盤と柿岡駅の敷地が写っています。
地図の見方が良く分かりませんが、現在の地図と重ねればわかるのでしょうね。
現在も柿岡駅の跡が残されています。大分計画も進んでいたのでしょうね。
> もし開業していたらですが、正直、今日まで残ったかどうか正直自信がありません・・・。
当然他の筑波鉄道や鹿島鉄道と同じ道を歩んだことでしょう。
これとて存続できないはずもなかったように思います。なかみなとの湊線は頑張っていますね。
コメントありがとうございました。