FC2ブログ

五万掘古道(3)-国府周辺

 笠間市の涸沼川上流にある五万掘の平安時代の官道跡から見えてきた全体像を勝手な解釈で、2度にわたり書いてしまいました。
あまり根拠のないものが多いので、こんなこともあるのかな?程度に聞き流しておいてください。
ここは学術論文の発表の場ではないので、反対意見などもあっても、意見はご自由ですから聞くことは聞きますが、特に反論する気もありません。

さて、鹿の子遺跡のことを考えているとやはり奈良平安時代の国府(石岡)の周りに残された数々の伝承などをもとに今思っていることを書いてみたいと思います。
これもほとんど根拠がありませんので、実にくだらない妄想かもしれません。

国府
(クリックして拡大して見てください)

 常陸国の国府は石岡小学校の敷地の調査でほぼ判明したとされています。
(まだ異論を唱える方もいるようですが、とりあえずここが国府と国に認められました。)

この国府の入口門は石岡駅側(東側)を向いています。従って、奈良平安時代の官道は当然国府跡の東側にあったことでしょう。

この国府があったとされている場所には1346年に大掾氏が府中城を築き1590年まで続きました。
この場所に城を築く前は、後に外城(とじょう)と呼ばれる場所(岡田稲荷神社)に城(1214年築城?)がありました。
この外城というのが茨城郡の郡衙(ぐんが)があった場所ではないかと言われ、近くに大きな茨城廃寺の遺跡が見つかっています。

この茨城廃寺の建立された時期が不明ですが、西暦752年に完成したとされる常陸国分寺よりも古く、8世紀初頭の頃と思われます。
一方の国府跡も7世紀後半ころからの遺構もあるので、国府の建物と、茨城郡衙の建物が少し離れてあったものと思われます。

 2年程前に6号国道のバイパス道路建築のために通過地点となる場所の遺跡発掘調査が行われました。
この時に、石岡と高浜を結ぶ通称「高浜街道」沿いの中津川で旧東海道のものではないかと思われる官道の跡が見つかりました。

この道を延長すると石岡の国府跡の東側を通り、国分尼寺から鹿の子遺跡につながります。
国分尼寺横の道は昔国分寺の瓦を焼いた「瓦会」を通り宇都宮まで続く「宇都宮街道」と言われた道になります。
この道はその後の変革でほとんど忘れ去られ、消えてしまっています。

では中津川遺跡である官道の遺跡は何を語っているのでしょうか?
今まで古東海道を調べていた学芸員さんや学者の間で想像していた場所とはかけ離れていた所だったようなのです。

私は、やはり古代の道は海(現霞ヶ浦)を抜きには考えられない証拠だと思っています。

常陸国風土記にはこの高浜の浜については次のように書かれている。

-------------------------------------------
「花香る春に、また落葉散る秋に、乗り物を走らせ、舟を漕いで出かける。春には浦の花が千々に彩り、秋には岸の紅葉が百々に色づく。野辺に鴬は歌ひ、水辺に鶴は舞ふ。山里の男たちや海浜の娘たちが、次々に集まり、商人や農夫たちも舟を急がせて通ふ。夏には、朝夕に友を呼び、下僕を連れ、浜辺で海を眺めて過ごす。波を蹴立てて寄せる風に、暑さや気怠さを忘れ、岡の陰が長く伸びるころになると、涼しさもひとしほである。歌はれる歌は、

 高浜に来寄する浪の沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば

(高浜に寄せ来る波が、どんなに沖から寄せ来ても(他の女が寄って来ても)、私の心が動かないのは、あの娘に心を寄せてるからだ。)

 高浜の下風 ( したかぜ ) さやぐ妹を恋ひ 妻と言はばや しこと召しつも

(高浜の浜辺の下を騒がしく吹く風ではないが、恋するあの娘を妻と呼びたい気持ちがこみあげてくる。こんな私だのに。)
-------------------------------------

常陸国に赴任した国司たちはこの高浜から舟で鹿島神宮にお参りに行ったのです。
しかしこの昔の霞ヶ浦は海でしたので風が強ければかなり波が荒れて船が出せません。

そのために陸路で行く道も作られたのでしょう。
国府から高浜(国府(こう)の浜が高浜になった?)を経て行方の曾尼駅、潮来(板来)駅を経由して鹿島神宮へ続いたのでしょう。

ですから、古東海道はこちらではないのです。海を渡ったのです。

信太郡の美浦村あたりから船で対岸のかすみがうら市へ渡るのが最短ですが、波が少し静かなら、高浜にまで行かずに菱木川を遡上したのかもしれません。

なにしろ、馬での移動などはあまりなく、奈良平安の乗り物と言ったら「牛車」です。
悪路でも牛がのんびり引く車に揺られてやって来たのでしょう。

その後、前九年の役で源頼義と源義家(八幡太郎)親子がやってきたのは「正月平」を通ったことになっているので(これは私が信じているだけかもしれない)かすみがうら市の出島地区を横断しているように思う。

一方、子安神社と胎安神社の間を鎌倉街道と呼ばれた道があったというが、これを古東海道の道との紹介があちこちに載っている。
しかし、この間にあった道は現在のまっすぐな舗装道路より少し東側に旧道があり、この先は江後田を通りやはり霞ヶ浦を渡ったと考えるべきであろう。

なぜなら、天の川に架かる橋が、壊れて通れなくなっていたので、子安・胎安神社にやってきた八幡太郎義家たちがこの橋を修復したと神社での記録には残されており(言い伝えかもしれぬが)、この神社に来るときにはこの川を軍勢はわたっていない。
また今の天の川より南の土浦までの道は今から39年前の昭和49年に、茨城県で国体が行われた時に整備した「国体道路」であるのだから。

笄崎(こうがいさき)の地名も、弟橘媛(おとたちばなひめ)の笄(こうがい)が流れ着いたとの話からもし来ているのだとすると、菱木川を上ってきたということも十分に考えられる。(地名の記事はこちら

なんともロマンが広がる。

それと、前に書いたが国府の駅家(うまや)は6号国道の貝地の交差点の少し北側にあったのではないかと考えています。(記事はこちら
この近くには府中六井の一つで平景清が産湯をつかったという言い伝えまである「室ヶ井」があった。
駅家としてはこの井戸が役に立ったのかもしれない。

好きなことを書いたが、今の土浦で行われている古代の道のルートとはかなり違うので、解釈は今後の発掘調査などで次第にはっきりしてくるでしょう。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/02 19:05
コメント

管理者のみに表示