額田城跡
前回の額田の阿弥陀寺の記事から1週間ほど経ってしまいました。
今回は、その阿弥陀寺の裏山に中世の額田城の跡が残されていたのを紹介します。
寺の裏手から奥の林の中に入る道がついており、案内に従って進んだ。

阿弥陀寺の入り口に掲げられた城跡の説明板。

こちらが城跡の領域の地図。かなりの大きさがある。

(サムネルです)
この城は中世のそれ程中心的な城ではなく、戦国末期にはなくなってしまったのに、これほど大きな遺構が残っているとは驚いた。

(サムネルです)
5代佐竹義重の二男佐竹義直がここに城を築いて額田氏を名乗ったという。
しかし、佐竹氏同士で争いが起こり、この額田氏は10代で滅んだ。
その後に、佐竹氏の家臣小野崎氏が入り、この小野崎氏の懇請により、大山の阿弥陀寺がこの寺の守護として城内に建てられた。
しかし、戦国末期にはまたも佐竹氏に滅ぼされて廃城となった。今から450年ほど前である。
その後このように宅地化もされずそのまま残るのは珍しい。
阿弥陀寺は守護とされる城はなくなったが、そのまま信者に守られ残ったようだ。
この額田という地も面白い場所だ。
この額田城以上にもっと古い歴史が眠っているように思う。額田というのは額田氏を名乗る前にこの地は額田だったはずだから、きっと額田王との関係もどこかでつながってくるのだろう。
大和国平群郡額田郷などともつながってくるかもしれない。
万葉集に歌われた四国道後温泉近くの湊で読んだ
「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
などが思い起こされる。つながれば面白いことだ。

(サムネルです)
この地形を見ると平山城といったところだが、山城のイメージにも近い。
このように城の全容が残されているのは貴重な史跡と言える。

(サムネルです)
現在、この城跡に遊歩道を作っていた。林の中に道を設け、そこに伐採した木々のチップを敷き詰めていた。
中世の城のファンであれば結構面白い場所ではないかと思う。
あまり観光化されるのも問題だが、それ程人が押し寄せるとは思われないので、適当に整備されるのは良いことではないかと思う。
← よろしければクリックお願いします。
今回は、その阿弥陀寺の裏山に中世の額田城の跡が残されていたのを紹介します。
寺の裏手から奥の林の中に入る道がついており、案内に従って進んだ。

阿弥陀寺の入り口に掲げられた城跡の説明板。

こちらが城跡の領域の地図。かなりの大きさがある。

(サムネルです)
この城は中世のそれ程中心的な城ではなく、戦国末期にはなくなってしまったのに、これほど大きな遺構が残っているとは驚いた。

(サムネルです)
5代佐竹義重の二男佐竹義直がここに城を築いて額田氏を名乗ったという。
しかし、佐竹氏同士で争いが起こり、この額田氏は10代で滅んだ。
その後に、佐竹氏の家臣小野崎氏が入り、この小野崎氏の懇請により、大山の阿弥陀寺がこの寺の守護として城内に建てられた。
しかし、戦国末期にはまたも佐竹氏に滅ぼされて廃城となった。今から450年ほど前である。
その後このように宅地化もされずそのまま残るのは珍しい。
阿弥陀寺は守護とされる城はなくなったが、そのまま信者に守られ残ったようだ。
この額田という地も面白い場所だ。
この額田城以上にもっと古い歴史が眠っているように思う。額田というのは額田氏を名乗る前にこの地は額田だったはずだから、きっと額田王との関係もどこかでつながってくるのだろう。
大和国平群郡額田郷などともつながってくるかもしれない。
万葉集に歌われた四国道後温泉近くの湊で読んだ
「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
などが思い起こされる。つながれば面白いことだ。

(サムネルです)
この地形を見ると平山城といったところだが、山城のイメージにも近い。
このように城の全容が残されているのは貴重な史跡と言える。

(サムネルです)
現在、この城跡に遊歩道を作っていた。林の中に道を設け、そこに伐採した木々のチップを敷き詰めていた。
中世の城のファンであれば結構面白い場所ではないかと思う。
あまり観光化されるのも問題だが、それ程人が押し寄せるとは思われないので、適当に整備されるのは良いことではないかと思う。


そんなふうに思いながら、この記事を読ませて頂きました。実は高校時代に額田王の子孫にあたるという額田姓の級友がいました。家系図が書ける家系が実際にあるものなんだと感心したものでした。他にも同様のやつが少なからずいましたが。
あまりない名前なのでつい関係を考えたtくなります。
また地元の歴史好きな方は関係がありそうなことも書かれていたようです。
> 実は高校時代に額田王の子孫にあたるという額田姓の級友がいました。家系図が書ける家系が実際にあるものなんだと感心したものでした。他にも同様のやつが少なからずいましたが。
家系図などというあてにならないものもありませんね。
どこかでつながりを持っているのでしょうね。
私の家系もたどると相当古いのだとかを自慢げに聞かされたことがありますが、
全く興味がなく、見たこともありませんでした。
どこかで落ちぶれたその祖先というのでしょうが、あまり関係ないことなんですよね。
今生きる人間としての自分には興味はありますが・・・。
お越しくださりありがとうございます。
あまり関係もない記事が続きますが、適当に飛ばして読んでいただけたら嬉しいです。
私も額田と言う文字に 額田王を重ねて そのつながりが出てくるかしらと思い読み進みました。
みんな同じことを考えるものですね。(*^_^*)
額田王の歌と言うと Roman様のお書きになった船出の歌と「あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」「君待つとわが恋をればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く」の三首が覚えやすく 情景も良く浮かび好きな歌でした。
きっとどこかで繋がっているのかも知れませんね。
巫女的な存在だったようでもありますしね。
こちらにもコメントいただけて嬉しいです。
> 私も額田と言う文字に 額田王を重ねて そのつながりが出てくるかしらと思い読み進みました。
どうしても考えますよね。額田部氏という皇族と関係のある氏族がここにやってきたのかもしれないのです。
やはり不思議な土地です。あまり有名ではないし、私も今まで通ったこともありませんでした。
> 額田王の歌と言うと Roman様のお書きになった船出の歌と「あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」「君待つとわが恋をればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く」の三首が覚えやすく 情景も良く浮かび好きな歌でした。
最後の歌は前に言の葉さんがブログに書かれていたお歌ですよね。思い出しました。
> 巫女的な存在だったようでもありますしね。
そうですか。謎めいていて不思議です。
小町と同じように美人だったなどという話もあるようです。
タイミングいいですね。
佐竹氏は秀吉に常陸国を全て任せるとの朱印状をもらって
みんなやっつけてしまいました。
最後には大掾氏系列の33館の主を集めて毒殺(?)します。
この前に、この小野崎氏も額田城を攻めます。
この前に書かれたものですね。面白いものです。
結局は小野崎氏は伊達政宗を頼って逃げて、その後越後に行き額田氏を名乗ったようです。
歴史がつながってきました。
またお寄りください。ありがとうございました。