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高部(常陸大宮市)-間宮家住宅

 半年くらい前にこの県境の町「常陸大宮市高部(たかぶ)の街並み」の記事を書いた。(こちら

その時に写真を撮り忘れた建物があったのを思い出して、近くにまた来たので立ち寄ってみました。

近くを鉄道が走っていないので一時は日本のチベットなどと表現されることまであったというが、これらの建物を見ていると往時の繁栄が蘇る思いがする。

IMG_6957s.jpg

「間宮家住宅主屋」という国登録の有形文化財です。

浅葱色(あさぎいろ)の3階建てのモダンな建物です。
1902年(明治35年)に建設されたものだといいますから驚きです。
当時としてはとてもモダンな建物です。
隣接する和風の2回建ての建物も同じ時期に建てられ両方を含めた登録となっています。

1902年ですよ。日本が日清戦争(1894-1895年)で多額の賠償金を得て、坂の上の雲を見ながら歩んでいた時代です。
1900年に義和団事件が起こり、1902年1月に日英同盟を結んで、1904年には「ひとつくれよう(1904)露にげんこ」などという激動の時代です。

そんな時代に何故この辺境の街に洋風のモダンな建物が建てられたのでしょうか?

IMG_6958s.jpg

これを見ると、土浦一高に残されている旧土浦中学校の校舎を思い出します。(記事はこちら

この土浦の校舎が建てられたのは明治37年(1904)です。この高部の方が古いのです。
土浦中学校の校舎を設計したのは駒杵勤治氏で、東京帝大を卒業したばかりの青年です。

駒杵氏はその後常陸太田の旧太田中学校(現太田一高)の講堂も設計しています(明治37年)。

これらには皆窓のデザインなどはすべて共通点があります。

これは何を物語っているのでしょうか。

IMG_6960s.jpg

茨城県にこの若き建築家「駒杵勤治氏」が多くの優れた建物をこの短い期間にたくさん残しているのですから驚きです。

土浦中学(現土浦一高)本館と講堂、常陸太田の太田中学(現太田一高)の講堂が国の登録文化財に指定されていますが、その他に旧水海道中学の講堂、旧龍ケ崎中学(現龍ケ崎一高)の本館・講堂、高等女学校(現水戸二校)講堂、や水戸商業高校の本館、県立図書館、麻生警察署などもこの駒杵勤治氏による設計と考えられています。

今では残っていないものが多くありますが、写真や設計図などは皆同じ作りであることがわかります。

この高部には同じような建物がもうひとつ残されており、これらの旧制中学校などの建物よりも建築されたのが少し前であることを考えると、この時代に最も最先端のデザイン建築だったのかもしれません。

IMG_6963s.jpg

こちらの国の登録文化財データベースでは建設の施工者や設計者の名前はありません。
ただ時代を考えるとこの若き天才建築デザイナー「駒杵勤治」とどこかで関係があるのかも知れません。

駒杵勤治(こまきねきんじ)は山形県新庄市の生まれですが、明治35年に茨城県庁に入庁し翌年技師になっています。でも県庁での在職期間はわずか2年3ヶ月です。

調べてみたい人物です。これらの残されている建物を見て回るのも興味が湧きます。
その他の建物の写真などは(こちらのブログ)を参考に見ることができました。

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鷲子・美和・高部 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/04/22 19:24
コメント
素敵な窓
>これらには皆窓のデザインなどはすべて共通点があります。
>これは何を物語っているのでしょうか。

古い洋風建築に見られる縦あけ型の窓を見ると何とも素敵だなと思います。学校の校舎は明るさを求めるため横に引くガラス窓が多いようでその点、土浦中学の窓が縦あけなのは珍しいです。
これはこの時代の一般的技術であったのでしょう、別に芸術的な建物でなくても見られました。今は残っていませんが昔の水戸国立病院は茨大の敷地に隣接して在り、分厚い木の板を使った建物に縦開きの窓でした。
重い窓を縦に開く構造を可能にするために、釣り合い重りを滑車と紐で窓の横の壁の中に吊るしてあります。その空間を作り、窓の縦敷居を作るために太い窓枠が必要で、似たような形にみえます。
この、ばかばかしいけれど他にうまい方法がないであろう技能を実現していた職人の仕事に思い致すと、一生懸命生きていた人達のすがたが浮かんでくるようです。
Re: 素敵な窓
忠顕さま

> 古い洋風建築に見られる縦あけ型の窓を見ると何とも素敵だなと思います。学校の校舎は明るさを求めるため横に引くガラス窓が多いようでその点、土浦中学の窓が縦あけなのは珍しいです。

そうですか。縦あけなんですね。よく見ると同じですね。
この土浦中学(一高)の校舎がNHK朝のドラマ「おひさま」に登場したのですが、長野の学校の設定でした。
当時は似たような窓は使われていたのかもしれませんね。

でもモダンですよね。当時はモダンなものにあこがれがあったのかもしれません。

> これはこの時代の一般的技術であったのでしょう、別に芸術的な建物でなくても見られました。今は残っていませんが昔の水戸国立病院は茨大の敷地に隣接して在り、分厚い木の板を使った建物に縦開きの窓でした。
> 重い窓を縦に開く構造を可能にするために、釣り合い重りを滑車と紐で窓の横の壁の中に吊るしてあります。その空間を作り、窓の縦敷居を作るために太い窓枠が必要で、似たような形にみえます。
> この、ばかばかしいけれど他にうまい方法がないであろう技能を実現していた職人の仕事に思い致すと、一生懸命生きていた人達のすがたが浮かんでくるようです。

詳しいのですね。気が付きませんでした。内側から見てみたいですね。
土浦の方は時々公開していますので今度注意してみてみたいと思います。ありがとうございました。
No title
「間宮家住宅主屋」は、国登録の有形文化財にふさわしい堂々たる風格がありますね。
かなり経年物件で、個人での維持管理は如何に地方であるにせよ、難しくなってきているのかもしれません。今後切実な問題になりそうですね。
我が家の近所には、『今井館聖書講堂』という古く由緒ある建物が残っています。内村鑑三が北新宿で講義をしていた建物で、1907年建築。東京府の道路建設計画にかかり、1935年に目黒区中根の現在地に移築だそうです。移築後は東大総長をも務めた矢内原忠雄なども講義をしたようです。国登録の有形文化財に指定されてもおかしくないような建物だし、それだけの由緒ある建物ですが、申請しないと認められないものなんでしょうかね。
AzTakさん
こんばんは。

> 「間宮家住宅主屋」は、国登録の有形文化財にふさわしい堂々たる風格がありますね。
> かなり経年物件で、個人での維持管理は如何に地方であるにせよ、難しくなってきているのかもしれません。今後切実な問題になりそうですね。


石岡にも国の登録文化財がありますが、個人所有ですので登録するかは悩むところのようです。
片田舎であれば、更地にして売っても勝ちはあまりありませんので、維持管理を考えて、
登録申請したりもするようです。
でも逆にお金持ちは登録しないほうがいいと考える人もいてまちまちですね。
見学者はもちろん登録してデータベースに載り維持管理されて公開されるのが望ましいです。

> 我が家の近所には、『今井館聖書講堂』という古く由緒ある建物が残っています。内村鑑三が北新宿で講義をしていた建物で、1907年建築。東京府の道路建設計画にかかり、1935年に目黒区中根の現在地に移築だそうです。移築後は東大総長をも務めた矢内原忠雄なども講義をしたようです。国登録の有形文化財に指定されてもおかしくないような建物だし、それだけの由緒ある建物ですが、申請しないと認められないものなんでしょうかね。

これなど小金井の東京建物館でしたかに移築したほうがいいですよね。

田舎といえども茨城でもどこかにまとめてもらってもいいように思います。
すごいですねえ
普通に明治時代の建物が残っているのですね
Romanさんの方では。
えーと、えーと、東京には明治時代の建物って
どこにあったでしょうか、江戸時代だったら
護国寺とか、日銀は大正?東京駅も大正?
大震災と戦災で失ったのですね、たくさん。
お晩です、Romanさん。
この門構え、窓の意匠など
本物を見たら感動ものなんでしょうね。
雑司ヶ谷の旧宣教師住居が明治40年
ああ、なんとなく似ていたかもしれませんね。
大事に残していきたいですねえ。
kozoh55さん
こんばんは。

> 普通に明治時代の建物が残っているのですね

私も驚きました。明治のモダンな作りなんですから。
山の中の街に残るのも不思議ですね。
鉄道が出来てからだんだんに不便で廃れてしまったけど
こうして残ってもいる。考えようによってはすごいですよね。

> この門構え、窓の意匠など
> 本物を見たら感動ものなんでしょうね。
> 雑司ヶ谷の旧宣教師住居が明治40年
> ああ、なんとなく似ていたかもしれませんね。
> 大事に残していきたいですねえ。

この家もまだ使っているみたいですよ。
となりに公文の看板がありました。

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