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みみっちょ様

 石岡市から355線を小美玉市に入ったばかりのところに全国的にも珍しい耳の病にご利益のあるという神社がある。
耳守(みみもり)神社というが、通称「耳っちょ様」と呼ばれている。

近くを通った時に立ち寄ってみた

この神社のある場所は「栗又四ケ」(くりまたしか)という。まったく驚くような名前です。
四ケとは昔4つの村が合併して四箇村(しかむら)という名前になったのが箇をケとも書いていたのでいつの間にかこの名前が残った。大分今では田舎っぽい名前だが、これも文化の香りがする。

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この神社は石岡の人は大掾氏のことはよく話をするが、この神社については行政が異なっているので歴史の本に出てこない。おかしなものだ。

高浜が石岡ならばこのあたりも石岡の文化圏として続いていなければならない。

前にホームページに載せているがここでもう一度書いておきたい。

「第3代常陸大掾繁盛(平国香の直孫)の五男・五郎左衛門兼忠(後に飯塚氏)の千代姫が7歳になっても耳が聞こえないため、夫婦は熊野神社に娘の耳が治るよう願をかけたところ、満願を迎えた朝に千代姫の耳が聞こえるようになったという。

 しかし千代姫は33歳の時に、風邪を悪化させて明日をも知れぬ身となってしまった。その時千代姫は「われ亡き後に社を建てて、耳の病を守護せん」と言い遺して息を引きとった。千代姫の遺言に従って両親は千代姫愛用の鏡をご神体として社壇を設けて「耳守」と号して祭礼を続けた。

しかし、それから500-600年後の1590年(天正18)に大掾氏は滅び、一族である飯塚氏も同じ運命をたどった。このため耳守神社も無くなり祭礼も断絶してしまった。その後、地元の人たちが神社を建て直し、姫の命日の9月9日に祭礼も行われている。」

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但しこの頃の大掾氏は多気大掾氏であるので筑波山の尾根を超えた現在のつくば市北条または水守に屋敷を構えていた。
この千代姫もその近くにいたのだろうか。

しかしこの飯塚氏はこの社を守ってこの近くに移っていた。そして府中大掾氏に小川の園部氏が水戸の江戸氏に味方して反旗を翻したとき、この近く田木谷砦を築き、ここで警護にあたっていた。
しかし、その後の佐竹氏が勢力をもって府中を攻めてきた時に、この砦で敵を迎え撃ち全滅したようだ。

先月末にこの頃の遺構の発掘調査の現地説明会が行われた。
「取手山館」となっているがこの田木谷砦のことではないかと思う。(砦山=取手山?)

壕を巡らしたような遺構が見て取れるという。

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前に訪れた時も神社にはたくさんの千羽鶴が吊るされていた。
耳の病に悩んでいる方は多いのだろう。
耳鳴りに悩んでいる方は結構多いように思う。

この神社は戦国時代に飯塚氏が滅んだ時に神社もなくなってしまったらしいが、今から30~40年前に地元の熱心な希望で再建されたようだ。

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この千羽鶴も前見たときより新しく多くなった。

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神社は無人ですが、御札は自由にもって帰れます。記帳のノートも置かれていました。

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青森から台湾まで広いところから噂を聞いてやってくるといいます。

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境内の古木の根元に子安講の石蔵が置かれていました。その隣には昔の衆議院議員「赤城宗徳」の石碑が建てられています。息子の大臣は絆創膏で少し評判を落としてしまいましたね。

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「上郷女人中」とありますが、この地元の女人講の方たちなのでしょう。
この近くに(栗又)上郷という地域があります。

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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/05 19:03
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