親鸞750回忌(2)
昨日は大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の立て札について書きだしたので、今日はその続きです。
親鸞は師法然と共に都での布教が危険とみなされ都を追放となり、法然は四国、親鸞は越後で流人生活をおくり、やっと都へ戻ることが許されたのですが、親鸞はすぐには戻らず、関東での布教活動を行いました。
その拠点となったのが稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。
しかしこの地方には山にこもって修業をして信者を集めていた山伏達がいたのです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて呪い殺そうとします。そして、この峠を越えて府中(石岡)から鹿島神宮の方によく親鸞が通っていたのを待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけました。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。この事件が法難です。

大覚寺の門をくぐると右側に大きな石岡市指定保存樹「ヤブツバキ」と説明看板があります。
そのすぐ左に石で組まれた囲いとすぐ近くに古木が天板を置いた状態で保存されています。
そこには「親鸞聖人説法石、天蓋樹」の石碑が置かれています。
親鸞上人はこの石に腰かけて、辻説法などをしていたのでしょうか。説明はなにもありません。

ここ大覚寺を過ぎて車の通る街道を少し登ったところに「史跡板敷山」の看板です。この看板は茨城県教育長の銘が入っています。
この看板のある手前を右に山へ入る道があります。
これが昔の板敷峠を越える道でした。しかし、この道は整備が不備で藪を漕がねば進めません。
しかし入口の横から左の山の中に入れば道は比較的整備され、板敷山の頂上へ続いています。

先ほどの旧道を少し進むと1分ほどで開けた広場のようなところにでます。
この広場には「山伏弁円懺悔の地」の石碑が建っています。
歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」
これは弁円が親鸞の弟子となり、各地を布教して歩いていて、この場所を通った時、昔ここで師と仰ぐ親鸞に危害を加えようとしたことを悔い、懺悔をしたといわれています。

板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
ここには下から登ることもできますが、現国道の峠を越えた所から右側に山へ上る道があります。
車も入ることができますので一度訪れてみてください。旧道には大きな「板敷峠」の碑もあり、わかりやすいと思います。またそこから山の尾根へ続く道にでれますので登ると八郷の町や加波山の山並みなどが素晴らしい景色が広がります。
この道はハングライダーの車が結構とおりますので、ライダーの人だけに景色を占領されるのももったいないほどです。
親鸞は師法然と共に都での布教が危険とみなされ都を追放となり、法然は四国、親鸞は越後で流人生活をおくり、やっと都へ戻ることが許されたのですが、親鸞はすぐには戻らず、関東での布教活動を行いました。
その拠点となったのが稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。
しかしこの地方には山にこもって修業をして信者を集めていた山伏達がいたのです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて呪い殺そうとします。そして、この峠を越えて府中(石岡)から鹿島神宮の方によく親鸞が通っていたのを待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけました。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。この事件が法難です。

大覚寺の門をくぐると右側に大きな石岡市指定保存樹「ヤブツバキ」と説明看板があります。
そのすぐ左に石で組まれた囲いとすぐ近くに古木が天板を置いた状態で保存されています。
そこには「親鸞聖人説法石、天蓋樹」の石碑が置かれています。
親鸞上人はこの石に腰かけて、辻説法などをしていたのでしょうか。説明はなにもありません。

ここ大覚寺を過ぎて車の通る街道を少し登ったところに「史跡板敷山」の看板です。この看板は茨城県教育長の銘が入っています。
この看板のある手前を右に山へ入る道があります。
これが昔の板敷峠を越える道でした。しかし、この道は整備が不備で藪を漕がねば進めません。
しかし入口の横から左の山の中に入れば道は比較的整備され、板敷山の頂上へ続いています。

先ほどの旧道を少し進むと1分ほどで開けた広場のようなところにでます。
この広場には「山伏弁円懺悔の地」の石碑が建っています。
歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」
これは弁円が親鸞の弟子となり、各地を布教して歩いていて、この場所を通った時、昔ここで師と仰ぐ親鸞に危害を加えようとしたことを悔い、懺悔をしたといわれています。

板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
ここには下から登ることもできますが、現国道の峠を越えた所から右側に山へ上る道があります。
車も入ることができますので一度訪れてみてください。旧道には大きな「板敷峠」の碑もあり、わかりやすいと思います。またそこから山の尾根へ続く道にでれますので登ると八郷の町や加波山の山並みなどが素晴らしい景色が広がります。
この道はハングライダーの車が結構とおりますので、ライダーの人だけに景色を占領されるのももったいないほどです。
勝手ながら、拙寺ホームページの住職念仏実感日記のタイトルに使わせていただきました。
なお、拙寺ホームページへは「樹徳寺」「検索」で行けます。
私の拙いブログ記事にコメントいただきありがとうございます。
地元(常陸府中=石岡市)の埋もれた歴史などを掘り起こしていますが、
ご参考になったとしたら光栄です。
親鸞聖人は弁円(明法房)の亡くなった報を聞いた時に大いに喜ばれたと書かれていますね。