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五万掘古道(2)-鹿の子・河内ルート

 笠間市の五万掘古道を見て、かなりの確信を覚えた。
五万掘と名づいているところに古代の官道があるのではないかと。

この道路は笠間市仁古田(にこだ)と長菟路(ながとろ)の町の境界になっている。
この二つの地名もとても興味深い。

仁古田(にこだ)という地名は東京なら西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」が駅の元になっているが読み方が違う。
もう一つかすみがうら市の神立にちかいところに「江後田(えごた)」という地名がある。
昔、鎌倉街道がこのあたりを通っていたのではないかということを子安神社の宮司さんに伺ったことがある。

多分川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所だったのではないかと思う。
それもそれほど大きな川ではない。
江古田は江古田川、仁古田は涸沼川、江後田は霞ヶ浦に注ぐ菱木川のそれぞれ上・中流部にある。
名前もよくわからないほどの比較的小さな川である。しかし、昔の舟での移動を考えると意外に重要な場所だったのかもしれない。

さて、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名だが、「古代の道」冊子ではこの古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論している方がおられるが、これはどうも違うだろう。

長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・など漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんある。
これは川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈している。
秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべるが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っている。

さて、この道を南南西に延長すると小美玉市の五万掘や五万窪を通り、石岡の国分尼寺の300m程北の鹿の子(C)遺跡の場所(高速道路下)にでる。また北北東に延長すると、河内駅家(こうちうまや)のある渡里町と河内町に真っすぐにつながる。

Gomanbori.jpg
(クリックして大きい画像を見てください。表示された画像が小さい時はもう一度クリック)

そして、五万掘や渡里町などに八幡太郎義家の伝説が伝わっている。

八幡太郎義家が蝦夷征伐に通った時(後三年の役)に源氏の呼びかけに我も我もと武士が集まり、かすみがうら市の四万騎農園のある広大な草原で4万騎が集まり、この場所で馬の訓練をし、石岡に来た時には5万騎に膨れ上がり、鹿の子遺跡そばに五万掘の名前となった。
この鹿の子近くの五万掘の名前は消えてしまったが、小美玉市に五万掘という地名となり、さらにその先の涸沼川近くの笠間市の五万掘の名前も残った。

また台渡里廃寺の近辺ではここの一番の長者(一盛長者)が滅ぼされた話が伝わっている。(こちらを参照)

面白いことに、この話とそっくりな話が行方市の西連寺にも伝わっています。
西連寺で昔から行われている伝統行事「常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)」の始まりの話とそっくりなのだ。
西連寺は鹿島神宮までと常陸国府を結ぶ中間に有り「曾尼(そね)の駅家(うまや)」の推定値に近い場所にあります。

小美玉市の旧玉里の高崎にも昔五万掘という場所があったそうだ。
この玉里地区にも八幡太郎伝説がいくつも残っている。
今まで考えてもみなかったがここも通ったのだろうか?

考えてみればいくつものルートを通って国府(石岡)に集結したかもしれない。集結した場所が国府跡(石岡小学校敷地)ではなく、鹿の子遺跡の軍事拠点ということになりそうだ。

前九年の役は1051年から、後三年の役は1083年からだ。
この後に奥州藤原氏が台頭することになる。

やはり鹿の子(かのこ)の地名の由来は鹿ではなく鹿島神宮を意識していたようでもあるが、鹿は鉄のことを指していたとする方がすっきりした解釈になれそうだ。

石岡に生板池という池があるが、この場所で炊事をした「まないた」から「生板池」の名前となり、この近くに6万という地名まである。

かすみがうら市の四万騎(しまき)原は江戸時代の文献では嶋木ヶ原と出てくる。
古東海道のルートもいろいろな事実に基づき考察し直さねばならないだろう。

従って、道路があって名前ができ、そこに鎌倉時代になって八幡太郎の伝説が生まれたのだろう。

 さて、この古道の途中、小美玉市の五万掘ととなりあった場所(羽鳥駅の東側)に五万窪という地名がある。
ここで、東工大の発掘調査により、古代の遺跡が見つかっている。
五万窪遺跡と呼ばれているが、古代製鉄炉(たたら製鉄)跡とみられ、室町時代の遺跡だと考えられている。

これはすべて古代官道が道路として掘りこまれて窪、掘と呼ばれる広大な低地がまっすぐに続いていたのを表したものだ考えるとかなりスッキリする。恐らくこの官道の両側で昔の行政区が変わったりするのもわかる気がする。
平成の大合併で名前が消えてしまった地域も多いのだろう。
消えてしまっても地図や記録にはぜひ残して欲しいと思う。

もう一つ、特徴的なことがある。鹿の子遺跡は高速道路建設の時の発掘調査で見つかったものだが、10万平方メートルの広い遺跡で奈良時代後期から平安時代前期のものとされています。
多くの住居跡の他、武器や農具などを制作していたと思われる工房跡などがみつかり、多くの漆紙文字が残されているために当時の行政の統計に関する資料などたくさんの貴重な資料が発見されています。
一部は風土記の丘公園の有料エリアの展示室で見ることができます。

しかし、この展示エリアの公開して書かれている内容などを見ても、これらの時代に蝦夷との関わりなどは読み解くことができません。
今回の五万掘古道を考えて、一気にその姿が浮かび上がってくるように感じました。

各国府をつなぐ道で、行政の連絡道とばかり思っていたのですが、蝦夷との関わりが重要だったのではないかと思えてきました。

坂上田村麻呂が阿弖流為を滅ぼし、胆沢(いさわ)城を築いたのが西暦802年です。
今残されている鹿の子遺跡には昔の西暦780年にあたる暦(具注暦)が発見されています。

この鹿の子が武器供給の拠点であり、道を整備する必要もあったのだと思います。
当然この道の先は高萩などの海岸通りへも続きますが、水戸市の河内からまっすぐ北上して福島県の田村市(三春)に続いていたのだと思います。

常陸国風土記が編纂されたのが西暦713年ということで、今年は1300年記念の行事が茨城県の各地で行われています。
高萩市の風間市長さんは熱心ですね。

明日は常陸国府周りの古官道などの情報を述べてみたいと思います。

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古東海道 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/05/01 17:36
コメント
古街道
たいへん興味深いはなしです。
八幡太郎義家に5万騎も集まったのが本当かどうかはわかりませんが(なにしろ未だ平安時代)、古い地名が残っていると歴史を辿ることが可能ですね。
 また思い付くのは石岡のまわりの古戦場です。陸前浜街道沿いのほかに鹿の子からの道にもありますから、戦国時代までこの古道は使われていたのだろうか、など考えが浮かびます。
Re: 古街道
忠顕さま  コメントありがとうございます。

> たいへん興味深いはなしです。

興味を持っていただけましたら幸いです。

> 八幡太郎義家に5万騎も集まったのが本当かどうかはわかりませんが(なにしろ未だ平安時代)、古い地名が残っていると歴史を辿ることが可能ですね。

もちろんほとんどがあとからの作り話でしょうね。でもその話で関心を持つことはできます。
地名などは変わったとしても、記録として残しておいていただきたいと思います。

>  また思い付くのは石岡のまわりの古戦場です。陸前浜街道沿いのほかに鹿の子からの道にもありますから、戦国時代までこの古道は使われていたのだろうか、など考えが浮かびます。

戦国時代となるとこの鼓動はどうなっていたのでしょうか。あまり残っていなかったのかもしれないですね。
古戦場として有名になればある程度分かるのですが、途中で興味もなく忘れられてしまっているかもしれないですね。
そんなことも少しでも掘り起こせたら楽しいと思います。
No title
五万堀街道があったなんて、知りませんでした。
とっても興味が出て来ました。

そういえば、私の出身地は小美玉(旧美野里町)の羽刈です。
(地元では北浦団地と呼ばれていました)

あそこにある泥障塚古墳(地元ではドンドン塚とも呼ぶ)の横に官道があったと小さい頃に聞いたことがあります。

http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/omitama_dei02/

あれがRomanさんが仰られる五万堀街道だったのでしょうか・・・表示板には肝心な街道名とか書いてないんですよね。

しかし・・・
小学校の時の自由研究で古墳調査ってのをやりましたが、それが30年経ってよみがえるとは不思議なものです。
のり@鎌ヶ谷さん
こんにちは。

> 五万堀街道があったなんて、知りませんでした。
> とっても興味が出て来ました。

この呼び名は私が勝手に付けた名前ですので、どこにも出ていませんよ。
早いもの勝ちってとこで・・・(笑9

> そういえば、私の出身地は小美玉(旧美野里町)の羽刈です。
> (地元では北浦団地と呼ばれていました)

近いですね。

> あそこにある泥障塚古墳(地元ではドンドン塚とも呼ぶ)の横に官道があったと小さい頃に聞いたことがあります。

この古墳は有名なので名前は知っています。小美玉市では確かにこのあたりに旧東海道の官道跡が見つかったと書いていますよね。
池花池に行った時に、どの当たりなのかと考えたこともあります。
でもどこにも案内板や説明がないですよね。分からないでいました。

> 小学校の時の自由研究で古墳調査ってのをやりましたが、それが30年経ってよみがえるとは不思議なものです。

すごいですね。その時のことが蘇ったのなら学校も嬉しいでしょうね。
玉里の方にも伝説があるらしいのですが、いつか調べていたらつながってくるかもしれません。
これから詳細がわかるのでしょうが、鹿の子遺跡と蝦夷を関連付けて論じていませんね。
八幡太郎も蝦夷征伐に行くのですから、その後の歴史を考えると伝説が生まれて当然なのでしょう。
何かあったら武士は百姓をしていても鎌倉街道を真っ先に鎌倉に馳せ参じるということが美談とされたのですから。

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